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前進

「金閣寺」 (三島由紀夫著、1956)

ある人が優れた文学に出会った時、その作品に対する感想をその読後に求めるのは、あまりいいことでは無いような気がします。
優れた文学は、読み終わった直後から読者の血肉となってすでにその存在の一部に混ざり合っており、それについて意見を求められても、すでに自分と見分けのつかなくなっているそれについて語ることは、大して意味を持たないと思うからです。
これは、読者の年齢や、作品のジャンルに関わらない、普遍の原理ではないかと思います。

特に隠していたわけでもありませんが、僕は「とんび」というハンドルネームで、よくこのHPからもリンクを張らせていただいているすえさんのHPにお邪魔しており、よく、少々Hな小説を投稿させていただいています。
「Hな」といっても、別に高度な芸術性のある文章というわけではなく、普通の、ありていに言えば僕の妄想を文章化したものです。その上、主な題材として扱っているのは、このHPでも一つコーナーを設けているほど僕が「好きだ」と公言して憚らない某アニメーション作品のキャラクター達で、ここ「こどものくに」では真面目にそれについての作品論をぶちながら、一方では同じキャラクターに、いかに色っぽい格好をさせるかということに、心を砕いています。

そうして、自分のキャラクターとして動かしてみることで、色々と解って来ることがありました。
他人の創造した借り物のキャラクターだからこそ、僕の手の中に囲い込んでしまっても、僕の想像を超えて自由に動き回ります。そのキャラクター達に付き合っているうちに、彼女らと共に過す時間がこの上なく楽しいものになってきて、まるで連載小説のように続編が次々と書かれて、本来ならば9月中にも書き上げられるはずだった僕のオリジナル小説は、一向に物語が進行しません。そちらの登場人物達は、いつまで経ってもてなしもの精神世界から出られないことに苛立ち、H小説のキャラクター達を恨みはじめてすらいるかもしれません。
借りたキャラクター達は、とにかく快活に、僕の妄想を具現化して、のびのびと動き回ってくれるのです。僕の知らなかった彼女らの魅力を、僕に知らせてくれるのです。

僕は中学生の一時期、「本を読むために本を書く」という考えを持っていたことがあります。文章を書いた分だけ、本が読めるのだと自分に言い聞かせていたのです。普通は逆なんでしょうが、そうして入れ替わりが起こってしまうくらい、僕にとって文章の消費と生産というのは、密接な関わりを持つものでした。
今回、読書週間という企画を行ってみて、一番利益があったのは、僕の精神に、また幾ばくかの栄養を注入出来たことです。
借りたキャラクター達も、出番を待つオリジナルキャラクター達も、こうして精神土壌に新たな滋養が加わったことで、瑞々しい艶を持って改めて文章上に現れることができるでしょう。
問題があるとすれば、今回の企画で、僕が改めて読書という快楽を認識してしまったことで、読書に取られる時間が、又僕のオリジナル作品の創造の時間を狭めることになるかもしれないということでしょうか。まあ、それはそれで彼らには、ひたすら待ってもらうしか無いんですけどね。

というわけで、今回の秋の読書週間企画は今日でおしまいです。
きっといつか、HPのネタが無くなった時や僕の心が乾いた時なんかに、再び突発的に行うかもしれませんが、その時は又、この駄文にお付き会い下さいませ。
・・・・・・あ、「金閣寺」の感想がまだでしたね。
僕の好きな禅の「公案」の話がいくつか出てきて、その部分が特に興味深く読まれました。あとは、おいおい僕のH小説の中などで、この小説を読んだ成果みたいなものを吐露していくことと思います。一編の小説に、読む前と読んだ後でこれほど自身の変化を認識させられたのは、京極夏彦氏の「姑獲鳥の夏」を読んで以来でした。

すっきりさっぱり

「海が聞こえる」「海が聞こえる2アイがあるから」(共に文庫版) (氷室冴子著、株式会社徳間書店、1999)

読む前は、もっと心が疲れるようなどろどろした青春小説なんじゃないかと身構えていたんですが、取り越し苦労というやつでした。
思えば、こういった「青春小説」みたいなものに、僕は読む前から構えてしまう癖があって、それが僕の過去のいかなる読書体験(もしくは実体験)に基づくトラウマなのかということを、ちょっと時間をかけていつか真面目に考えてみたいものです。

まあ、そんな話はいいとして、物語は、大学進学で東京に出てきた主人公の、高校時代の回想シーンと、下巻にあたる「アイがあるから」に入っての、東京での主人公の生活を中心として語られていきます。
主人公は、男の僕でも好きになれるような、ちょっと善人で、適度に要領がよく、そのくせ曲がったことは夢にもしようと思わないような、イイ奴です。あと、結構田舎者です。

主人公が、すんなり感情移入できて、いつのまにか自分と重ねて感じられるような奴なので、作品自体を素直に読むことができたと思います。
活字が大きく挿し絵も多い文庫版ですが、それなりにボリュームもあったのに、あれよあれよという間に二冊とも読み切ってしまいました。最初から最後まで、はらはらドキドキではなく、遠くから気持ちいい景色を眺めているような気持ちでいられる小説でした。
大学進学といえば、ちょうど、岩井俊二監督の映画「四月物語」を最近見たところだったのですが、描かれている舞台や扱っているテーマがとても近いわりに、これを読んでいる間は少しも「四月物語」のことを思い出しませんでした。それは、僕の中では、ジャンルの違いを超えて、作品としてのグレードが「海が聞こえる」の方が勝ちってことなんだと思います。

実は「名作」では無いのかもしれません。名作というのは、いつの時代の、どこに住んでいる人が読んでも面白いと思えるものであるという定義がありますが、この小説は、地方の都市化が進む現代日本の、今の空気を肌で感じている僕らが読むからこそ、楽しめて、意味が見出せる小説なんだと思いました。


ところで、昨日や一昨日のこのコーナーの文章を見返していて思い出したことがあります。僕は昔から「読書感想文」というのが苦手だったんです。
僕としては、これを機にノルマとして本を読めているので、かえって読書に集中できて、また選択を冒険していないお陰か良書に出会えていることもあり、なかなか充実した企画であるなあと思っているのですが、かくもつまらない読書後の独り言みたいなものをずっと読まされていては、いつも見に来て下さっている皆さんも離れていってしまうのではないかと思いつつ、かといって、では何を書けば皆さんに面白がってもらえるかといえば、別に何をしても確たる自信もないわけで、よく考えてみるとそもそもこのHPの最初のページに、このHPは「寝言のようなもの」と明記してあるわけですから、そんな事に気を煩わす必要も無かったかと、一人合点する秋の一日なのでありました。

かわるわよ

「変身」 (カフカ著、1912)

とても有名な小説だけに、冒頭の「ある朝、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目を醒ますと・・・・・・」のところや、全体の大きな話の流れについては、知っているつもりでした。

すみません。ブンガクは、人に感想を聞くものではなく、自分で読まねばならぬものでした。

この読後の、後味の悪さと爽快感のない交ぜになった不思議な精神状態は何なのでしょう?途中から読者の感情移入を拒みはじめるグレゴールの虫っぽい行動と、そんなグレゴールをもはや家族と思えなくなっている両親と妹の醜いけれども理解出来る精神状態は、グレゴールの死によって解き放たれ、残された家族は前向きに活動をはじめてしまいます。
しかし、飢え死に直前のグレゴールが、最後にとった行動は、その妹のことを思ってのものではなかったのか。そんな風に、グレゴールが最後の瞬間まで人間らしい意志と感情を持っていたということを知るのが、乱暴な老家政婦だけであるというのは、悲劇ではないのか。これだけの悲劇のはずなのに、読後、僕の心に沸き上がる爽快感はなんなのでしょう?

僕は、最初、ある日突然毒虫になり、家族の厄介ものになってしまったグレゴール・ザムザが、他人のようには思えず、強い感情移入をして読んでいました。
仕事を辞めて、実家に戻ってしまった自分が、重なって感ぜられたからです。ただし、グレゴールが毒虫になってしまったというのは、現代に生きる僕が解釈しやすいような比喩表現ではなく、そのままの、SFのような出来事であるという認識ははっきり持っていましたから、無意識のうちに、どこかで感情移入に制限をかけてはいたと思います。
しかし、僕がそんな面倒な精神の働きをしなくても、僕はじきに感情移入を解いてしまったことでしょう。グレゴールの行動は、しだいに人間らしさが薄れ、だんだんと虫の意志になっていってしまうのです。このあたり、多くのホラー映画や小説なんかに引用されている描写だと思います。みんなきっと、そういうシーンでは「変身」がやりたかったんでしょう。
こういった、作品の内包する高度なブンガク性とは別の部分で他のものに影響を与えているというのは、なかなか興味深いことです。

これぐらいスムーズに心の中に入ってこられると、ずっと潜在意識の中に残っていて、あるとき何かの拍子に心の表層に飛び出してきて、僕に思いもかけない行動を取らせたり、突飛な発言をさせたりしそうな、そんな力を秘めた小説であると思いました。
まことに、名作ブンガク、おそるべしです。

しゃき、しゃき

「巷説百物語」より、「小豆洗い」 (京極夏彦著、株式会社角川書店、1999)

このHPでのこういった話の役割を考えますと、本来は「妖怪の話」で扱うべき本かもしれません。

「小豆洗い」は、ミステリー小説の形式をとり、妖怪と、それにとり憑かれた人々を描くことで、人間の真の姿を小説中に描き切ろうとする異色の作家、京極夏彦氏の、江戸時代を舞台にした時代妖怪小説シリーズの一作です。
しかしながら、僕は小説としての感想を今回は述べません。ある種の妖怪研究の参考文献として、ここでは扱います。
妖怪「小豆洗い」とは、主に日本の山中で、川の上流からしゃき、しゃき、というような、まるで小豆を洗っているような音が聞こえて来るという事象の妖怪名です。山深く踏み込む旅人や近隣の住民が、どこからとも無く聞こえて来るその音を不思議がったという話が、日本中にあるといいます。
さあ、この妖怪の正体は何なのでしょう。

作中語られるいくつもの小豆洗いの話の中に、まことに鋭いものがあります。「小豆を洗う音というのは、人間が立てるものである。しかし、山中異界には、本来人間はいないはずである」というものです。
現在のように登山道が整備されているならばいざ知らず、本来山々というのは人間の侵入など寄せ付けぬ異界です。例えば人界、街中で人が死んでいれば、すわ大事と人が集まり、街にそれなりの騒ぎが起こるわけですが、山中異界において人がぽつんと死んでいても、山はいつもと変わらずにそこにあり続けます。「異界」とは、そういう事です。
その、異界に、人の存在を現す音がしゃき、しゃき、と鳴り響く。
妖怪は、人が恐れを抱くところに現れるもの。この場合、人が恐れているのは、「山」ではなく、いるはずのない「人」です。人は、やはり人が一番恐いのです。

この小説「小豆洗い」も、山中で雨宿りをすることになった人々が、百物語をするうちに、「人に対する恐れ」から、一人の人間が命を落とすという話です。それはまさに、「小豆洗い」に惑わされた、としか言いようの無い命の落としかたでした。

いつもながらの恐るべき筆の冴えで、読者を妖怪世界に引きずり込んでくれる京極夏彦氏。
今回、同書「巷説百物語」に綴じられているのは七つの妖怪話です。
後六つ。
無意識にページをめくる指が、気がつくと震えています。

溜息が出るほどの叙情

「伊豆の踊り子」 (川端康成著、1926)

恥ずかしながら僕は、今回が川端康成初体験です。
伊豆をまわる旅をしていた主人公の学生は、旅芸人のグループと行動を共にする事になり、打ち解け、笑い合い、そして別れます。
踊り子の少女にほのかな恋心を持ち、踊り子は主人公になつきます。ほんの数日の出来事ですが、それは主人公の心に温かい感情を膨らませ、別れて乗った船の中で、主人公は涙に暮れます。
生生しさや、惨めさが極力排された、後味の良い、美しい小説です。そういったものに包まれて、これだけ素直に箱根の自然美が描かれているのですから、五度も映画化されたというのもわかります。

また、この作品のヒロインである踊り子は、とても強い少女の殻を被っていますから、銀幕のヒロインに処女のイメージを持たせる意味でも、この作品の映像化は有効だったのでしょう。
映画といえば、日本でロードムービーが発達しなかったのは、おそらくこの小説のように、一山越えると海に出てしまうというような日本の狭さや、もしくは、それぞれの土地に縛られてしまう日本人の性質に原因があるのかもしれない、などと頭に浮かんできました。

それにしても、当然のことですが、この小説は面白かったです。読みながら、自分の心がいいように揺れるのがわかって面白かったです。
文芸春秋社の現代日本文学館のものを手に取ったので、これには一冊の中に十三もの作品が納められており、他にも短編を二、三読んでみたのですが、わりと僕好みの珍妙な話が多く、楽しめました。
まだ目を通していない有名な作品もありますから、近いうちに集中して読んでみようと思います。

小説の話

小さな街の書店の、自分の背丈を越える書架に居並ぶ書物の群れを眺めてみます。
そこにある、文庫、雑誌、マンガ、新書、エッセイ、絵本、その総ての中のおそらく1%も自分は読んでいません。
情報は、手に届くところにいくらでもあり、こちらが消費する以上のスピードで供給されます。
新聞、TV、インターネット等から伝わって来るそれらは、無意識下で自分を構成する要素になりながら、そのほとんどは初見以降、再び意識に上ることなく破棄され続けます。

必要なのは、情報を分別し、整理し、実際に行使する能力です。
読書体験は、それらの能力を鍛えてくれます。
本の外の世界が定めるだけで、本自体には、良も悪もありません。読んだ自分自身がその価値を定めるのです。
それを繰り返すことで、自分の心の形が定まっていくのです。
この成長は、死ぬまで続きます。

「小説の話」というコーナーではありますが、取り扱うのは世に溢れる文字コンテンツ全般のつもりです。
ブンガクに偏るつもりも毛頭ありません。
このコーナーが、「こどものくに」設立当初から予定されていた企画の、最後の一つです。

これから先、自分が何をしていくのか、不安で一杯です。


紹介タイトル

「シェルブリット」 (幾原邦彦・永野護共著、株式会社角川書店、1999)(10月2日)

「伊豆の踊り子」 (川端康成著、1926)(10月3日)

「巷説百物語」より、「小豆洗い」 (京極夏彦著、株式会社角川書店、1999)(10月4日)

「変身」 (カフカ著、1912)(10月5日)

「海が聞こえる」「海が聞こえる2アイがあるから」(共に文庫版) (氷室冴子著、株式会社徳間書店、1999)(10月6日)

「金閣寺」 (三島由紀夫著、1956)(10月7日)

人は、どこまで行けるのか

「シェルブリット」 (幾原邦彦・永野護共著、株式会社角川書店、1999)

遠い未来の話です。
人類は、ジーンライナー、ジーンメジャー、ジーンマイナーの3つに分化しています。ジーンマイナーは僕らとほぼ同じ人類。ジーンメジャーは遺伝子的に進化した特権的階級。そしてジーンライナーは、自分の体を宇宙船に変化させた、もっとも進化した人類。
巨大な富を生む宇宙交易は、宇宙で最も速い移動物体であるジーンライナーたちに独占され、星々の地表や政治権力はジーンメジャーが支配している世界。
主人公は「最速のジーンライナー」ローヌ・バルトの新しい乗組員となった、ジーンメジャーのオルス・ブレイク19歳。彼は、とある理由で、最も危険な船外活動任務「シェルブリット」の要員になります。
彼は、苛立っています。世界のあらゆる事に。僕らと同様に。
物語の骨格は、戦闘ロボット・シェルブリットを通しての、オルスの成長物語といえるでしょう。彼のまわりには、明るく話し掛けて来る同僚の女の子、厳しい上役、操作の難しいロボット等、正統派ロボットSFとしての実にスタンダードな配置がなされています。
しかしながら、作品の根底に流れる、ある種の狂気じみた主張が、この作品の印象を今までに見たことのある全ての創作物から逸脱させます。
似た主張を掲げた作品があったとするならば、それはやはり幾原監督と、その制作グループ「ビーパパス」によって作られた「少女革命ウテナ」だけでしょう。
シェルブリット同士の超高速の宇宙戦闘、抽象的に人間の行動をパターン化するライフゲーム・プログラム、ありとあらゆる小道具にいたるまで機能的に計算し尽くされた宇宙船等、胸踊るようなSF的シュチュエーションの向こうに、殻から出られない人類の苦悩と、「父親」になろうとする者の疾走と、一切に構わず、無情に流れる現実が横たわります。


それにしても、この二者の名前が月刊ニュータイプ誌に並んで載っていた時には、その手があったかと、思わず手を打ち鳴らしました。共に最上級に尊敬するクリエーターでありながら、その二人が共同で作品を作ることがあるなんて、その瞬間までまったく想像していませんでした。
この作品は、永野氏による設定画が章ごとに挟まれた幾原氏の手による小説、という、これまた想像もしなかったフォーマットで発表されたわけですが、どうやら、今後は何らかのメディアミックスも予定されているようです。アニメや、ゲームになるという噂が僕のところには聞こえてきていますが、実際のところはよく分かりません。
とりあえずは、今冬に発売される「シェルブリット2 ABRAXAS」を胸を躍らせて待つとしましょう。二人が、待っているファンを裏切らないタイプのクリエーターであるということは、それぞれの代表作、「劇場版ウテナ」と「F.S.S.」で証明されているわけですから。

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