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何気ない人の営みをこんなにいとおしく思えるなんて

WOWOWで深夜に放映していたのを、つい見てしまいました。
劇場公開当時は、名古屋駅近くの街頭ビジョンで隕石の地上激突シーンがよく流されていたので、「ああ、そういう映画か」などと独り言をつぶやきながら、ついに見に行くことは無かったのですが、とても気にかかっている映画ではありました。
ストーリーは、大体予想できていました。
地球に、大きな隕石が降ってくるわけです。人類は、アメリカ大統領を中心に人類生き残り計画を立て、まずは隕石に有人ロケットを飛ばし、核爆弾でそれを粉々にしようとします。でも、些細な不幸でそれは失敗します。人数制限のあるシェルターに入ろうとする人のひしめき合う映像。助かろうとする者、譲る者、拒む者、受け入れる者。ついに地上に到達した隕石が引き起こす特大の津波。飲み込まれる街。少しでも逃げようとする者、無抵抗な者。
予想範囲を越えないストーリー。つまり、期待通りの映画だったわけです。
街頭ビジョンでその映像を見た1年前に予想した通り、この映画を見ながら、僕は何度も零れる涙をぬぐいました。それを見ていた約2時間のうち、後半1時間はずっと泣いていました。
人々の営みが、これで終わってしまうのです。しかし混乱の様子や醜い争いのシーンは、TVニュースの向こうの映像として少量が流されるのみで、映画が映し出すのは、その過酷な状況に強く、あるいは弱々しく立ち向かい、生き、死ぬ人々です。父と子、家族、若い恋人。監督が女性だからというわけでもないのでしょうが、優しく柔らかなドラマがいくつも描かれます。

どうなんでしょう?この映画は、それほど高い評価を得たという話は聞きません。しかし、僕はこの映画を見て、古来より語られてきた「物語の力」という素晴らしいものに触れた実感を得ました。
清き決断をする人間の姿を見たい方は、どうぞこの映画をご覧になって下さい。

冒頭のシーンが「ガメラ2・レギオン襲来」とやたら似ているのは、ちょっと笑えますけど。

走るサムライ

レンタルビデオ店なんかで、知らないタイトルの映画を無造作に借りてきたとします。
「なんでこんな映画作ったんだ?」って思えるような作品に当たってしまう事もしばしばですが、時折、大当たりとも言えるような作品を見つけたりして、小躍りしてしまう事があります。「SFサムライフィクション」は、ちょうどそんな映画です。

SFというのは、サイエンスフィクションのことではなく、そのまま「サムライフィクション」の略称です。真面目な剣戟映画です。
はじめ、最近の若い監督さんが撮った剣戟映画だというあおりを見て、過去の日本映画へのオマージュ的な作品である事を想像したんですが、それは勘違いでした。問答無用に面白く、どこか懐かしく、そしてなんとも新しい映画でした。丁寧に作られた、過去の名作にイメージを頼ったりしない、独立した剣戟映画です。
主人公は生真面目で、その生真面目さゆえに可笑し味のある青年サムライです。藩の宝である将軍家から賜った刀を盗み、藩の役人を殺して逃げた剣客を追ってひたすら走ります。幼馴染の青年サムライ二人も一緒に走ります。じきに、ただ走る主人公を止めてくれる中年サムライと、その娘が現れます。それでも主人公は走ろうとします。宿敵の剣客も、生き急いで苛立ち、走ります。藩お抱えの忍者も走ります。馬も走ります。任侠も走ります。終いには、中年サムライも走ります。最後に、主人公は泳ぎます。

ストーリーを言わないようにこの映画を紹介すると、そんな感じです。
監督は、色々なミュージシャンのミュージッククリップを作っている人で、専門ともいえる音楽と映像との融合はもちろん、殺陣の見せ方や人物のちょっとした描写などに、非凡な才能を見せてくれます。
こういう当たりを引くことがあるから、知らない映画を適当に見るのはやめられません(ただ単に映画を知らないだけだという話もあります)。

とにかく、一度観たら、知り合いに教えてまわりたくなる映画です。というわけで、まだ観ていないのでしたら是非どうぞ。

限界?

あまり面白くない映画でした。
ものすごく丁寧に作られた脚本を見ても、1シーン1シーンの考えられた絵作りを見ても、おそらくそれほど多くはなかったであろう予算の中できちんとした作品に仕上げた執念みたいなものが感じられますから、決して、平凡な映画ではありませんでした。きっと、この映画を好きだと言える人も、見た方の中にはいらっしゃることと思います。
原作のマンガを読んでも解るとおり、この作品には、あまり多くの個性的な人物は登場しません。マンガ版は、警察官の日常が、飛びぬけて個性的な二人の主人公を引き立てるために用意され、延々と繰り返されるという作品です。しかし、この劇場版では、主人公二人の活躍もさる事ながら、サブキャラクターたちも精いっぱいの個性を主張して頑張ります。テロVS一般警察という非日常の状況に直面して、恐れ、そして奮い立つサブキャラクターたちは、みんな魅力的でした。
さらに、物語の端々で登場する小技の効いた演出や、マンガ版から受け継がれた特殊設定の数々も、ここでそうくるか!と思わず膝を叩いて唸らされるような使われ方をされていました。全体の流れを見ても、一つの事件と、そこに渦巻く人間ドラマ、そして状況に立ち向かう主人公達をよどみなく描いており、非常に完成度の高い映画になっていると思います。

しかし、まずなによりこの映画に言えることは、作品全体が小さいということです。描かれている人物のすべてが薄っぺらで、語られる能書きは説得力に欠けるものばかりでした。状況設定は正しいのです。日本の警察署は、本格的なテロリストの攻撃に対して驚くほど無力であり、警察がそれに対抗するためのマニュアルを作っていたという設定に無理はなく、それを作り上げた知的犯罪の専門家が謎の疾走を遂げたというプロローグも大変興味を掻き立てられます。
それなのに、それに関わるすべての登場人物が、その状況を理解しているとは到底思えない思い付きの行動を取り、しかしそれで事件は解決してしまいます。
また最大の問題点は、こういった犯罪を描いた物語においてある意味で主役以上に重要な役柄であるはずの犯人が、全く魅力的な人物でなかったことです。見事な手腕で手持ちが少ない戦力であるにも関わらず東京を混乱に陥れ、一つの警察署を完全に制圧してみせ、体制を手玉にとってみせた男が、行動の心理をやすやすと指摘され、自殺に失敗し、組み付されながら主人公たちと談笑するとは何事か!この映画全体の小ささは、この犯人の器の小ささに他なりません。犯人の魅力が皆無であるからこそ、彼との友情の板挟みにあいながら、終始謎の行動を取り続けた主人公たちの上司の魅力も、まったく引き出されなかったのです。

ラストシーンは、主人公たちの小さなパーティです。少々大掛かりな舞台装置を使った小さな物語は、後に何も残さないであっさりと終わります。筋も面白いし、派手なシーンも多いのに、ここまであっさりした印象を受けてしまうのは、まったく人間が描かれていないからです。作り手が最初から大きな話を作ろうとしていたのではないことは、そのラストシーンからも容易に想像できますが、それならば状況設定や舞台設定に凝った、こんな背伸びはやめるべきでした。人間が描かれていない物語ほど、見苦しいものはありません。優れた脚本家は、劇中の登場人物のほんの一言からでさえ、人間の持つ深い苦悩や喜びを、受け手に感じさせることが出来ます。それが出来ない、もしくは、それを行おうという努力をしない者は、表現者の道をあきらめるべきです。この映画の登場人物に、僕は一人足りとも惚れることが出来ませんでした。

大まかなストーリーの相似や、「○○ THE MOVIE」というタイトルから感じていたほど、この映画は「パトレイバー THE MOVIE」に似た映画ではありませんでした。東京や警察といったキーワードを重ねていくと自然に使わざる得ない、例えば河川と船による移動といった部分的にそっくりなシーンはあっても、これだけ異なる作品になっていたという点は評価できると思います。

理知

当HPからもリンクさせていただいている「FatMan's FLYING CIRCUS」さんで、モンティパイソンが大変にプッシュされており、名前は聞いたことがあったものの作品を見たことが無かったので、レンタルビデオ屋さんに探しに行きましたところ、劇場版モンティパイソンというやつがポツンとありまして、それで借りてきて見たという次第です。

簡単に言ってしまえば古いコメディなわけですが、その破壊力はすさまじいものがありました。笑い、というのは冷静に語るのが難しいものですので解説は差し控えますが、今日僕らがよく目にする多くのギャグの中に、モンティパイソンによって作られたパターンがどれほど多く含まれているのか、見当もつかないということは言えます。
はじめに見た時は、そのネタは少々古く感じました。それは、モンティパイソンをオリジナルとするギャグに、現代日本人は日常的に触れているからだと思います。なんとなく、ドリフや、吉本新喜劇、松本人志なんかが、見ていると頭の中に浮かんできます。しかし、もう一度見返してみた時、今度は心から、素直に爆笑している自分に気が付きました。ギャグの王道の中に、「パターンのギャグ」というのがありますが、まさしくモンティパイソンはそのオリジナルなわけで、今まで幼い頃から散々笑ってきたギャグの元ネタに触れているわけですから、笑えないはずがありません。

今までちゃんと見たことなかったんですけど、他にもたくさんある有名な「笑いのオリジナル」の作品に、触れたくなりました。
まずはもういくつかモンティパイソンのビデオを探して、その次はチャップリンを見てみたいです。

どかーん

黒のジャケット、黒のズボン、黒の革靴、黒の帽子と黒いサングラスに身を固めた二人組み。
残念ながら彼らは「ブルースブラザース」ではありません。
いつの間にやら地球上に忍び込んでいた宇宙人達を管理し、宇宙人の事を知ってしまった善良なアメリカ国民の記憶からその部分を消し去っていく、アメリカ合衆国の国家公務員です。
彼らに名前はなく、ただその特徴的な黒づくめの姿からメン・イン・ブラックと呼ばれています。
「MIB」は、その組織に抜擢された青年警官を主人公とする、ドタバタコメディ映画です。

この映画について、特に語る事はありません。
分かり易い筋立て、特撮を多用した種類豊かな宇宙人の描写、テンポの良いギャグ、派手なCGアクション、お色気少々、そしてハッピーエンド。強いて注目点を挙げるとすれば、二種類のMIB登用テストに対して主人公がとった行動のアイデアと、対宇宙人用武器の破壊力の描写でしょうか。

上映時間は約二時間。その間は、他事を考えることも無く、ただのんびりとドタバタ映画を楽しむ事が出来ました。
つまりは、これは上質な現代のハリウッド映画って事です。二時間の暇つぶしに、よかったらどうぞ。

ファイナルウーマンは、マザーにはなれないのか。

「エイリアン1」は、小学生の時にTVで放映していたのですが、恐くてまともに見られませんでした。すぐにTVの無い部屋に逃げてしまいました。
「2」は、当時の少年漫画誌なんかでも大きく扱われたので、大まかな物語の流れや大仰なパワードスーツの存在は知っていますが、映画そのものは、これも後にTVでやっていたものをちらっと見た程度でした。
そして「3」は、映画好きの知人に、カメラワークがスゴイよとだけ聞いたことがあるだけで、全く見たことがありません。
ついでに、「VSプレデター」はゲーム化されたものを少しやったことがあるだけで、ストーリーもろくに知りません。
僕にとって、今回の「4」は、映画としての「エイリアン」の初体験でした。

なんとも、SF映画でした。「3」までの時代から、さらに200年が経過。エイリアンの子を宿したまま死んだシリーズの主人公リプリー(当然シガニー・ウィーバー)が、冥王星軌道に浮かぶ軍事用宇宙ステーションで、クローン技術によって甦ります。
シガニーは、当初もうエイリアンシリーズに出演するつもりは無かったらしいのですが、目を通した「4」のシナリオがあまりに面白かったので、出演を承知したんだそうです。
科学者達は、クローンリプリーの体からエイリアンの胎児を摘出し、育て、軍事兵器や化学産業に役立てようと目論んでいました。その科学者達に、冷たく「あなたたちはみんな殺されるわ」と言い放つ、クローンリプリー。「3」までで、何度もエイリアンと戦い、最後は自爆までした彼女の重いセリフも、200年後の科学者達には実感を持って届きません。

クローン、コールドスリープ、宇宙ステーション、遺伝子の混合による新種の誕生などなど、SF的なギミックは随所に使われていますが、それらに埋没することなく、過去の優れたSF作品と同じように、この映画では人間ドラマの方にこそ物語の比重が重く置かれています。
SFが文学の一ジャンルたり得ている理由は、それが人間というものをリアルに描くことが出来るからです。この映画はそこを忘れずに、極限状態での人間の選択や、ふとした気の迷い、心の醜さ、そしてその悲しみを描き切ります。残酷な映像の多いこの映画の中で、ウィノア・ライダー演じる正義感の強い美少女が時折見せる、人間的で温かい言葉や行動に、僕は何度も気分を和ませたのですが、彼女の正体が終盤で明かされると、それはリプリーが自分がクローンであるという悲しみを強く受けるあるシーンとともに、僕に大きなショックを与えました。

最後に現れる特別なエイリアンは、物語上の扱い次第ではこの映画のテーマをひっくり返してしまうような、強力な意味を持った存在でした。今、ハリウッドでは、「エイリアン5」の制作の話が持ち上がっているそうですが、このエイリアン以上に存在に意味のあるエイリアンは、そう簡単には作れないでしょう。また、そのデザインも、「人類の敵エイリアン」としては、究極のものだったと思えます。

ホラー映画として紹介されることの多いシリーズ作品だと思うのですが、見た後の感想は、とにかく良質のSF映画をみたなあというものでした。

ところで、僕は、この映画の最後に使われているあるシュチュエーションにとても弱いのです。これが出て来ると、映画だろうと小説だろうとマンガだろうと涙が出てきちゃうんです。セーラームーンR劇場版でも、笹本裕一の小説「星のパイロット」でも泣いちゃいました。きっと、幼児期になにかトラウマでもあるんでしょうね。

もう一度教えて欲しい

「怪獣映画なんて子供の観るもの、着ぐるみがドタバタやってるだけでしょうもない」とあなたが思っているのだとしたら、あなたが平成ガメラシリーズを観ていないのは間違い有りません。
僕はもともと特撮モノは好きですが、着ぐるみがカッコ悪いというのはしょうがないことなんだと思っていました。好きになればなるほど、どうしたって、中の人が汗をカキカキ、一生懸命動かしているのが脳裏に浮かんでしまいます。だからこそ、希に存在していた、「着ぐるみの怪獣がとびきり格好よく見える瞬間」というものをありがたがっていました。
しかし、あえて言い切りますが、平成ガメラシリーズの怪獣達は、ほとんどが着ぐるみに見えません。どのシーンも、怪獣達はとびきりカッコイイです。知識として、スクリーンに映る怪獣達が着ぐるみだったりCGだったりするというのは頭に入っているのですが、視覚から入って来る、「巨大なモノが街を破壊している」という情報と、脳内で重なろうとしないのです。
現場レベルでは、今までの怪獣映画にはなかった、様々な工夫がされていたそうです。撮影のほとんどを野外セットで行い、自然光によって画面全体の「作り物っぽさ」を取り去ったこと。基本的に画面を人間の視点の高さで構成して、怪獣の巨大さや存在感、その圧迫感を存分に引き出したこと。僕らが日常レベルで見ている町並みや野山の風景に、造型の簡略化等による嘘を使わないこと。
その結果が、このように近年希な、本気で見られる怪獣映画の完成に結びついたのです。

「G1・大怪獣空中決戦」「G2・レギオン襲来」に引き続き、今回の「G3・邪神覚醒」も、不安無く劇場に足を運びましたが、そのデキの素晴らしさにやっぱり感動いたしました。それまで怪獣映画の最高傑作だと思っていた「G2」が、もう物足りなくなってしまったくらいです。
平成ガメラシリーズは、今回の「G3」で終わってしまったそうですが、出来ることならばまた、このクオリティの怪獣映画を観たいものです。このジャンルの大スターで高名なゴジラさんは、去年まで海外に武者修業に行っていた割には、いまだに着ぐるみっぽさが抜けきれておらず、今度公開される新作も、また「構えて」みないといけないみたいですから・・・。
(そうそう、この「G3」にゴジラとキングギドラが写っていた場面がある、と僕は主張しているのですが、誰も認めてくれません。あなたは、見つけましたよね?壁画ですけど・・・)

踊る!

簡単なことです。ビデオデッキにこのテープを入れて下さい。
ヒンディー語というのは、なんとも音楽的な旋律を持つ美しい言葉です。今風ではないところがかえって好ましいダンスミュージックをバックに、そのヒンディー語の歌を唄いながら、ムトゥは馬車に乗ってあなたの前に現れます。
老若男女からモテモテの、あるマハラジャに仕える中年男性使用人、ムトゥが、あなたをマサラムービーの世界に引き込みます。
踊り、唄い、恋をし、事件を解決します。特に踊ります。
最初は「何なのだ!」と思うかもしれませんが、ムトゥの力強い歌声と、ヒロインであるミーナの驚くほど甘い歌声、そしてへなへなのアクションシーンを観ているうちに、細かいことはどうでもよくなってきます。

勧善懲悪のメインストーリーに、お昼のメロドラマのようなラブロマンス、そして忠君の人情ものに加えて貴種流離譚と、分かり易い物語のエッセンスが存分に詰め込まれ、観ていて頭を使うことはまずありません。
上映時間2時間半と、気楽に観るにはちょっと長い映画かもしれませんが、のんびりした休日の午前中にでもご覧になれば、その後の半日がなんだかやたらハッピーに過せること、うけあいです。

卵の殻を破らねば、雛鳥は生まれずに死んでいく。

同じ映画を2回紹介するのも反則かなとは思ったのですが、二日連続で映画館に足を運んでしまうほどハマってしまったので、どうかご容赦ください。

今回は、TV版を多少なりともご存知の方に、いくつかの「みどころ」についてご紹介したいと思います。
まずは、大きくデザインの変化した鳳学園。TV版ではまるで前方後円墳のような形をした巨大な丘の上に建つ学校でしたが、物語の冒頭から画面に登場する今回の学園の校舎を見たら、その強烈に打ち出された新しいイメージに皆さん驚かれることでしょう。幾原監督は雑誌のインタビュー等で「皆さんにいままで誰も体験したことのない映像をお見せします」と発言していますが、その象徴たるものこそ、この校舎だと思います。ただし、冒頭のシーンだけで十分に衝撃的なのですが、ここであまり驚きすぎてしまうと、後に続く無数の未体験映像美の群れに圧倒されてしまいますから、どうかほどほどに「構えて」ご鑑賞下さい。

「黒薔薇会編」を皆さんは憶えていらっしゃいますか?あの時の施設も登場します。並べられた椅子の上の交通標識。そして面会室。今回あの面会室に入るのは、なんとウテナ本人です。本来面会室に入るべき「黒薔薇の生徒」との対極に位置するはずのウテナが、あの面会室に入った時、どのような結果が訪れるのか。ずっと抱いていた一つのイフが解かれます。

生徒会メンバーそれぞれの動きも見逃せません。特に生徒会長桐生冬芽はTV版であまり描かれなかったバックグラウンドが初めて描かれ、彼に対する印象が大きく変わること請け合いです。西園寺莢一はいつも通りの一直線野郎で、薫幹はTV版以上に薫梢に翻弄され、有栖川樹璃はTV版以上に悲しく描かれます。ナナミは・・・ナナミでした。そしてもちろん、全編にわたって描かれているのはウテナとアンシーの物語。ある場面ではTV版と同様に、またある場面では予想外の行動を取って観客を仰け反らせてくれます。

真っ赤なボディとスポーティなフォルムが魅力の「アキオカー」も、もちろん登場します。TV版とは少し違った役回りでですが。しかしながら心配は御無用!誰も想像出来ないような登場の仕方をする「ウテナカー」を筆頭に、何台もの自動車が終盤のスクリーンを飾り、激しく疾走します。それらが何を目指しているのか?それがおそらくこの映画のテーマです。


「劇場版少女革命ウテナ・アドゥレセンス黙示録」は、全国東映洋画系で放映中です。意外にお客さんは入っていますがおそらく長くても9月中旬には打ち切られてしまうと思うので、見ようと思われた方はお早めに!

お面貸して下さい

スタンリー・キューブリック最後の作品となってしまった「アイズ・ワイド・シャット」を、たまたま見る機会がありました。
キューブリックの訃報が世界中を駆け巡った際に、ニュース等で最後の映画としてこの作品の映像が流れていたので、やたら顔の良い男女が絡み合っているシーンなんかを見た記憶がある、なんて方も多いのではないでしょうか。
なんだかどのニュースでもHなシーンばかりが使われているなあなんて思っていたら、答えは簡単。この映画にはそおゆうシーンしか無かったんです。さすが15才未満鑑賞禁止。

ストーリーには、大きな起伏はありません。まるで僕らの日常のように、安定した毎日と、ちょっとした身の回りの不安が繰り返されるだけです。
それゆえに、映画の中盤で、無意味にやたら顔の良い主人公の医者が、ある奇妙な不思議パーティーに偶然忍び込む場面が、異常な恐怖を生み出します。それまでただのひねくれたホームドラマだったものが、唐突にゴシック・ミステリーに変化します。
際限の無い恐怖が観ている僕らをも包み込みます。喩えるなら、「子供時代、ちょっとしたイタズラが大変な事件に発展してしまって、その犯人探しを大人達がしている場面に立合っている緊張感」とでも言いましょうか。白状してしまえば簡単に済むのかも、という考えと、自分の想像もつかないような大問題になっているんじゃないかという不安感のせめぎ合いです。
そしてこの恐怖は、はっきりとした解決を迎えず、「なんとかやり過ごした」というような形で終結し、映画は淡々と終わります。中盤の、水面に落とされた墨のような恐怖がシンプルに映画を飾っているだけで、あとは本当に起伏の無い映画です。
大変気に入ってしまいました。

同行者も気に入っていたようでしたし、お客さんも随分入っているみたいなので、良い映画なのかもしれませんが、気がかりなのは、僕と一緒に映画館を出たほとんどの人が首をひねっていたことです。
ハリウッド型の分かり易い映画を見なれた人には、楽しみかたが難しい映画かもしれません。でも、よかったら、どうぞ。

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