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考えてみた

「CAPCOMvsSNKの続き」


ゲームの正体というのはその組み上げられたシステムにあるわけですから、「ゲームを混ぜる」というのはそれぞれのシステムを混ぜ合わせることに他なりません。
では、たとえば、「テトリス」と「ぷよぷよ」を混ぜる、という話が持ち上がったとしましょう。
もちろん、考えるまでも無く、これは無謀な試みです。共に、一般に「落ちモノパズル」と呼ばれるジャンルの人気ゲームですが、「混ぜろ」と言われてはいそうですかとすんなり何物かが出来上がるような単純な話にはなりません。
確かにこの二つのゲームは似ています。しかし、全体には似ていても、細部にシステム上の大きな違いがあり、その違いこそがそれぞれを独立したゲームにしている欠くべからざる要素であり、かつ、他にも数限りなく溢れる「落ちモノパズル」のゲームの中でも、この二作が特に優れた作品に仕上がっている理由そのものなのです。

「どっちも人気があるゲームだから、混ぜればもっと人気が出るだろう。」・・・そんなわけにはいきません。
コンピューターゲームのシステムというのは、基本的には数式によって成り立っていると言えるでしょう。だから、ゲームを混ぜるというのは、その数式を混ぜるということに成ります。
他の言葉に置き換えてみると、つまり「万有引力の方程式と、物質が内包するエネルギーの方程式はどちらもこの世界の根源にかかわる強力な方程式だから、混ぜ合わせればもっとすごい式ができるだろう。」・・・こういうむちゃくちゃな話になるわけです。

ところで、ここ数年、格闘技ブームなんて言われる流れがありますが、その中でも特に興味をもって語られるのが異種格闘技戦というヤツです。
「柔道と空手はどっちが強いんだ?」とか、「プロレスは最強だ!」とか、そういうやつです。
異種格闘技戦を楽しむコツは、試合の前にいろいろと想像を膨らませることです。「掴んでしまえば柔道には誰も勝てないだろう」「いや、掴まれる前に一撃で倒すのだ」「プロレスラーの耐久力ならば空手家の一撃にも耐えられるはずだ」「しかし組み合えば柔道家が強い」などなど、とにかくいろいろ考えてみます。そうして、自分の中で盛り上げてから実際に試合を見に行きます。
そうすると、たとえばその試合が意外な大凡戦、お互い相手の技を恐れて近づかないまま試合時間が終わってしまった、なんてことになっても、ただガックリするのではなく、ブーイングを飛ばすなり、なぜにそうなってしまったかまた考えてみたり、気を取り直して次の戦いに想像を巡らせてみたりといったふうに、それなりに楽しめてしまいます。

「CAPCOMvsSNK」は、そういう要素を本質的に備えている作品です。
ゲームの目的そのものが、「リュウとテリー、どっちが強い?」なわけですから、このゲームのことを考える場合、どうしたってプレイヤーは「クラックシュートを昇竜拳で打ち落とすシーンが見たい!」という妄念にとらわれることになります。

極端な例になりますが、先述の「テトリスvsぷよぷよ」は面白くならなさそうですが、「カードキャプターさくらのテトリス(アリカ社)vsアルルのぷよぷよ(コンパイル社)」ならば、一部のファンには楽しみ方がありそうです。
「CAPCOMvsSNK」を楽しむには、つまりそういう覚悟が必要なわけです。
二つの異なるシステムを組み合わせて作られたものは、なんだかんだいってもそれらとは別のシステムにならざるを得ません。元になっている二つのゲームを生かした、新しいゲームを作るという作業を、「CAPCOMvsSNK」のスタッフは強いられたわけです。
空手家の猛烈な打撃をかいくぐって掴みにいく柔道家、それを見越してフェイントをかける空手家、フェイントにだまされてまともに一撃を食らってしまい、意識が遠のきつつも空手家の道着のすそにすがり付き、次の瞬間豪快な投げを打つ柔道家、そういうものが見たいファンに対して、そういう試合が行われるように、空手のものでも柔道のものでもない、新しいルールを整備するという仕事が必要だったわけです。
実際の異種格闘技戦の時、試合前の交渉でもっとも難航するのは、試合時期やファイトマネーの決め方ではなく、そのルールの部分です。それは、ものすごく難しい仕事です。

さあゲームが出来上がりました。それはもちろん、ストリートファイターでもキングオブファイターズでも無いシステムの、新しいゲームです。
「こんなのリュウじゃない」「こんなの京サマじゃない」そんな意見も出てしまうのは、まさに格闘技の試合で「なぜ顔面パンチが禁止なんだ」「なぜ関節技が禁止なんだ」とブーイングを飛ばす観客と同じ心理だと思います。
でも、空手家と柔道家が同じリングに立っているんです。これだけでもすごく楽しめてしまう人種が、ゲームのファンの中にも少なからずいるわけです。
「CAPCOMvsSNK」が、ゲームとしてどこまで面白いのかというのは、まだ発売されたばかりということもあって未知数ですが、どこまでプレイヤーを楽しませるかという点については、すでに合格点だと思います。実際の異種格闘技戦でも、実は面白いのは試合開始のゴングが鳴るまでだ、という意見もあるくらいですし。

希望を言えば、「バーチャファイター」のシリーズのごとくシステムだけで何ヶ月もあそばせてくれるゲームであってほしいものですけどね。このゲームに限らず、すべてのゲームが。

やっぱりすごいことだよ!

「CAPCOMvsSNK」(DC)

発表から丸一年以上たちまして、やっとこの、期待するなというほうが無理なゲームが発売されました。
近所の深夜1時まで開いているレンタルビデオ店付属のゲーム屋さんに、僕の12時までのバイトが終わってからすぐに駆け込んで「売ってください」とすごみ、無理やり手に入れて参りました。

家に帰ってみると、玄関先に大きなダンボール包みが。
改修にだしていたマイPCが、バイトのあいだに帰ってきていたのです。ああ、愛しのマイPC、きつく梱包されていて辛いだろうけど、ちょっと待っててね。2時間だけ先に時間をおくれ。
謝る気持ちもそこそこに、ソフトの包装をひっちゃぶいてGDロムを取り出し、自室の奥の棚の上で白く輝くドリームキャストに放り込みます。
電気街のゲーム屋のお験し版店頭デモで見たのと同じオープニングデモが流れ、僕の頭の中がぐるぐるとうねり始めます。なんでもないのに、何がなんだか分からなくなってきました。マニュアルを開く手つきもおぼつかない。つまり、興奮してるんです。

はじめは、プレイするのではなくゲーム画面のデモを見てみようと思います。さあ、誰と誰が出てきて、どんな戦いを見せてくれるのだ。
・・・ダルシムだ。そしてリョウ・サカザキだ。歴史に残るスーパーファイトの幕開けが、なんとまあ名指しがたき・・・。
いや、よく考えてみましょう。これはこれで、なんとも趣深い一戦ではないですか。それこそ、カプコンもSNKも総力戦の構えだからこそ、こういう組み合わせの戦いが起こるのです。そもそも、最近新作が出ないんですっかり忘れてましたけど、リョウは主役級のキャラではないですか。

最初にスタートボタンを押したとき、「お待たせ!」とか「よくぞこの時、この戦いに居合わせた!」とかなにかゲームファンに宛てたメッセージが出たらいいのに、なんて考えもむなしく画面はただのモードセレクトへ。
早速オプションで難易度を最低まで下げます。ええ、実は僕、ゲーム下手なんです。
その後、アーケードモードをはじめます。雑誌などで調べていたとおりに、グルーヴセレクト、キャラクターセレクト等など、順に選んでいきます。
このころになると、歴史的ゲームと相対しているといったような感慨よりも、目の前のゲームシステムとの戦いに神経が集中し出して、僕がいつも、どんなゲームをプレイするときにでも、まず考えてしまう「作り手との戦い」がはじまります。
画面のレイアウトひとつとっても、それは作り手の意思。ひとつボタンを押したときに、どんな反応が返ってくるか、それを踏まえて、プレイヤーをどんな心理状況にもっていき、最終的にどんな感動を与えるのか。そこまで考えて作れるのが一流でしょう。
「感動してください」という一文を読んで感動する人はいません。「泣け」と言われて泣くのは拷問です。
ゲームである以上は、本質的にはそのシステムで人を感動させ、泣かさねばなりません。演出もシナリオも二の次です。
で、このゲームの場合は、まずキャラセレクト画面を見ただけで、泣く人は泣きます。
カプコンのイラストレーターさんがSNKのキャラを、SNKのイラストレーターさんがカプコンのキャラを描いているのです。目新しいのに、どこか懐かしく、違和感があって、新鮮で、魅力的で、毒々しく、心に染みます。
なんだかもう、たまらんのです。

全体の雰囲気は、「スパ2的」と言って通じるかわかりませんが、とにかく、古めかしいという印象です。
画面演出なんかはもう、派手といえば派手なんですが、システムが地味なのです。
結局のところ、足払いの打ち合いで主導権を奪い、倒れた相手の頭上に飛び込んで連続技を入れ、受けるほうはそれを必死でガードしながら反撃のチャンスをうかがって、隙をみて足払いを繰り出す、といったような攻防がえんえんと続く感じ・・・なんていっても、僕みたいな格闘ゲームを下手の横好きでずっとやってるだけのプレイヤーの感想ですからあまり的確なものではないんですけど、とにかく、そういう、「スト2の進化形」みたいなゲームという印象です。
難しい技術がいらない分、僕は好ましく思いました。
だからこれはきっと、スト2以来格闘ゲームから離れてしまった人々を呼び込むための、盛大なお祭りなんでしょうね。昔のシステムだから、そのまんま遊べますよ、という。


なんとSNK、このゲームをカプコンと共同開発したのを最後に、ゲーム開発業務からは撤退するというもっぱらの噂です。
真偽の程はわかりかねますが、KOFシリーズなんかの開発チームはそのままカプコンに移籍して続きを作っていくんだとか。
そういう政治的な流れもあわせて考えると、この夢のゲームもなんだか生臭い要素があちこちにあるような気がします。夢の実現のために両社が手を組んだんじゃなくて、どっちみち無くなるんだから、せめて一番効果的な使い方をしよう、なんて企画会議で決まったんじゃないかなァなんて。
でも、だからといってこのゲームそのものの価値がゆらぐことはありません。
不知火舞と春麗の対戦前デモは、舞が春麗のコスプレをするという虚を突かれるものでした。
ルガールとさくらでチームを組ませると、「すべての格闘技を極めた私に、かなうはずが無い!」「へー、格闘技大辞典みたいですねー」なんて会話を交わします。
こーゆーの、大好きです。
よいキャラクター同士を、個性を殺さないように絡ませて、より面白いものを生み出す。そんな良質の同人活動のようなことを、責任を持ってメーカーがやってしまうんです。心置きなく、ゲラゲラ笑えるではないですか。
リュウとリョウをチームにすると、仲間なのに「一本やるか?」とか言い始めるんです。これですよ、これがクロスオーバーですよ。

カプコングルーヴのラスボスのギースのでたらめな強さとか、レシオ1なのに敵だと矢鱈に強いキングとか、ビッグベアのキャラが以外に弱くて拍子抜けとか、いろいろ予想外のこともありますが、そんなことにはめげずに、これから僕はがんばってゲームをプレイしてVSポイントをためて、レシオ4の隠しキャラクター達や、モリガンやナコルルを手に入れるのです。
もう朝なんですが、気にしちゃいられません。
では。

最速ってほどではないですけど

「とんびのシェンムー最速レポート(某会議室からの転載)」(DC)

ソフトが家に届いたのが18:00過ぎ・・・遅いぞ宅急便!朝からまってたのに。

思ったより短かった冒頭のシナリオ導入シーンが終わって、行動可能に。
慣れるまで、主人公の動かしかたに四苦八苦・・・。でも、バイオよりは動かしやすいかな。
しばらく、室内の壁にかかっている額縁をはずしたりして遊ぶ。
うろついているうちに、父の遺書らしきものと、いくつかの格闘技の奥義書を見つける。
おばちゃんから、うわさのお小遣いをもらう(笑)
家の前の坂を下っていると、同級生らしき女の子と出会ったので、しばし雑談。
神社の境内で、小猫をかまっている女の子を発見したので、神社のお供え物をくすねて猫にあげようとする。
煮干しと油揚げがあったので、猫には煮干しをあげる。
とんびらしく、油揚げは自分で食べようとおもったが、さすがに拾い食いはできなかった。
町まで下ってみると、遊びほうける子供たちに出くわす。子どもが多い町だなあ。
駄菓子屋の前にガチャガチャを発見したので、買ってみる。
「ファンタージーゾーン」のオパオパの必殺兵器・ヘビーボムが出てきて、驚愕する。
そのまま、ガチャガチャに2000円ほどつぎ込む。
「バーチャ1」のキャラ人形なんかがいくつか揃ったので遊ぶのを止めると、周りはすでに真っ暗で誰もいなくなっていた。
そのままうろついていたら、いきなり街灯が点いて驚いた。
街灯の下に居た酔っ払いに絡まれたりしながら、家に帰って、寝た。

朝になった。なんとなく、家の敷地内の拳法道場へ行ってみる。
内弟子の人にせがまれて、技の手本を見せるイベント発生。
コマンド入力に成功し、新しい技を一つ憶える。
そのまましばらく技の練習。やる度に、自分の能力が上がっていくみたいである。
もうお昼になっていた。
父の仇の行方を捜して町を歩いていると、おばあさんに道を尋ねられ、そのまま家探しイベント発生。
家を探す途中で、町の公園でも拳法の修行が出来ることが判明する。ちょっと広いところならできるらしい。
コンビニを発見したので、入ってみる。店員はこっちの名前を知っているので、顔なじみらしい。
猫にあげることを思い付いて、牛乳を買う。シーチキンも買う。
うろついているうちに、ゲーセンを発見。
スペースハリアーをやっているうちに、ゲーム内時間で2時間ほどが経過しており、慌てて外に出るとすでに夕日が・・・。今日も何もできなかった。

ゲーム内時間で、2日目の夕方までプレイしました。
ネタばらしみたいな話になってしまいましたが、プレイする人ごとに、
2日目の時点でも大分異なる展開があるんだと思います。
とにかく、何をしていても時間が過ぎていきます。
ゲーム内時間は、1時間が約3分で、12月3日あたりからはじまって、3月末あたりがタイムリミットのようです。
雑誌などによれば、シナリオを追いかければ12月中にはゲームクリアできるらしいのですが、
それで終わるのはもったいなさそうです。

現時点での印象を一言で言うと、「妙に面白いゲーム」です。
・・・こんなレポートでは皆さんの参考になりませんね(^^;

さて、つづきやりますです。

自由な空間への旅立ち

スターフォックス(SFC)

このゲームのCMがTVで流れていたのは、僕が高校生の時でした。それを初めて見た僕の頭の中には、確実に、ゲームが未来へ進んだ足音が響いたのでした。
画面の奥から手前へ向かって迫って来る背景と、プレイヤーにはお尻しか向けない自機。画面脇や、時には手前から迫って来る敵。遥か遠くに位置する、自機の数十倍の大きさの敵宇宙ステーションとの死闘。僕の前に初めて明確に姿を表した、ポリゴンゲームでした。
それまでの、TVゲームの中での敵は、「巨大である」ことが苦手でした。どんなに大きく画面に描いても、TVのサイズの制約からは逃れられませんし、画面からはみ出すデザインでは、その大きさが一目で分かりづらく、「巨大なもの」のプレッシャーが表しきれません。
しかし、ポリゴンで描かれた敵は、遠くに配置したり、逆に自キャラを小さくする事で、その巨大さを画面内でアピールする事が出来ます。ポリゴンは、TVゲームの世界に存在する数多くの「制約」の中から、「大きさ」の制約を取り払ったのです。

スターフォックスの一面のボスである浮遊戦艦(名前忘れました)は、自キャラがとあるポイントまで進むと、自キャラの後ろから登場します。すっぽりと自キャラが暗い影に包まれ、頭上を巨大なモノがゆっくりと追い抜いていき、遥か前方に行ってから、回転して向きを変えながら自キャラと同じ高さまで降りて来るのです。これに痺れました。巨大な、圧倒的なプレッシャーのある敵と、これから一対一で戦うのだという高揚感が僕を包み込みました。
さて、このゲームは並の名作ではありません。家庭用ゲーム機としてはほとんど初のポリゴンゲームだったにもかかわらず、それ以降、他に多くのポリゴンゲームが開発されながらも、このスターフォックスが作り上げていたポリゴンである事を生かしたゲーム世界に比肩しうるものは、ほとんどありません。
これから一対一で敵ボスと戦おうとした僕のところに、友軍機からの通信が入るのです。「ケロケロ、ケロケロ、フォックス、調子はどうだ」自分は傭兵隊長のフォックスです。通信をくれたのは、共に同じ戦場を飛んでいるカエル人間。この、ポリゴンで作られた仮想世界、巨大な敵、雨のように降り注ぐ敵弾。その中を、共に駆け抜けている戦友がいるのです。目の前の巨大な敵と、自分は一対一で戦うのではなかったのです。

ポリゴン技術によって「空間」が用意され、そこに「自分」と、「敵」が配置されました。そして、このゲームは、その空間内に「仲間」も用意してくれたのです。もちろん、この仲間は、ゲーム中に何度も画面に現れて自分を助けてくれますし、反対に敵に追われている仲間を自分が助ける事もありました。
2Dのゲームから解き放たれ、空間から自由になった僕らが、その自由な世界で何を欲したのか。そこにいたのは、敵、友、そして敵でも味方でもない、建造物や、地上や宇宙の生物達でした。
哲学の命題のような問いかけに、このゲームは、こういう素晴らしい答えを出して、僕らに与えてくれたのでした。

このゲーム、実はあまり売れなかったと聞きます。曰く、「自機が格好悪い」「画面がスローで格好悪い」。それがどうしました。確かに、TVCMでは実際のゲーム画面を早回しにした映像を使っていたそうですが(ここ、笑うところ)、それが、このゲームの特質である「自由さ」「面白さ」そして「新しさ」を損なうものでは無かったはずです。
僕はもう、このゲームのCMを見て、その日のうちに馴染みの玩具屋さんに予約の電話を入れていました。発売日に、家で一番大きなTVにSFC(スーパーファミコン)を繋ぎ、その「新しさ」をむさぼるように堪能しました。
僕はこの時の感動を追体験したくて、以前にこのコーナーで取り上げた「レッドアラーム」や、次回以降の更新で取り上げる予定の「電脳戦記バーチャロン」をやったんだと思います。


僕は、「コンピューターゲーム」というモノの定義として、「現実世界の物理法則にとらわれない、独自のルールを持った、新世界がコンピューターの中に構築されているもの」という、独自のものを持っています。
その定義に従いつつ、さらに「優しさ」や「物語」や「優れた思想」が盛り込まれた、「スターフォックス」のようなゲームを、僕は良質なゲームだと考えるのです。

「未来」を超えた

レッドアラーム(VB)

闇に浮かび上がる赤光のライン。
手前から奥、左から右、縦横無尽に引かれたそのラインは、いつのまにか有機的に組み合わさり、立体の空間と擬似的な物体群を作り上げる。その中に放り込まれたあなた。あなたのまわりを包んでいるのは、やはり攻撃的な赤いラインで構成された戦闘機。
その戦闘機を駆って、あなたは宙に浮かび上がる。急加速、旋回、上下左右への水平移動、思いのまま。それどころか、後退、転身、機首を真上に向けてのアクロバットに、背面飛行のままでの高速戦闘。
現実世界ではありえない、空間に対しての完全な自由。
その空間は筒状に構成された敵要塞内の通路で、設置された砲台、迫り来る敵機、地面を逃げ惑う敵兵を視認しながら高速で駆け抜けると、その一番奥には巨大な敵が待ち構えている。しかし、空間に対して自由なあなたは、敵の死角に回り込み、ホバリングでその場に静止、一方的に有利な場所から敵の急所に向かって無慈悲な弾丸を叩き込む。
ある種のリアルな戦闘においては、空間に対してより自由である方が、絶対的な優位を保てるということを、あなたは身を以って知る事が出来る。
あなたがその戦闘機と一体化している限り、なにものもあなたの自由を奪うことはできない。あなたは常に勝利者なのだ。

この圧倒的な自由を体験したことのある方は、実のところ、ほとんどいないのではないでしょうか。
これは、任天堂の野心的ゲームマシン、「バーチャルボーイ(VB)」で、老舗ソフトメーカーT&ESOFTが発売した3Dシューティングゲーム「レッドアラーム」の世界です。
TV画面に映し出される平面の擬似3Dでは無く、左右の目に微妙にずれた画像を見せることで世界を立体に見せる技術を利用した、専用ディスプレイに浮かび上がる赤一色の立体空間。
しかしながら、その、あまりに先進的なハードコンセプトは、どうやら世間のほとんどに認知されなかったようで、新発売ソフトは半年ほどでほぼ死滅し、ハードも市場からあっという間に消えてしまいました。
また、ゲームプレイ後にえらく目が疲労するといった噂が蔓延したことや、このハードを頭部に装着している姿がはたから見るとあまりに情け無かったことも、敗因だったのかもしれません。

さらにいうならば、この「レッドアラーム」以外のソフトは、わざわざVBで発売したことに首をひねりたくなるような、特に目新しい工夫の感じられないゲームがほとんどでした。
「レッドアラーム」級の新感覚3Dゲームがあと二、三種類出ていれば、もう少し、このハードのコンセプトの素晴らしさが、世間に認知されていたかもしれません。しかし、それでも、「レッドアラーム」が優れたゲームソフトであることに変わりはありません。僕は、いまだにこのソフトを遊んでいます。
いつの日か、このハードの設計思想を継いだ、先鋭的な新しいゲームハードが再び僕らの前に現れるまで、僕は時々思い出したようにこのゲームを遊び続けることでしょう。たとえ本物の飛行機を操縦出来たとしても、ここまで空間に対しての自由感覚を味わうことは出来ないでしょうから。

WIZ大好き

サターンの未クリアゲームの束の中に、ウィザードリィ(以下ウィズ)があるのを発見した僕は、久しぶりに遊ぶのも面白いかと思って、そのソフトを起動したのでした。
気が付くとすでに深夜。こうも面白いものだったかと改めてウィズに惚れ直した僕は、HPにウィズのコーナーを作ろうと思い立ったのでした。
はじめたっきり、まったく更新されないコーナーもある中、無責任にもまたもや新コーナーのスタートです。名づけて、「ウィザードリィ・フリークス」。
以後お見知り置きを。


ウィズで楽しいのは、まずはキャラクターメイキングです。
5つの種族に8つの職業。理想のパーティ編成目指して、ぽちぽちとキーを操作します。
僕の初期パーティは、前から「サムライ、戦士、戦士、僧侶、盗賊、魔法使い」と決めてあります。レベル11以降を考えると、ここから戦士を一人減らして僧侶か魔法使いかビショプ等の魔法が使える職業を一人増やすのがバランスは良いのでしょうが、前衛に戦士系を三人並べておくと、ウィズの中で最も戦闘バランスが厳しいといわれる序盤が、少しでも楽になるのです。

メンバーの名前は、以前はどのウィズをやる時でも固定していた時がありましたが、このところは気に入っているゲームやアニメのキャラクターの名前を拝借することにしています。余談ですが、ウィズファンとしても名高い押井守氏は、企画から参加している「パトレイバー」という作品の主要人物が6人である理由を、ウィズのパーティ編成のためであると言っています。そういや「ご先祖様万々歳!」も主要キャラは6人でしたっけ。

先頭のサムライの名前は、天上ウテナとしました。ゆくゆく手に入れる予定の「村正」を、ディオスの剣に見立てようというわけです。サターン版のウィズは、古いパソコン版のウィズと同じく名前に漢字を使えるのが嬉しいですね。
前列2番目の戦士には、ガッツと名づけました。マンガ「ベルセルク」からご登場です。ファンタジーものの戦士のキャラクターにはうってつけでしょう。このまま、以下のキャラクターにグリフィスとかキャスカとか付けたい衝動に駆られましたが、マンガのごとく冒険中にとんでもないものに襲われたりするといやなので今回はガッツだけにしました。
三番目には自分の名前ということで、てなしもと名づけます。これで、大好きなキャラクター達と一緒に冒険が出来るわけです。
後列の先頭の僧侶には、考えた末アイヴィーと名づけました。DCの傑作格闘ゲーム「ソウルキャリバー」に登場する女王様です。前列のキャラが戦闘不能になった時に肉弾戦闘に加わるキャラですから、ちょいと攻撃的な性格のキャラクターを採用しました。
後列の真ん中、盗賊には、”ザ・ネゴシエーター”ロジャー・スミス。アニメ「THEビッグ・オー」から来ていただきました。今回の舞台は狭い迷宮ですから、頼みの綱のビッグオーは参戦できません。ノーマンも不在の独力ですが、宝箱の罠とのネゴシエイトに失敗しないでくれることを祈ります。
最後は戦力の要、魔法使い。魔女、ということで当然姫宮アンシーです。なんだか突然裏切られそうで恐いですけど・・・。

というわけでパーティ編成は終了。
サターン版では最初から酒場に居るレベル3のパーティから装備品を根こそぎ奪って身なりを整え、迷宮に出発です。
前方にのびる通路を無視して、まずは右手の小部屋へ。ここで、レベルが3くらいになるまで経験値を稼ぎます。レベル1の間は、一度の戦闘にすべての戦力をつぎ込み、戦闘が終わったらすぐに帰城、というのを繰り返して、安全第一に行動します。
「呪文の切れ目は命の切れ目」というウィズ格言に従うと、レベルが上がって呪文使用回数が増えるまでは、こまめに宿屋に戻りながら迷宮への出入りを繰り返すのが正しい冒険者の姿なのです。


今回はここまで。
このコーナーでは、これ以降も時折このパーティーの近況報告を挟みながら、いろいろとウィズに対する思いの丈を語っていきたいと思います。

可能性を広げましょう

ゲームの製作者(あるいは製作者グループ)は、経済的な問題や、技術的な問題、また、役職的な問題をクリアした範囲内で、自由にゲームを作る権利を持っています。
「ゲーム」そのものは決して製作者だけのものではないと思うのですが、ゲームを作る行為は、間違いなく製作者のものです。数学的なプログラムとデジタルデータ化されたイメージの合成を、好きに行えるという、素晴らしくクリエイティブな権利を有しているはずです。
そして同時に、ゲームを作ることによって得ることの出来る、ありとあらゆる利益を受ける権利も持っています。たとえそれが製作者の意図したものでなかったとしても、あるゲームによって起こった経済的、あるいは社会的な現象とその利益は、その製作者に還元されるべきです。ゲームが一つの創作物である以上、当然のことです。

製作者とゲームのプレイヤーの間には、送り手と受け手という立場の違いがあります。ゲームが上手な人が、イコール、ゲーム制作も上手いという図式は、成り立ちません。逆も同じで、テトリスの作者パジトノフ氏が世界で一番テトリスが上手いということはないでしょう。
この、明確に異なる両者が協力し合うことで、現在のゲーム文化は成り立っています。人が二つに分かれている時、選択肢は2つしかありません。握手するか争うか。極端な話をしていますが、プレイヤーが製作者を侮り、製作者がプレイヤーを舐めてかかるような状態では、決して良いゲームは出てきませんし、良いゲーム文化は育ちません。
プレイヤーは製作者を尊敬し、製作者は自分が胸を張って発表出来る作品を作ることに全力を傾ける。これが、理想の状態だと思います。

実際には、市場主義経済の渦中に住む我々が、こういった理想の状況にたどり着くことは難しいです。ゲームは作品である前に商品なので、納期や、経費や、技術の問題を抱えた上で、適正な価格で市場に並ぶことを大前提としています。
しかし、時に理想を目指すことも必要です。理想があるから、現状をよりよくしていくことが出来るわけですし、それを見失ってしまったら、そこから前に進めなくなってしまいます。そこが、その人の世界の果てになってしまいます。

クリエイティブな作業には、本来、限界は無いはずです。遠く気高い理想と、経験を元にした具体的な方法論、そして現在自分の自由になる小さな「何か」を備え持って、なにものも恐れず前に進む人を、僕は応援したいです。

すべてはここから始りました

ウィザードリィ(FC)

何度でも言います。すべてはここから始まったんです。
そして、今なお最高峰はここにあるのです。

プレイヤーは、6人以下のキャラクターからなるパーティを作って、ダンジョンに潜ります。パーティのメンバーは、それぞれの職業の長所を生かし、欠点を補い合うように組み合わせる必要があります。洞窟に入ったパーティが、一個の戦闘集団として有機的に機能し、ある程度以上の戦闘能力を発揮出来なければ、簡単にダンジョンの魔物にその冒険者達は殺傷されてしまうからです。
死んだパーティの遺体は、そのままダンジョン内に放置され、別のパーティーを組んで救出に行かなければ、未来永劫そのままです。
やっと遺体を発見しても、装備品や金品はほとんどが奪われ、死体の中には魔物に燃やされて灰化しているものや、食い尽くされて一欠けらの肉片すらも残っていないものがあります。何も残っていなかった場合は、復活は不可能です。しかし、灰や、ただの死体の状態でキャラクターが残っていれば、まだチャンスはあります。
遺体を街まで持ち帰り、寺院にて法外な御布施を払うことで、復活の”機会”は与えられます。運が良ければ、キャラクターはほんの僅かな能力の損失だけを代償に蘇り、再び冒険に向かうことができます。運悪く復活に失敗して、魔法のエネルギーに死体が耐えられず、灰化してしまったとしても、更に高額の御布施を払う財力があれば、もう一度チャンスはあります。そこからでも復活出来るようなレベルの高い復活呪文も、寺院は扱っているのです。洞窟内で灰化していたキャラクターは、はじめからこの呪文に頼ることになります。
ちなみに、その呪文の名前は「カドルト」といいます。ウィザードリィの世界の、最高神の名前の一つです。
寺院の僧侶も所詮人の子。そして、残念ながら人の力は完璧には程遠いもの。「カドルト」も失敗することはあります。というか、失敗する事の方が多いです。こうなれば、もうおしまいです。装備していたアイテムとともに跡形も無く消え去ったそのキャラクターのデータは、ゲーム中から完全に抹消され、僕らプレイヤーの記憶の中にのみその雄姿を留めることとなってしまいます。
この状態を、「消失(ロスト)」といいます。
そしてこのゲームの世界では、宿屋に泊ったり転職をしたりする度に、キャラクターは少しづつ歳をとっていき、歳の高くなったキャラクターはだんだんと能力値が下がりはじめ、いつか必ず「消失」の状態に至ります。
また、このゲームには、本質的には終わりがありません。ダンジョンの一番奥にはボス・モンスターの魔道師がいますが、そいつを倒しても冒険は続きます。ダンジョンに住む魔物は、全てが確率によってコントロールされているため、いまだ誰も見た事のないモンスターがどこかに居るかもしれないからです。いまだ誰も拾ったことのないアイテムが、どこかに眠っているかもしれないからです。
キャラクターはほぼ無限に鍛えることが可能ですが、一撃でこちらを殺す能力を持った「忍者」や、落ちている宝箱に仕掛けられた罠等によって、レベルが1000を越えたようなキャラクターでもたやすく死んでしまうことがあります。

ダンジョンに潜り続ける限り、果てしなく続く緊張。強くなっていく自分のパーティーを見守る楽しさ。出現率100万分の1と言われるアイテムを手に入れた時の恍惚感。いずれ訪れる「消失」への恐怖。
これらの要素が組み込まれた至上のゲームが、すでに20年前、コンピューターがコンピューターらしく成り始めた最初期の時点で、すでに僕らの前に提示されていたという奇跡。
そしてそれがアメリカ産のコンピューターから日本の小型ゲームマシンに移植され、更なる操作性の向上を持って生まれ変わったという僥倖。

今でも僕はこのゲームでよく遊びます。すでにバッテリーバックアップも切れ、カートリッジの中にはいつもまっさらな迷宮があるだけですが、その奥に潜むデジタルの魔物達と、彼らとの戦いの中で生まれた僕の歴代のパーティ達の幾多のドラマが、僕を何度でも呼び寄せるのです。

ゲームの話

このコーナーでは、電気を使うTVゲームやアーケードゲームも、道具や頭だけを使うボードゲームやカードゲームも、それにちょっとした思考ゲームなんかも、「ゲーム」とカテゴライズされる全てのものを、いろいろ扱っていきたいと思っています。
とはいうものの、日常触れる機会から考えてみて、おそらくはTVゲームに関しての更新が多くなると思います。

以前、雑誌で「ゲームは誰のものか」ということを語っている人がいました。マリーガルという、ゲームのプロデュース業をする会社の香山さんという方だったと思いますが、香山さん曰く、「ゲームは、製作者の物である」とのことでした。(ゲーム制作というのは多人数による分担作業の極みとでも言うべき側面がありますから、この場合、正確には「製作者グループ」というべきでしょうね。)
友人から聞いた話ですが、一般に、「映画は監督の物」、「舞台は演出家の物」、「TVドラマは脚本家の物」と言われているそうです。なるほど、なかなか深みのある、納得出来る話です。しかし、それらのものに比べて、ゲームはどうでしょう?

監督は、映画の「作り」に一番影響を与える立場です。舞台での演出家も、TVドラマでの脚本家も、そういう立場であるといえます。
たしかに、ゲームの製作者というのも、そういう立場にあると言えます。しかしながら、ゲームには、映画や舞台やTVドラマとは峻別されるべき質的な特徴があります。それは、経済的な問題を除いても、スタンドアローンでは作品として機能しないということです。
フィルムの中にある限り、観客がその時存在しなくても、映画は映画です。難しい演劇論はひとまず横において、一般的には役者が演じている限り舞台ですし、TVでかかっている限り、ドラマはTVドラマであり続けます。しかし、ゲームは、遊び手がいなくてはゲームとして機能しません。
TVゲーム機にソフトを入れて、電源を付けても、タイトルや製作者の名前、そして内容のダイジェスト等が画面に映るだけです。カードゲームは、同じサイズのカードがそこに積み上げられているだけでは、紙切れでしかありません。
スタートボタンを押し、カードをシャッフルするプレイヤーの意志が介在しなければ、製作者がどれほど趣向を凝らしたところで、それはゲームとして機能しないのです。

ちょっと考察・「ゲームは誰のものか2」 (9月24日)

優れたゲーム製作者は、その辺はちゃんと解っていて、僕らにスタートボタンを押す気を起こさせるところから、ゲーム作りをしています。
もっと優れた製作者は、その点を放棄して、ゲームを、僕らが遊ぶに任せます。
ゲームは、インターネットが誕生するはるか以前から、製作者とプレイヤーの双方向性メディアでもありました。
ゲームは、半分以上は製作者の物であるのは確かです。しかし、確実に何割かは僕らユーザーの物であるはずです。
そして、ゲームは、究極的に、「面白いもののイデア」を目指しています。
いつの日か、ゲームが「面白いもののイデア」にたどり着くことを信じて、僕は今目の前に在るゲームたちに、エールを送っていこうと思うのです。僕も、ゲームという素晴らしいエンタテインメントの最先端に、プレイヤーとして参加しているのですから。

・ウィザードリィ(FC) (99年9月19日)
ウィザードリィ・フリークス1(00年1月28日)


・レッドアラーム(VB) (99年9月26日)

・スターフォックス(SFC) (99年11月6日)

・「とんびのシェンムー最速レポート(某会議室からの転載)」(DC) (99年12月25日)

・「CAPCOMvsSNK」(DC) (00年9月6日)
「CAPCOMvsSNKの続き」 (00年9月7日)

・ソニックアドベンチャー(DC)

・ナイツ into dreams..(SS)

・俺の屍を超えてゆけ(PS)

・電脳戦記バーチャロン(AC)

・マジック・ザ・ギャザリング(カードゲーム)

・ロケットガール(TRPG)

・囲碁(ボードゲーム)

・麻雀(テーブルゲーム)

・鬼ごっこ(・・・?)

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