記事一覧

今年は寒の戻りがあったりして、僕の住む辺りにはまだ花の便りは届きませんが、もうそろそろ桜の季節ですね。
近所に、花見の名所と言ってもいいくらいの、毎年素晴らしく桜の咲き乱れる通りがありまして、そこを通りますと、もうそろそろ始めようかと木々がつぶやくのが聞こえるような、濃く朱色に染まった固い蕾を見ることが出来ます。
木々の枝々一本一本にびっしりと備わった膨らみが、赤く赤く連なって、通り全体を赤く染め上げ、まだ花自体は咲いていないのに、まるで通り全体が血の霧に包まれているような気色を作り上げています。

今でこそ花見といえば酒盛り宴会の代名詞ですが、そもそもは、荒ぶる神を鎮めるための神事でありました。春に暴れ出す神、それは疫神です。

春になると壮麗に咲き誇る桜の花は、そもそも稲の霊の化身であるとされます。
冬の間を山で過ごした稲霊が、山と里の間にあるさくらの木に一度とどまり、それから田に入るのです。
古い日本語で、「さ」というのは稲霊そのものの事です。田んぼに関係する言葉で、「さ」が付くものが多いのは、これに由来します。「さおとめ」、「さなえ」、田植えをする五月のことは「さつき」と言いますね。秋になって稲霊が山に帰ることを、「さあがり」とも言います。
もちろん、「さくら」も関係のある言葉でして、「さ」は稲霊、「くら」というのは「鞍」、神の乗り物の事なわけです。元をたどれば、馬の背に乗せる鞍と同じ言葉です。さくらというのは、稲霊の乗り物のことなんです。日本のとある地方では、春になると、馬の背に鞍だけを乗せて山に放ち、自然に帰って来るのを待つという風習がまだ残っているところがあるそうです。目には見えませんが、稲霊が乗って来るわけです。
ちなみに、道端に小さなお社があったりして、地元の人が農作業の帰りなどにそこをお参りして通ったりする物のことを、「ほこら」なんていいますが、これはそのまま「おくら」がなまったものです。そこには神がいるのですから、決して通り掛かりに軽々しく扱ったりしてはいけません。

稲霊は、季節の折々、様々に姿を変えます。五月になって桜も散り、田に宿った稲霊は、それから五ヶ月ほどかけて稲になり、お米になります。日本人はこれを食べて何千年も生きてきたのですから、稲霊と日本人の関係というのは、ほぼ、輪廻転生に近いものになってきます。もち米を使ってこさえる「もち」の、あのでろーんとした形は、人間の魂をかたどったものであると言われます。だから日本人の思い描く魂というのは、白くて丸いわけですね。
役割を終えた稲霊は、山へ帰っていきます。その時に河童の姿になるという言い伝えのある地方があります。秋になると、集団で山に昇っていき、「やまわろ」という妖怪に変わるんだそうです。そんな姿を借りなくても、稲霊が山に帰った証拠に、日本の山は冬になると落葉したりして、大きくその姿を変えます。そうして、冬場を山で過ごし、春になるとまた稲霊は里に降りてこようとします。
落葉し、枯れ木と見分けのつかなくなっていた桜が、春になると里一面に咲き乱れます。このあまりにも急激な「変化」は、人々にとって、ただ事ではありませんでした。また、春には、人がよく亡くなります。高齢の老人がすっと息を引き取るのもそうですが、冬の間には大人しくしていた疫病が、流行り出すのです。ふと辺りを見渡せば、狂い咲く桜の群れ。その因果関係を、認めないわけにはまいりません。
人は、その時桜に宿っている稲霊にお酒をささげて、花が咲くように疫病を流行らせないで下さい、花が散るように身の回りの人々の命を奪わないで下さいと、祈るのです。しかしそんな人々の上にも、桜の花びらは無情にふりそそぎます。
花見とは、元来こうして桜に酒をささげる儀式です。現代でもそうですが、桜は墓地にも好んで植えられており、その根は僕らの祖先の肉体も絡め捕って、水晶のような汁を吸い上げ、稲霊と化しているのです。無論僕らも、いずれはその一部となって、米になり、河童になり、桜になるのです。

「桜の木の下には死体が埋まっているんだよ」と、誰かが言いました。桜の森の満開の下で発狂した盗賊の男の話を、また違う誰かが書きました。
この季節、僕は桜の花が恐ろしくて、ひどく憂うつな気分になるのです。
桜の花びらのあの色は、死体の肉の、今まさに腐り落ちようとする色ではないですか?

襲ってくるヨ

「あまめはぎ」は、東北地方に伝わる「ナマハゲ」と同じ部類の妖怪です。

水木しげる先生のゲゲゲの鬼太郎には、コマ回し妖怪として登場していました。
ナマハゲは随分有名になってしまいましたが、あまめはぎはそれほど有名ではないぶん、
まだ妖怪としての本質である「未知の怖さ」を十分に保った存在でしょう。
あまめはぎは人を襲います。
それも山や海など、人界から離れた異界に現れるのではなく、人里に突然現れます。
雪の降り積もる静かな夜や、大人が出払ってしまってひとけの少なくなった人里に現れて、子供を襲います。
同類のナマハゲは恐ろしげな出刃包丁を振り回して人を怖がらせるだけですが、あまめはぎは実際に子供に傷を負わせるのです。
「あまめ」とは、子供の足の裏に出来るたこのことです。
あまめはぎはそれが大好物で、子供を押さえつけると足の皮ごとそれを剥ぎ取って、むしゃむしゃ食べるのです。

足の裏のあまめは、囲炉裏にあたりすぎると出来ます。
要するに、「さぼりだこ」とか「怠けだこ」なんです。
子供は親の手伝いをして働け、親の手伝いもせず、怠けて囲炉裏にばかりあたっている子供のところには、あまめはぎがやってくるゾ!という、脅し話なわけですね。

実は僕のお尻に、最近すわりだこが出来てしまって、痛くてなかなか困っております。きちんと働いて作ったたこでは無いですから、うかうかしているとあまめはぎが僕のお尻の皮を剥ぎにやってくるかもしれません。SOHOで働いているならともかく、家でごろごろしているわけですから、あまめはぎに言い訳をすることも出来ません。
2月からのアルバイトでは、ちゃあんと立って勤勉に働いて、あまめはぎに襲われないようにしたいと思います。
僕みたいな怠け者が居る限り、それを叱る妖怪も、現代にちゃんと生きて行けるってわけですね。

そこにも、ホラそこにも。

つくも神というのは、平たく言えば「勿体無いお化け」のことです。物を粗末にすると現れます。
妖怪というのは、時代が変ると、その姿や本質を変化させてしまったり、消えてしまったりするものが多いのですが、つくも神は、その最初の発生以来、それほどその姿や本質を変えないで生き延びてきた妖怪であると思います。

つくも神の発生は、大体、日本の歴史の中でも「輸送」や「生産」や「商売」といった経済観念が著しく発達を始めた平安時代初期あたりであると考えられます。
当時の日本人のうち、都以外の土地に住む人々は、鎌倉時代が始まるころまで、縄文時代と大差無いような竪穴式住居に住み、生活の質もそれほど劇的な変化は無い日常を送っていたはずなので、この妖怪とはまず無縁だったはずです。(このあたり、この時代の都以外の土地に住む日本人の資料がほとんど残っていないために、推測の域は出ないことをご了承ください。)
この妖怪は、都で発生します。地方からの税の納入によって、富が都に偏り、財を持つものが生まれ、欲が加速し、そして都の人々は道具を使い捨てるようになります。
裸の木目が見える器より、舶来の呉器。普段履くボロ草履と、希に宮中に出仕するために履くきれいな草履。隣人より優れた道具を使う優越感。他人の美しい持ち物や衣装と比べられて、胸に湧き上がる羞恥と屈辱。当時の都から出ていた廃棄物を調べることが出来ないので、どんなものがどのように消費されたかはっきりとはわかりませんが、贅沢とは無駄をすること、いくらかのものが、使えるうちから捨てられる、もしくは使われなくなるということになりました。

物には「精」というものがあると人間は考えます。非科学的な事を言っているわけではありません。使っている道具に愛着が湧くとか、そういう意味の言葉です。
使えなくなった道具は、持っていてもただのゴミですから、捨てます。当然です。役に立たないものを持っていても無駄です。そんなことをするのはよっぽど余裕のある人だけです。しかし、使えるものはとことんまで使います。何故なら、この時代までの「道具」のほとんどは、生業に直接関係するものだったわけで、使えるものを捨ててしまうのは、勿体無いですよね。勿体無い以前に、そもそも、使えなくなる前にその道具を捨ててしまうなんてことは、それまでに誰も経験したことがありませんでした。この時代の、それまでになかったような大きな富の偏りが引き起こした、日本人にとって初めての、未知の経験なんです。
初めてのことは、わからない。だから、恐いです。そして人が恐れを抱いた所に、妖怪は現れます。

物を粗末にすることで、逆に人間はその粗末に扱われた物の気持ちを想像して、それを恐れます。これは罪悪感の妖怪なんです。
罪悪感は、僕らの心の中だけに発生するものなので、例え核兵器をもってしても消してしまうことは出来ません。一度発生したその妖怪は、経済の拡大によって次第に日本中に広まっていき、そして今日、僕らの心の中にも住み着いています。
『付喪神絵巻』という書に、「器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心を誑かす」とあります。僕らは一つの道具を百年も使いませんから、ならばつくも神には出会わないで済むかというのは早合点、この「百年」というのは、その道具が使えなくなる直前までを表す言葉なので、現代の電化製品あたりは、五年ほどでつくも神になってしまうわけです。現代に生きる僕らのまわりはつくも神で溢れ返っていて、その数はあまりに多く、僕らはそれらをまとめて「環境破壊」とか「地球汚染」とかいう言葉で呼ぶようになりました。
環境問題は、僕らの罪悪感の塊です。だから、身の回りにはっきりとした徴候が出ていなくても、僕らには罪の意識があるわけです。


・・・・・・間抜けなことに、書いているうちに論旨がばらばらになってきてしまいました。自分でも苦笑しています。ここからまとめようと思っても、「物を大切にしよう」なんて説教話なんかでオチを付けたくはありませんし、かといって、目のさめるようなつくも神の新解釈がご披露出来るわけでもありません。つくも神に関する細かな話なんかはまだまだあるのですが、実例を挙げようと思ったらほとんどの出典の名前を忘れてしまってきちんと語ることが出来ません。「精」の話も、ネタを振りはしたものの、着陸点がありません。
「ならば書き直せばよいではないか」ごもっともでございますが、これほど明確な失敗論、かえって公開して皆さんに見ていただいてしまうことで、僕がいかにいいかげんな人間であるかということを知ってもらうのと同時に、もうこんなみっともないものを皆さんにはお見せすまいぞという反面教師的事例として、常に僕の目に付くHPの片隅に残しておきたいと思うのです。
なんともしょうも無い文章を読ませてしまって申し訳ありません。まあ、こういう心の痛むようなサーバー容量の無駄使い、まさにこのHPにも、つくも神が宿ったというわけであります。この古き妖怪も、現代社会においてこうやって「行動の動機付け」という役割を果たすことで、立派に存在価値があり続けているわけですね。

光と闇の境界線

「天井嘗め」というのは、住人の知らない間に家に入り込み、天井に染みや陰を作る妖怪です。現在ではマイナーな妖怪ですし、皆さんほとんどの方がご存じないと思います。
ぴょんぴょんと飛び上がって、その長い舌で天井を嘗め、暗い染みを作りますが、なぜかその姿を住民に見られることはありません。
江戸時代の妖怪紳士録「画図百器徒然袋」、その中の「天井嘗め」のページには、うろこやえらのびっしり生えた老人のような姿をしたものが天井に舌をのばしている絵が、以下のような一文を添えられて掲載されています。

天井の高は灯(ともしび)くらうして冬さむしと言えども、これ家さくの故にもあらず。まったく此怪(くわい)のなすわざにて、ぞつとするなるべしと、夢のうちにおもひぬ。

この文の意味は、徒然草に「天井を高く作るのは、冬は寒くなるし、明りも届かなくなるので部屋が暗くなる。(家を作るのは夏ではなく、冬を基準にすべきである。)」とあるのを受けて、「それは家の設計の所為ではなく、この妖怪がいるからだ」と反論しているというものです。
つまり、部屋の明りが天井の隅まで届かないのは、この妖怪が闇を作っているからであると。

ここで、そんなアホなと思ってはいけません。試しに、あなたのいる部屋の天井を見上げてみて下さい。電灯の明りが届かずに、隅の方がぼんやりと暗く染みのようになっていませんか?もし部屋の電気を点けていないのだとしたら、パソコンモニターの淡い光の他はあなたは闇に包まれていて、天井どころか足元すらおぼつかないでしょう。
さて、なんで電灯やモニターの明りが部屋の隅まで届かないか、あなたは説明出来ますか?大抵の人は、「光が弱いから届かない」とか「光が部屋の中の空気によって減少するから届かない」くらいしか思い付かないのではないでしょうか。僕はそうです。「光は粒子と波の性質を同時に持ち、物質によって遮られる」というような、中学生の頃にならう科学の基礎知識でだいたい説明をつけるでしょう。
しかし、冷静に考えてみれば、本当に光の性質について良く知っているわけでは無いですし、そもそも「光ってなんだ?」という問いに科学的に答えられる人はなかなかいません。まず普通は、わかったような気になっているだけです。
では、まったく科学的知識を持たない人がこの問題を考えると、どうなるでしょう。
ロウソクに火を点けます。ぼやっと周りが明るくなりますが、部屋全体を照らすわけではありません。手で遮ればその陰は暗くなりますから、光はロウソクから真っ直ぐ伸びているということには、すぐ気が付けます。では、なにも遮るものが無いのに光が弱まってしまうのは、どういうわけでしょう。とても難しい問題です。地上には空気が水のように満ちていて、それがだんだんと光を弱めているなんて、思い付きようもありません。わかりません。でも、その事実は目の前にあります。わからないから、恐いです。
そして、人が恐れを抱いたところに、妖怪は現れます。

床に置いたロウソクの明りが、天井まで届かない。それは、「天井嘗め」が天井や部屋の隅の方に、闇や染みを作っているからなのです。天井は人の住む全ての部屋の中にあるにもかかわらず、人がそこに行くことはできません。天井は、家の中の異界なのです。
結局のところ理解出来ない光の性質の、理解出来ないという未知ゆえの恐ろしさ。その人としての感情までを内包した、「天井嘗め」という妖怪の存在は、実に機能的な説明機構です。

時代が現代に至って、エジソンの発明などの結果、明りの技術は飛躍的に発展し、人は家の中どころか街中から闇を消し去りつつあります。人は、いまだに闇が恐いのです。恐い物を克服しようとせず、遠くに追いやることで見ないようにしています。
それでも、闇は僕らの家の中にも、僕らの体の中にも、深海にも、宇宙にも、海辺にも、裏山にも、川辺にも、どこにでも依然として存在しています。そこにあるのに、無いことにしていたって、いつか矛盾が出てきます。しかし、海を恐れ、山を恐れ、闇を恐れることでそれらと対話し、理解してきた先人の知恵は、すでに失われつつあるのです。
本来、闇に潜む恐ろしいものの話は、隠居した老人が、就労前の子供たちに語ることで受け継がれてきた、大切なこども文化の一つですが、今の日本には語る老人も、話を聞く子供もほとんどいなくなっています。だから僕は、「こども文化国家の設立」というこのHPの趣旨に乗っ取って、皆さんに自分の知る限りの「妖怪の話」を紹介していきたいと思います。

それでは又、次回の講義で。

吸血鬼の話

吸血鬼を見分けるのは、そんなに難しいことではありません。
彼らの持つ独特の特徴をきちんと把握出来ていれば、あなたにも、明日からでも見分けることができます。ただし、もし吸血鬼を見つけても、気軽に「退治しよう」なんて思ってはいけませんよ?
見分ける力と、退治する力は全く別のもの。うかつにその境界を踏み越えると、あなたも吸血鬼にされてしまいますから、冷静に身を引いて、まずはお近くの悪魔払い師に声をかけて下さい。お近くに悪魔払い師がいない場合は、しょうがないので、僕に相談してみて下さい。
また、吸血鬼にもいろいろありまして、何がなんでも退治しなければならないような恐ろしいヤツも偶にはいますが、その殆どは放っておいても特に問題の無いヤツなので、この講義中に、皆さんには「そこにいる吸血鬼がヤバいか、ヤバく無いか」を見分ける能力までは身につけてもらいたいと思います。

はじめに、皆さんのある誤解を解くために、一般的に言われている吸血鬼の特徴を挙げてみましょう。

1・血を吸う
2・日光に弱い
3・十字架に弱い
4・ニンニクに弱い
5・見た目より怪力である
6・不死である
7・変身する
8・高貴な身分であることが多い

こんなところでしょうか。しかしながら、ここに挙げた特徴は、どれも決定的な「吸血鬼の証拠」にはなり得ません。

特徴1は、怪我をした時などに人が同様の行為をとることはあります。
特徴2は、ある種の病気にかかっている人等は、日光を嫌います。また、有名な女性吸血鬼「カーミラ」は、日光を全身に浴びて平然としていました。
特徴3は、神経質な宗教嫌い、または特別に強い信仰を持っている人は、そのシンボルを恐れることがままあります。また、キリスト教圏出身でない吸血鬼には、十字架は効かないと言われています。
特徴4は、そんな人はいくらでもいます。
特徴5も、そんな人はいくらでもいます。
特徴6は、まれにそんな人がいたとして、それが吸血鬼であるとは限りません。ゾンビも、フランケンシュタイン・モンスターも、立派な業績を残した偉人も、不死であるとよく言われます。不死は吸血鬼の専売特許ではありません。
特徴7は、俳優や魔法少女、昆虫のさなぎ等を指して吸血鬼だと言う人はいません。
特徴8は、これはちょっと面白い特徴なんですが、とりあえず、高貴な身分だからって吸血鬼だってことは無いでしょう。

少々恣意的に論を進めておりますが、とにかく、一つ一つの特徴を取ってみれば吸血鬼というのは姿を消してしまいます。吸血鬼が吸血鬼たる由縁というのは、実はこれらの特徴には直接は関係無いのです。
ところで、吸血鬼というのは、我々にとって恐怖の対象であります。世間では、なんだか可愛くイラスト化された吸血鬼の名士ドラキュラ伯爵なんかが、たびたびマスコット化・商品化されたりもしていますが、吸血鬼というものの成立やその伝承が永きに渡って語り継がれてきた背景には、人々の恐怖というものがあったということに、異論を挟む人はいないでしょう。
吸血鬼は恐い。では、何故恐いのか?

この「妖怪の話」のコーナーの最初のページに、大きな文字で妖怪について書かれているのを、皆さんは読まれましたでしょうか。
その中に、「見えないものは恐いから、わからないものは恐いから、あなたの心が、妖怪を作り出すのです。 」という一文があります。
不明なものは、人間は恐いんです。「わかる」の本来の意味は、「分けることができる」です。「理解」は、「理をもってほぐす」です。あるものと、あるものを、はっきりと分類出来ること、それが「わかる」です。
そして、吸血鬼の本性は、「境界をあいまいにするもの」なんです。

人は昼働いて夜眠るものなのに、その反対の活動をする。なよなよっとしているのに、怪力。死体なのに、元気に動き回っている。人の姿をしているのに、獣に変身する。貴族なのに、卑しく人の喉笛に食らいつき、SEX無しで仲間を増やす。男性なのに、妙に色っぽい。などなど。
個体差はありますが、上等な吸血鬼になればなるほど、この「境界をあいまいにする特徴」は増していきます。
また、血は生命であり大量の出血は死に繋がるという昔の人々の一般的な医学知識が、その対立項である吸血行為をする魔物を産み、直接的な死をもたらすその行為は、「境界をあいまいにする魔物」の代名詞になっていきました。今回論旨にしているヨーロッパ産の吸血鬼と特徴は違えど、世界中に「吸血行為をする魔物」が存在するのは、この為でしょう。
吸血行為によって吸血鬼が増えていく様は、ペストの蔓延に準えられます。衛生観念というものが無かった中世の人々はペストが広がるのを止めることが出来ませんでしたが、ここに強力な殺菌作用を持つ「ニンニク」が登場します。ニンニクは、ペストを含めた病気の進入を防ぎ、また、人体に活力を与えます。一緒に置いておくと、食べ物もあまり腐りません。あいまいになりかける生と死のうちの、生の世界を活性化してくれるのです。もちろん、「境界をはっきりさせるもの」ではないので、中にはニンニクをばりばり食べる吸血鬼などというヤツも存在してしまうわけですが。
そして、人類が生み出した最強の「境界をはっきりさせるもの」、それが宗教です。神の教えに照らすことで、どんな問題にもYES、NO、はっきりとした答えが出されます。仏教に帰依したお坊さんは前世も死後も今生も迷いが無いですから、境界があろうと無かろうと恐くありません。そういう意味では、いまだ生命や宇宙の真理を解明出来ていない「科学」では、吸血鬼退治は難しいでしょう。(科学は、神に頼らずに世界を理解しようという学問ですが、その目的が達成されるのは当分先になりそうです。それがなされるまでは、人類には宗教が必要でしょう。)
そういったわけで、吸血鬼はタキシードを着たままよだれを垂らしたり、女性なのに女性を誘惑したり、十字架を怖がったりするわけです。

さて、皆さん、世間を見渡してみて下さい。
「境界をあいまいにするもの」が、見えますか?ここで、それが見えるかどうかは皆さんの才能次第です。才能の無い方でも、勉強をしていけばある程度は見つけられるようになりますし、よく見えるという方は、勉強をしていくことでさらにはっきりと見つけて、場合によっては退治することが出来るようになります。
ここでいう勉強とは、世の中の多くのものを見て、自分で考え、事実を見極める能力を高めるということです。化学や、人類学や、数学はその大きな手助けとなるでしょう。悪魔払い師というのは、こういう勉強をするのです。

僕なんかがぱっと探してみると、男と女の境目をあいまいにするファッション、親と子の境目をあいまいにする緩んだ倫理観、現実と虚構をあいまいにする技術の発達、議会の進行が下手な議長、話を何度もまぜっかえす人。いろいろと見つかります。
しかしながら、最初に述べたように、この「吸血鬼」達の中には、退治する必要の無いもの、もしくは退治してはいけないものがいます。吸血鬼を見抜いたり退治したりするのは、技術であって、思想ではありません。思想の名の下に行われる吸血鬼狩りは、残酷な暴力にすら成り果てます。
国と国との国境線を消す努力、異業種企業間での発展的な技術提携、学問の世界では、愛知学院大学日本文化学科の二宮哲雄客員教授が異なる学問同士を融合して相乗効果を挙げる理論を発表され、社会学と大脳生理学の境を取り払う研究をされています。

吸血鬼は存在します。人が世界を理解しようとする限り、その隙間に現れ続けます。だからといって、退治しなければならないような凶悪な吸血鬼は、さまざまなボーダーレスが叫ばれ正当化されるこの時代には、もう殆ど現れることはありません。
吸血鬼の存在は、保守的な社会にとってこそ恐ろしいのです。適度な数の吸血鬼との共生を計ることで、人は発展的で、心の豊かな社会をいつかきっと築くことができるでしょう。

吸血鬼に関する僕の講義はこれで終わります。何かご意見やご質問のある方は、会議室の方に書き込んでおいてください。面白いご意見があれば、第二講義を開設するかもしれません。

妖怪の話

妖怪は、客観的には存在しません。
この世のすべての事象を捕らえ、系統立てて分析すれば、妖怪がこの世界に存在する隙間は消えてなくなります。
でも、そんなことって無理ですよね?
あなたの生まれる前のこと、死んだ後のこと、それと、あなたが今見ていない部屋の隅。
見えないものは恐いから、わからないものは恐いから、あなたの心が、妖怪を作り出すのです。

世の中は分からないことだらけなのだから、素直に「わからない」って認められればいいのです。簡単なこと。
そうすればほら、妖怪達はあなたのまわりに溢れかえって、あなたを慰めてくれる。
ここは妖怪の住む世界。

ページ移動

  • 前のページ
  • 次のページ