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製作者略歴

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(↑今日もPCを前に思案する管理人)

ハンドルネーム:てなしも、とんび、源静夫(同一人物です)

生年月日:昭和51年5月4日

身長:165cm

体重:65kg

趣味:考え事

好きなもの:川瀬爽さん、長野の山々、関節技、そよ風、創作活動(Hなもの含む)、うなぎ、音のなるおもちゃ、瓜、油揚げ、ガメラ、マンガ、ウィザードリィ、PSO、押井守、ウテナ、吉野家、あずまひでお、その他面白いもの全部


 自称「妖怪研究家」。そして、狐の眷族であるとも言い張っている(写真を見る限りでは別の動物の眷属のようである)。
 どうやら目標の仕事に就きつつあるらしい。今は毎日が踏ん張りどころと自分に言い聞かせている。
 2002年のテーマは「人並みに稼ぐ」。HPの感想やご意見などございましたら、どうぞ気楽にメールを下さい。

horiuti☆mue.biglobe.ne.jp
※スパム避けにつき、☆を@に置き換えてください

憧れの一人暮らし(のようなもの)

 東京に出てきたのが8月の9日ごろでしたから、もう半年ほども経ったことになります。
 皆さんお元気でしょうか? ご無沙汰しています。僕は元気です。
 夏の暑さにもかなりやられましたが、東京は思ったよりも冬寒く、名古屋に居た頃よりも部屋では厚着をしています。日々の暮らしは順調です。
 近所にスーパーが数軒あって、生き残り競争が激しいのか野菜や魚がそれぞれに安く、ほぼ毎食自炊をしています。初めの頃は失敗もしましたが、同じ料理を三度づつ作るようにして慣れ、いまでは料理のレパートリーもそこそこ増えました。この時期はやはり鍋ですね。

 今は、僕の最初の本の出版に尽力をして下さった、先輩作家さんのお宅の一室に、間借りをして暮らしています。そういう意味ではまだ全然一人暮らしではないのですけれど、自分で家賃を払っている四畳半の一室に居ると、小さなヨロコビが湧いてきます。そんな気持ちは引っ越してきて初めのうちだけかと思っていましたけど、いまだに一人でニヤニヤしていることがあったりします。
 「最初の本」などと言いましたが、まだ二冊目の本は出ていません。初めていただいた「原稿料」はとうに使い切ってしまい、別の収入で今は糊口を凌いでいますから、まだ作家は自称できない立場です。かっこつければ書生さん、今の言葉ならやはりプータローでしょうか。
 それでも、毎日楽しく過ごせています。

 最初の日、床に雑巾をかけてから、何も無い部屋でゴロリと寝転がりました。
 手足を伸ばしても四方に何も触れるものはありませんでした。広いと思いました。
 荷物がやってきて、今では部屋にコタツまで買い、また本棚の一角はダンボールから出した書物を適当に押し込んだきりになっているので、まさしく男の部屋というか、今はかなり雑多な部屋になってしまっています。それはそれで快適に感じてたりして。

 東京は良いです。
 いつ頃からだったか、僕はこの街に住みたいとずっと思っていました。
 このHPで一番最初に掲載したテキスト、このコーナーの最初の「バベルの塔」が、この街には数え切れないほど建造されています。
 街を見て、僕はものを思います。
 思考が溢れて、指がキーボードを叩きます。


 また途切れ、途切れにはなると思いますが、このHPの更新を再開します。
 良かったら時々遊びに来てみてください。

99年8月から03年2月まで載ってました

目標がはっきりしていると、毎日の生活にもめりはりが出て来るというものです。

大学で社会学なんか勉強して、いろいろ考えてみたんですけど、「高度成長期が終わって、これから日本が目指すべきもの」というやつに、一つ良い考えがあるんです。
日本を、21世紀の100年間をかけて、「こどものくに」にするんです。
子供というのは、欧米的価値観では、「未完成な大人」でしかありません。カルチャーは大人のものであって、子供が自己主張をすればそれは、大人のメインカルチャーに対するカウンターカルチャー、もしくはサブカルチャーとして扱われるものになります。
ところが、日本の価値観では、子供は尊いものであって、大人に対しての未完成だったり相対するものだったり副次的なものだったりしません。
日本では、子供は子供として存在しうるし、大人には子供に対しての憧れを持ち続ける文化があります。
異なる二つの価値観がある時は、お互いに認め合わなければなりませんが、決してどちらかが劣っているということも、また、ありません。
で、実際に日本の未来像「こどものくに」が何をするのかというと、

1・国際紛争における、国家としての、人的義務の放棄
2・1における放棄の代償としての、技術的、文化的国際貢献
3・2における国際貢献の最大のものとしての、こども文化国家の設立

世界の国からは、もう日本は子供扱いしてもらいましょう。
最先端科学の行き詰まりが叫ばれて久しい昨今、これからの地球に住む人々の豊かさのためには、科学の進歩に伴うハードウェアではなく、文化や哲学、思想を含めたソフトウェアの充実が必要です。
製造業以外で、日本が今得意なものといえば、マンガ、アニメ、ゲーム等、欧米的価値観でいえばサブカルチャーで片づけられてしまう「こども向け」ソフトウェアです。
でも、サブカルチャーとメインカルチャーという対立の構図から離れてみれば、人を楽しませることの出来る「良い文化」がそこにあるってことは、日本人なら何の抵抗も無く理解出来るはず。
この思想的スタンダードを欧米メインカルチャー人たちが理解するまでにかかる何十年かの間に、日本は文化で大きく彼らを引き離してしまいましょう。
欧米の大人たちが「こどものくに」の思想を無視してきたらどうするかって?
簡単です。彼らにそんな事はできません。必ずや、彼らの子供たちは、「こどものくに」日本へ憧れ、行ってみたいと親に熱望するからです。
思想の未だ備わらぬ子供は大人よりも事実を見ることが出来るってことです。
その時までに、我ら日本人は世界の人々を楽しますことの出来るソフトウェアを、そのソフトウェアを実現出来るハードを、汗水たらして作り上げるのです。
「世界中の子供たちが、大人になるまでに一度、訪れる国」
目標としては、なかなか夢があってよいと思いませんか?


「国家の思想」としては甚だ脆弱、されど、何千年と繰り返してきた人類の悲しい歴史や単なる欲望の具現化の思想より、僕はこの考えを広く日本に、そして世界に知らしめたい。
21世紀の日本をどうしていくかという勉強会を行ったそうですが、その結果が「富国美徳」なんて、孔子の時代から進歩が無いですよ、小渕さん。
世界のみんなで、得意なことを分け合って、恒久に平和な地球を作りましょうって、日本は世界に先駆けて言い出す事の出来る国ですよね。

(「こどものくに」実現に関する思想的、実務的アイデアを募集しています。単純な意見や感想などもございましたら、気軽に会議室の方に書き込んでみて下さい。このコーナーでどんどん取り扱っていきます。)

楽しい旅行でした

11月26日

 会場であるパシフィコ横浜の最寄駅に着いた段階で、すでに人が溢れかえっていました。
 人の波に乗って道なりに歩いていくと、駅から出てすぐのところに、はやくも

「今から並んでも入場出来ないかもしれません-ROBODEX2000」

というプラカードを掲げた、すまなそうな表情のお兄さんがいました。
 かまうこっちゃねえ、突き進め! と入り口近くまで行ったのですが、そこには無情にも「当日券は売り切れ」の看板がありました。

 無念ですが、そこで歯噛みしていたところで何も事態は好転しません。
 とりあえず、まずは昨日のうちに上野公園の催し事を見ておけてよかったと思いました。それは、ロボット展と同じくらいに、普段見ることが叶わないものでした。
 よく考えたら、いつもは新幹線で素通りするだけの横浜です。中華街とまでは行かなくても、せめてそこらの面白そうなものを見て歩こうということになりました。

 そこでまたいきなりの予定変更。
 もっとあちこちうろつこうと思ったのですが、すぐ近くで行われていた大道芸人さんのショウに魅入ってしまいます。
 はじめはちょっと立ち見をしていただけだったんですが、何時の間にか階段に座り込んでしまい、最後には拍手と歓声で、そのイギリスからやってきたと自称するジャグラーさんの芸に引き込まれておりました。
 格闘技観戦をしていても思うのですが、やっぱりライブというのは面白いです。
 目の前で、火のついたたいまつのお手玉や、2メートルもの高さの一輪車、スティック、ボール、チェーンソーの異種お手玉、火食い、などなどを見せてもらえると、寒空も気にせずに熱く声援を送ってしまいます。
 お客を整理してきっちり自分の芸を見せ、子供たちの心を掴み、大人たちを感心させて、最後には大きな袋にいっぱいにおひねりを入れさせる、プロの技を拝見することが出来ました。
 もちろん僕も、千円札一枚、袋に入れました。
 今思うと、途中で手伝ってくれる子供を募って、芸が上手く行った後にお駄賃として千円札をよく見えるように振りかざしてからあげていましたが、あれは僕ら観客に「千円札」を認識させることで、基本的な見料の相場を示していたのかもしれません。まあ、適正価格ですね。
 気がつけば、随分時間が経っていたのでした。

 その後、また秋葉原まで戻ってココ一番屋でカレーを食べたり、ラジカンで妖怪グッズを買ったりいろいろありましたが、その日のうちに新幹線で名古屋へ帰ったのでした。


11月25日

 前夜、静岡の露天風呂付き高級ホテルで一泊と洒落こみましたが、この日の晩は3900円のカプセルホテル泊が内定しておりました。
 朝食のバイキングは、好きにご飯やパンやおかずを選べる他に、卵と魚をコックさんが目の前で調理してくれるという豪勢なもので、それを朝からお腹いっぱい楽しんだ後、僕は二度目の露天風呂を楽しみました。
 ほんのりと雲が出ていて、うたい文句の「富士山まで一望」は叶いませんでしたが、目の前に広がる太平洋の大海原、青い空、長時間浸かってものぼせない適温の温泉。僕以外にほとんど利用者が無く、ぷかーっと浮いて湯と地球を満喫します。ああ、水平線だ。
 このとき僕は思いました。全世界の歴史を見渡しても、今の僕くらいに自分の努力によらずに贅沢を満喫している人間は、いないんじゃなかろうかと。
 のぼせてきたら、湯から上がって朝の潮風を受けます。そしてまた湯に沈みます。
 そして飽きる前に湯から上がって、ちょっと後ろ髪を引かれながらも露天風呂を後にするのが、贅沢の完成です。
 置いてあった無料のオレンジジュースをぐいっと一杯。さあ、東京に出発です。

 同じく東京へ帰る叔父と新幹線で話しこみます。
 日本中、場合によっては世界中を旅する仕事をしていて、話が面白いので有名な叔父です。
 仕事の合間を縫うようにして強行日程で行ってきたシドニーオリンピックの話をいろいろ聞かせてもらいます。
 シドニーに生息する身長2mのオカマさんとか、そんな話を伺っているうちに列車はすぐに東京へ着きました。

 上野公園へ。
 今回の上京も、元はと言えば、急に開催されることを知ったロボデックス2000を見るために急遽組んだ日程だったわけですが、この上野公園訪問はさらに急日程、僕の興味のある催しが行われているのを知ったのが出発二日前で、見に行くのを決断したのは出発してから、前日の24日でした。
 平成館とやら名前のついた四角い建物で行われていた「中国国宝展」、これです。
 入るとすぐに、全般にまろやかなラインで形作られた仏像がだだーっと並んでいます。1000年も前にそれを作った人々の情熱と執念が伝わってきます。
 魅力的な展示物は多かったのですが、人が多かったのと時間が無かったのを理由に、ほとんど駆け足で通りぬけ、いくつかのお目当てブツにだけじっくりと時間をかけて観賞しまして、小一時間ほどで新石器時代から中世あたりまでの中国の文化遺産を、ほんのさわりだけ楽しんだのでした。その後、間抜けなことに時間が余ってしまって、昨夜に読みかけた本を平成館の休憩コーナーで最後まで読んでしまったりしました。

 午後になって、インターネット上で知り合い、親しくお付き合いさせていただいている方とお会いし、喋って飲んで歩いて食べて、気がつけば日付も変わろうという頃になっていました。
 翌日横浜をごいっしょする方とは時間の打ち合わせを、こういう機会でもないとお会い出来ない方とは別れを惜しみながら、電車の時刻表に引き裂かれ、楽しかった会合が終わります。
 僕は、朝に予見していた通りに、行き付けの秋葉原のカプセルホテルに宿を取り、高級ホテルの羽毛布団よりこういうカプセルの煎餅布団のほうがぐっすり眠れる自分の貧乏性を呪いながら、快適な狭さにやがてまどろむのでした。


11月24日

 前夜も夜更かしをしてしまったがために、しょぼくれた目を擦りながら、午前10時30分、静岡に向かって出発です。
 高速道路は快適、すいすい進みます。
 途中、なんとかいうSAでご飯を食べました。そこはレストランが小奇麗なのを売りにしているSAで、洋の店舗と和の店舗の二つが入っており、僕は「八丁味噌ラーメン」にひかれて洋の店舗に入りました。(あれ?今考えるとなんだか変だ)
 小奇麗で、期待していたとおりには美味しかったです。野菜は契約農家からしか買わないとか、コーヒーお代わり自由とか、サービスも含めて、なかなかよろしい。でも、お値段ちょっと高かったです。
 トイレに行きがてらふと見ると、ターンAガンダムの200円ガシャポンが。
 地元で買い逃していたものです。いつもの、こんなところに置いてあってこんなの誰が買うんだろうなどと呟く人格をよそに向かせて、レッツトライ。1000円使ったところで、去年の今ごろプレイしていたドリームキャストのゲーム「シェンムー」の主人公と同じあやまちを犯しつつある自分に気がついて、立ち上がります。
 収穫は、龍角散くららちゃん、じゃなかったキエル・ハイム二つとMSフラット二つとターンAガンダム。ソシエ・ハイムが欲しかったのに、と後ろ髪ひかれながらも、いつもの「本当に必要なものならば、今手に入らなくてもいつかまた出会える論」を持ち出して自分の感情を納得させ、車に戻ります。

 静岡で、まず伯母の家に寄ります。
 3年前に来た時から、さらに緑の侵略が進んでいます。伯母は「みどりの指を持つ人」、つまり園芸の達人でして、家の中も外も観葉植物でいっぱいにしているのです。「みどりの指を持つ人」というのは、園芸を行う人間が誰でも憧れる、どんな植物でも不思議と枯らさずに繁茂させることが出来る人のことです。
 庭も改修されていて、小作りながらも整った趣味の良い日本庭園風になっており、小さく水も流れていて、去年連れ合いを亡くした長野の祖母が、冬場は気候の穏やかな静岡にあるこの伯母の家で、この庭を眺めて過ごすのです。静かに眺めていると、十種類以上の野鳥がやってくるのだそうで、そうやって自然の鳥が佇むことで完成するように作られた、贅沢な庭であるという印象を受けました。

 それから皆で、結婚式の行われるホテルへ。今日は従兄の結婚式に呼ばれていたのです。
 新郎新婦の希望で、お互いの会社関係者すら呼ばない、近しい縁者同士が顔を合わせるだけという慎ましい式です。
 ホテルに着いたところで、まだ随分時間があり、僕は浴衣に着替えて名物の景色のよいという風呂に向かいました。
 公衆浴場の作法通りに、まずは体をざあっと流し、きれいな体で湯殿に足を入れます。少し温まったら、ガラス張りの引き戸を開けて露天風呂へ。
 日が傾き始めたところで、世界は、視認できるかどうかぎりぎりのオレンジ色。海と薄曇の明るい空が同じ色をしていて、水平線が霞んで、大空と太平洋が溶け合ってしまっていました。

 勿体無くて、ため息を一つ。湯に手を入れ、僕ごのみのぬるさに喜び、静かに身を浸してもう一つため息。
 鼻歌でもと思ったのですが、どうにもしっくり来る歌が思いつかず、遡っているうちに小学校のころに習ったような唱歌に行きついて、ゆうやぁけこやけぇのぉなどと場違いに奏して自分なりに気分よくしておりました。
「何処から来たの」
 なんて、知らないおじさんが話しかけてきました。
 話をしてみると、なんだか御忙しい仕事をされている方のようで、明日は京都、昨日は東京で宿泊とのこと。
 ちょうど思い出したので、明日行こうかと思っている「中国国宝展」の名前を出したら、なんと昨日丁度見てきたところだと。あれは凄い、あれはよかったとおじさんの絶賛を受け、こういう偶然には何か意味があるはずだと納得し、僕は明日の朝の出立を少し早めて国宝展を見に行く時間を作ることにしたのでした。
 さらに話を伺うと、おじさんには息子さんがいて、その方は一度そこそこの企業に就職したものの、あまりにも無茶な就労条件に体を壊し、それでも働こうとしたのを家族で反対して会社を辞めさせ、いまはフリーターの境遇とか。なんだか僕と似ています。
 おじさんは、今の世の中、なんだかおかしい気がする、というようなことをぽつり、ぽつりと言いました。おそらくそれは、人間が人間として生まれて以来、何億回、何兆回と繰り返されてきた呟きだと思います。
 自分の生きている時代、自分の生き方、家族の運命、現実のそういったものに満足出来るのはほんの一部の人達だけなのではないでしょうか。
 何かしらの不満や、不安や、不幸のある人の方が絶対的に多数で、そして、いや、だから、この考えが何に結びつくのかは、まだ僕にはよくわからないのですが。

 結婚式が終わって、二次会のカラオケもやがて終息し、部屋に戻ります。
 布団に横になったものの、なんだか寝苦しく、僕はカバンから一冊の文庫本を取り出しました。人に薦められて買った『おもいでエマノン』というSF小説です。
 ちゃんとしたSFを読むのは久しぶりだな、と思いながら、読み始めました。
 エマノンという不思議な名前の少女が主人公の短編連作で、全体を通してみてもそれほど長いわけでなく、しかし、心に残る詩情を持ったお話ばかりで、その夜は、僕の記憶の中で従兄の結婚式を差し置いて、エマノンの夜だったと名づけるに至るほどの、静かな感動を僕に与えてくれたのでした。
 一息で読むのが勿体無くなって、途中で閉じ、布団に潜りこみます。
 布団の中で、僕の意識はエマノンを思って拡散します。
 エマノンは、ジーンズに荒編みのセーター、ENと刺繍された黄色いナップサックを持って、長い髪を払うのが癖。ちょうどそんな感じのジーンズとセーターを持っているので、長い髪は諦めるとして、黄色いナップサックを買ってくれば簡単にエマノンのコスプレが出来るな、なんて考えます。
 エマノンは、この地球に生命が生まれてからの、全ての記憶を持っている少女なのです。彼女は旅をしています。もう30億年にもなる旅です。それがどう終わるのか、なぜにエマノンはそんな能力を持っているのか、もっともらしい推論はいくつも出てきますが、誰にもわかりません。
 どうせ旅行をするなら、エマノンの格好でしてみよう、なんてミーハーなことを考えているうちに、今度は、短編の一つに出て来た、「宇宙」になってしまった少年の話を思い起こします。
 交通事故の現場にエマノンが居合わせ、その血液を輸血された少年は、それから30億年の記憶を自分の中に宿してしまい、それに苦しみ、治療の一環として逆行催眠をかけられているうちに人間から猿人、哺乳類、両生類、魚類、微生物、単細胞生物とその姿までも遡っていき……最後に「宇宙」になってしまい、そのまま夜空へ旅立っていくというお話でした。
 僕は、人という器を持ったまま、やがて眠りに落ちました。


 ロボットは、ロボットであることに、やがて悩むときが来るのでしょうか。
 そのとき、人は先輩としてその悩みに答えてあげることが出来るのでしょうか。
 今では遺跡だけが残る古代の人類の文化の中には、その答えがあったのでしょうか。
 三日間の日程の中で、ロボットあり、歴史あり、オリンピックあり、SFあり、露天風呂あり、大道芸あり、その他いろいろ、そして多くの出会いと、その語り合いの中での知性がありで、実に思うところが多かったです。

 ロボデックス2000をみることが出来なくて、いじけて逆順で旅行記を書きました。
 これを書いていて、今日も夜更かし、ちょうど24日の出発前と似た状況です。
 だからたまには、こんなふうに時間を逆回しにしてみるのも、刺激があっていいですよね。

秋の山々

 11月の11日、12日にかけて、信州へ行ってまいりました。祖父の一周忌です。
 祖父は、病状が悪化する直前の去年の夏、考えあってカトリックに改宗したため、墓石には、苗字の前にペトロという洗礼名が刻まれています。
 宗教が違うわけですから、例えば高いお金を払ってお坊さんを呼んだりする面倒がなかったりとか、三回忌とか七回忌といった仏教の風習にも関係無かったりするので、いろいろと勝手が違うなあとは思いながらも、やはりある程度カタにはまったものがないとということで、墓前にお線香を上げたりはしました。

 おりしも信州は冬の入り口でした。
 紅葉は盛りを少し終えた頃。信州の秋の山々というのは少々慎みが深く、色づいた葉が落ちきる前に雪に埋もれることで、禿げ上がってしまったみすぼらしいその姿を覆い隠してしまいます。
 ちょうど去年がそうでした。
 山中の焼き場に向かう車の窓からは、祖父の好きだった紅葉が、やや時期が遅かったにもかかわらず、山という山を赤や黄色や山吹色に染め上げていて、そのあまりの華やかな美しさに、葬儀の席であるにもかかわらず、僕らは歓声を上げてしまったものでした。
 そしてその翌日、北信濃一帯はその年初めての本格的な降雪にみまわれ、山々は冬の装いになったのです。
 祖父は大変にわがままなところのある人だったので、僕らは口々に、「おじいちゃんは最後まで、自分の見たいものを見て、周りの人の迷惑なんて考えない人だったね」と笑いあったものでした。

 今年の冬は例年より温かくて、11月に入っても、長野市で最高気温20℃を記録する日があったくらいなのですが、僕らが訪れる数日前から急激な冷え込みがあって、当日の墓地の気温は6℃でした。
 風もありました。僕は祖母に寄り添って、その手を引くのが役目でした。
 その寒さは、ちょうど生前の祖父を思い出させる厳しさがありました。
 寒い代わりに、墓地の桜の紅葉が一際美しかったのでした。
 桜は年に二度咲くのだなあ、などと僕はぼんやり考えていました。

 祖父の墓前で、隣で手を合わせる従兄にも聞こえないような小さな声で、おそらく、生まれてから発した声の中でも一番小さな音量で、僕は祖父に、文章を書いてご飯を食べていく道の、小さな小さな第一歩を踏み出せたことを報告しました。
 祖父は生前、僕の小説家になりたいという夢を、あまり快くは思っていなかったようです。趣味でやる分にはいいだろうが、好きなことを仕事にしてしまうのは辛いぞ、と二度語ってくれました。
 しかし、僕がやりたいことをやって、それで食べていかれるのなら、父や母にとっても一番嬉しいことのはずだ、とも言ってくれていました。
 そんなことを言う祖父ですが、実は祖父こそが、僕の近しい人の中では一番好きなことを仕事にした人でした。
 僕が思い描いている人生は、祖父の人生をなぞるところが多くあります。

 祖父については、またいつかきちんと書こうと思っています。
 戦前、戦中、終戦直後、戦後、高度経済成長期、そして近年。それぞれに、「信念と実行」の人だった祖父の面白いエピソードは山ほどあるんです。
 そしてきちんと、大きな大きな結果を残した人でした。

 これからも、ちょうどこの紅葉の時期に、たびたび信州を訪れることになると思います。
 紅葉や秋の味覚といった祖父のもてなしを受けながら、僕はこれからも生まれ故郷の信州を愛しつづけます。
 どこに住んでいても、帰る場所はやはりここなんだなあと、その山々を見るたびに僕は思い返すのです。


 ちなみに、一泊二日の旅行中、ソバは四回食べました。
 あと、田中新知事で話題の長野県庁も見学してきました。田中さんがんばれ。

誰にも言わないで下さいね

 雑誌を買いに、本屋に来ていた。

 なんだ、まだ出ていないじゃないか。
 しょうがない、何か他に出ていないか。

 何だ、あれは。
 なぜ、文庫の平積みの山の中に、匣(はこ)が置いてある?
 ボクの不安を掻きたてる、真っ黒い匣が、いくつもいくつも積み上げられて、あれではまるで。
 そうか。
 あれは文庫版だ。
 あの「魍魎の匣」の文庫版だ。
 もう、随分前に出たものだが、いまだに平積みなのだな。売れているのだろう。
 面白いものな、京極夏彦。分厚いのに、いくらでも読めるものな。

 う。
 違う。「魍魎」ではない。「魍魎」の文庫版は、講談社文庫の棚にきっちりと納まっている。
 これは何だ?
 表紙には・・・
 「狂骨の夢」と書いてある。

 馬鹿な。
 「狂骨」といえば、京極作品としては「姑獲鳥」についで薄く、手に持っても疲れない程度の厚みの本だ。
 こんな、「魍魎」と並べて遜色無い匣が、「狂骨」であるはずが無い。
 こんなにずっしりと重いはずは。
 なんだ。何か手にまとわりつく。
 宣伝の帯か。
 帯に何か模様が。
 じゃまっけだ。趣味の悪い。

 いや違う。これは文字だ。宣伝文だ。
 落ちつけ、文字があるなら読めばいいのだ。

 『加筆400枚』

 匣が「ほう」と鳴いた。

 ボクはその匣がひどく欲しくなって---
 一枚の千円札を取り出し---
 震える腕を抑えながら、二つを重ね、そっとレジに差し出した。

思う所あって、漢詩の本をいくつか入手しました。
漢詩文を素読し、いつかは創作までできるようになりたいと思っているのですが、とりあえずは、易しい書き下し文と砕けた口語訳の付いたものから手を付けております。
漢詩といえば、まずは中国最古の詩集である「詩経」にあたることになるわけですが、これに関する解説文の中で紹介されていた孔子の言葉にひどく感銘を受けたので、それをご紹介します。


「詩経」は儒家の経典の一つであるために「詩経」と呼ばれていますが、もとは単に「詩」と言ったんだそうです。
収録作品数は三百五編。これは孔子の時代からほぼ変わっていないようで、「論語」の中でも孔子は「詩三百」と言っています。
それに孔子はこう続けます。

「一言にしてこれを蔽(おお)えば、曰く、思い邪(よこしま)なし。」

「思い邪なし。」一編だけでも読めば胸がいっぱいになって食事も喉を通らなくなるような名詩文が三百五も集まった詩集が、この一言に要約されてしまいます。そこに歌われているのは、すべからく純粋な人の心なのです。
振返ってみて、今、僕らの身の回りに「邪なし」と言い切れるようなものがどれほどあるでしょう?
孔子は「古い時代へ帰れ」と事ある毎に言った人ですが、確かに、古には目を見張るような美しい道徳や人間の心があるなあとため息を吐いてしまいます。


「詩経」の内容の内訳は、恋の歌がまず過半数を占め、あとは農事を歌ったもの、結婚を祝ったもの、悪政を呪ったものなどです。
恋歌に、仕事の歌に、イベントの歌に、世相の歌と、今も昔も、人々が歌の題材に選ぶものは、あまり変わりが無いようです。人の心というのは、変わらない部分があるようです。
だからこそ、二千年以上昔に詠まれた歌が、今も人の心を打つのですね。


ちなみに、僕の買った本に載っている「詩経」の第一詩は、若い男が良い乙女を求めてあちこち探し回り、見つからなくて夜も眠れず寝返りを何度もうち、やっと見つかったらとにかくちやほやするという、本当に今も昔も変わらぬ男女の風景でございました。
さすがに笑ってしまいました。

変わらぬ営み

五月九日のことです。
毎年ゴールデンウィーク前後にこんな日があるものですが、僕の住んでいる愛知県西部の気温が突然跳ね上がって、昨日までは25度より下だったのですが、いきなり30度を越えました。
数値的にはっきりと表れた、夏の始まりです。

夕方からいつものように中型店舗の小売業のお店で店番をしておりましたところ、お客さんに声をかけられました。
「はい」
「アイスがドロドロですよ」
冷凍物用ショーケースの冷房装置がほとんど止まっていました。
すでに帰宅していた店長に慌てて電話を入れ、まだ商品として寿命のありそうなものから、どんどん裏の冷蔵倉庫に運び込みます。
普段からお客さんが少ないためにのんびりとした空気の流れている店内が、この時ばかりは大騒ぎです。
近所の社員さんも出てみえて、みんなでわらわらと半分溶けたアイスやら唐揚げやらでいっぱいのカゴを運びました。僕はなぜか冷凍枝豆の袋を引っつかみ、真っ先に運んでいました。もっと高価な商品は沢山あったのに。
思ったより早く、冷房装置の業者さんが来てくれて、あちこちいじりはじめます。
話をうかがうと、今日はそこらじゅうでこんな事が起こっているんだとか。大型の専門的な機械の故障ですから、当然、店員の手には負えず、業者さんが大忙しというわけです。
原因はやはり、急に上昇した気温のせいのようです。

その昔、季節の変わり目や、特定の記念日には、国を挙げてお祭りが開かれました。そういった「変わり目」に、一緒に大きな変化が訪れ、なにか自分たちの周りに大きな災厄が起こらないようにと、祈ったわけです。今でもその名残で、年末年始や個人の誕生日なんかは、自然にお祝いやイベントを行いますよね。
節分なんかはまさに「節」の「分かれ目」ですし、春分の日、秋分の日というのは、昼と夜の長さが全く同じという、まさに季節の変わり目の日なわけです。
こんなときには、何かが起こって当然。何も起こらなければ、それこそ信心の篤い人なら、神仏に感謝するのも当然でしょう。
その昔は神様に祈る専門の職業の方がいらっしゃったわけですが、現代では精密機械の専門職の方がそういう場合に出張ってみえるわけです。
こうしてみると、今も昔も人の営みにはあまり変化が無いように思えます。

機械を業者さんに任せて、アイスが売り物にならなくなってさらに暇な店内で、バイトの相方と取り留めも無い話をしているうちに、話題はレジ近くの棚に一大勢力をはびこらせているカップラーメンに移りました。
これが美味しい、あれは微妙なんて話しているうちに、やがて、即席麺というのは発明の才能が無いと言われている日本人が、世界に誇る三大発明の一つであると、僕が以前本で読んだ内容をとうとうと語りだします。
二つ目の発明品は炊飯器。これで、世界中の人々が、上手にライスを炊き上げ、美味しく食べられるようになりました。
そして三つ目は・・・。
僕は自分の話に夢中になり、それがどんなにすごい発明なのかを語りました。ローマ法王庁にさえ認められている、人類全体の知恵の一つなのです。
ふと見ると、相方の女の子はそっぽを向いていました。心なしか、頬を赤らめているように見えます。
はたと気がつき、僕は口を閉じました。しまった、女の子の前で、オギノ式避妊法の話なんて、するもんじゃなかった。

これも、初夏の陽気が招いた、ちょっとした災厄ですかね。

発想

現在でも続いている 超人ロック という歴史あるSFマンガに、「ニケ」という戦闘兵器が出てきたことがありました。
主人公ロックに自分の部隊を全滅させられたストロハイム少佐という軍人が、ロックを倒すために最後に持ち出してきた、本来は使用禁止になっている軍の秘密兵器です。
鎧に身を包んだ女神像のようなデザインの、特殊金属製の人間サイズの兵器です。使用者は専用のヘルメットを装着し、安全な遠隔地から特殊な無線を使用して操縦します。ニケのモニターに写ったものはそのまま操縦者の視覚に投影され、それらの情報を元に、繊細な判断が要求される潜入任務から、備わっている四肢を駆使した格闘戦、内蔵されている膨大な火力や特殊合金製の頑丈なボディを利用した体当たり攻撃などを使っての対戦艦戦闘まで、万能とも呼べる性能を発揮します。
その開発コンセプトは、「個人が使用できる最強の兵器」です。
ただし、この兵器のコントロールには人間の限界を超えるような神経の反応速度が要求されるため、操縦者は麻薬である加速剤を使用し続けなければなりません。それゆえに使用禁止の実験的兵器だったわけですが、ストロハイム少佐はロック憎さのあまりに、軍の倉庫からこれを強奪して使ってしまったわけです。
さらにこのニケは、コンセプトの優秀さからかその後も研究が続けられたようで、ニケマーク4なる後継機も後の話に登場しました。このように超人ロックというマンガは、主人公ロックをとりまくドラマの他に、兵器の開発の流れや人々の風俗が時代とともに変化する様などもさりげなく描写されていて、一度その面白さに気が付いてしまうと、なかなか離れることが出来なくなってしまいます。

ちょっと脇にそれてしまいました。今回の更新は、このニケのプロトタイプとでも呼びたくなるものが、実際に開発されたという話です。場所は日本の九州です。
といっても、軍事兵器としてではありません。人間サイズのプラスチック製の体を持った機械人形を簡単に遠隔コントロールできるハードとソフトのシステムを、福岡のある会社が開発したんだそうです。
TVのニュースのトピックスで見ただけなので詳しいことはわかりませんが、どうやら機体の下部についている車輪で移動するようなので、段差の多いところでは使用できないみたいです。
開発コンセプトは、ずばり老人福祉です。
家から出ることの出来ないご老人が、この機械人形を操縦して、近所の商店街で買い物をすることが出来るわけです。機械のカメラに写ったものは、動画で老人の元に送信されます。声のやり取りも出来るので、知ってる人にあった時に挨拶もできます。それこそ、自由に動かせる目として、観光に出かけることもできます。TVでは、実際に買い物をしているところを写していました。
さて、ここからが凄いのですが、このシステムは、機械の頭脳部分がソフトウエア中心で組み立てられており、メインコンピューターはなんと市販のノートパソコンなんです。しかも、通信部分は市販のPHSを4機同時に使用することでまかなわれており、新しいインフラ整備はまったく必要ありません。
その結果、ハード部分も含めて実際にはいくらくらいで発売されるのかわかりませんが、従来では考えられないような低コストでこのシステムは販売できるそうなのです。
製作者の社長さんは、遠く離れて住んでいる母の肩を叩いてあげる方法はないものかと考えているうちに、このシステムを思い付いたんだそうです。


お金をもってのそのそ歩いているような機械人形は、たやすくイタズラできてしまいます。交通事故を引き起こしてしまうことも多いかもしれません。
課題はいろいろありますが、この「もう一つの体」の発明は、ものすごい可能性を秘めているように思います。
なにより、いつか日本が「こどものくに」になった時、そういう機械が街をてけてけ移動していたりするのは、とても似つかわしい光景ではないですか。

その理由

僕らは、まず何より自分を大切にしなければなりません。
おぎゃあと生まれて此の方、嬉しいことも、楽しいことも、時には辛いことも悲しいことも、みんなこの体と精神があったからこそ感じることが出来たんです。
それらの感覚や、そういった記憶の蓄積は、他の誰でもない、自分だけのものです。例え親や兄弟だって、自分のこの感覚を全て共有してくれているわけではありません。
だから、自分で自分を守らなくてはならないのです。自分を守るためならば、何をしてもよいのです。自分を守ってくれるのは、まずは自分だけなのですから。

ところで、人は事ある毎に「人を殺してはいけません」と言います。
当然です。「人を殺してもいいですよ」と言ってしまうと、その相手に自分が殺されてしまうかも知れないからです。自分の大切な人を殺されてしまうかもしれないからです。
みんな自分を守るために、他人に対して「人を殺してはいけません」と言うのです。

ところで、本当に人って殺してはいけないものなんでしょうか。
論理的には、他人の存在の証明というのは、未だなされていません。そんな居るんだか居ないんだかわからない人の都合なんて、知ったこっちゃありません。「殺すな」って言われても関係ありません。そうすると、「自分が殺したいと思ったら人を殺していい」、ということになってしまうかもしれません。

でも、自分は死んでは駄目です。当たり前です。自分の存在証明というのは、有名な「我思う故に我有り」でなされているのですから、この世でただ一つ存在の確かな自分というものを、消してしまって良いわけは有りません。質量保存の法則だって、慣性の法則だって、そこにあるものは有り続けようとするし、そこに無いものは決して発生したりしないとしています。そこにあるものを消してしまうというのは、宇宙の科学の法則に反しているのです。

さて、論理では他人の存在は証明出来ていないわけですが、僕らは直感的には他人の存在を認めています。先天的に、他人が存在しているということを知っています。
論理や科学の世界ではありません。人ならば、自分以外にもこの世に他人というものがいるということを、知っているのです。
「他人」というのは、その「他人」自身にとっては「自分」です。想像力があるならば、他人の痛みや他人の悲しみを、自分に置き換えて想像することが出来るはずです。そうやって想像したとき、間違いなく他人は直感的に実在します。
論理だけで構築される世界を越え、自分の枠の外にあるものを想像したとき、人は他人をあらためて認識し、そしてやっと自分と世界との対話が始まるのです。

他人を殺すことは、自分を殺すことと全く等しいのです。
だから、人は人である限り、人を殺してはいけません。

コンピューターに計算させても、現時点でこの答えは出ません(いつか論理学が他人の存在を証明できるようになったらわかりませんけど)。
だからこそ、人は、人を殺してはいけないと、直感的に理解している限り、人なのです。
人種も民族も文化も常識も法律も関係ありません。意志あるものは、意志ある他者を殺してはいけないのです。
そしてそんな他人の存在を認めることができるほどの想像力の翼は、自分を守ると同時に、その持ち主にどこまでも豊かで美しい世界を見せてくれることでしょう。

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