記事一覧

埋め立て地の黄色い花

1989年制作。スタジオぴえろ設立10周年記念作品。原作・監督・脚本/押井守。オリジナルビデオアニメシリーズとして6巻で完結しており、のちに押井監督自らの手で2時間に再編集され、劇場公開もされました。

押井守ファンならともかく、普通のアニメファンや、ましてはアニメにそれほど興味の無い方々には、まずご存知の無い作品だと思います。
スタジオぴえろ内でも上部からの評判はかなり悪く、完成試写を見終わった鳥海永行氏(押井監督の師匠)が、「お前のやりたいことはよーくわかった」と言ってから、押井監督のいないところで現場の若いスタッフに「おまえら、あれを面白いと思っても、絶対に真似しちゃいかん」と言ってまわったという逸話も残っています。
ストーリーは、誤解を恐れずに言い切るならば、「裏・うる星やつら」とでもいうべきものです。しがないサラリーマンの父親、ガミガミうるさい母親、そして年頃の息子の三人家族のところに、一人の少女がやってきます。なんと少女は、自分は未来からタイムマシンに乗ってやってきたこの家族の子孫であるといい、ご先祖様に奉仕をしにやってきたと言います。未来では、「血」への信仰が高まっていて、先祖への狂信的な献身が当たり前になっているのだと。
現実的に考えて、この少女はサギ師であると断定し、追い出そうとする母親。
どんな理由でもいいから、それを肯定してこの美しい少女と一つ屋根の下で暮らしたがる息子。
少女の言い分を妄信的に信じ、この献身的な少女を家族に迎え入れることで、失われている自分の家長としての権威を取り戻そうとする父親。
その結果、「婚姻」という「血」ではない繋がりによってこの家にいた母親が、家族の図式からはじき出されることになって、ビデオの第一巻は終わります。

しかし、この少女の正体については、なかなかに明かされません。冷静に考えれば、言っていることはめちゃめちゃなんです。2巻では、タイムパトロールを名乗る全身タイツ男が、無許可で時間渡航行為を行ったという罪状で、少女を捕まえるためにこの家にやってきます。しかし、どうにも怪しい全身タイツ。そもそも、自分達の願望のままに、作り話のような設定を受け入れてしまったこの家族のドラマが、平穏無事に終わるはずはないのです。
そして、息子は少女を連れて出奔、一家離散、のちに、再会。さらに、この家族は犯罪行為に手を染め、社会を敵に回しても、結束堅く家族であろうとしつづけます。
家族とは、なんなのか。「うる星やつら」どころの話ではありません。近親相姦、不倫、銀行強盗、窃盗、山中のドライブインでの警察を相手にした立て篭もり。ハードな家族のドラマが、独特のテンポとユーモア、そして舞台演劇的表現手法によってあっさりと語られていきます。

押井監督は、この作品を「パトレイバー1」と同時進行で作っていました。予算が潤沢に使える向こうに比べ、「ご先祖」では録音スタジオもまともに手配出来ないほどです。しかし、現場のスタッフの間ではこの作品は極めて好評で、「ご先祖2」をやることがあったらぜひ又参加したいと言っている人が多いそうです。
押井守の応援者であるという「少女革命ウテナ」の幾原監督は、この作品が押井作品の中で一番好きなんだそうです。ちなみに、てなしももこれが一番好きです。

説明を忘れていましたが、この作品は全編が「笑い」で構成されており、そのテーマ性に反して、極めて明るい作風のアニメに仕上がっています。
もし、近所のレンタルビデオ店などで見かけることがありましたら、手に取ってみることをオススメします。
次回以降の更新では、完全に、この作品を見た方だけを対象とした、「ご先祖様万々歳!」論を展開していく予定です。

夢のまた夢

この作品が大好きだという人が、僕の周りにはたくさんいます。皆さんの周りにも、そういう方がいらっしゃるのではないでしょうか?
この映画はどこが面白かったのか、という問いに対して、多くの人の答えは、ある方向性に集約します。
「学園祭の前日。仲間と泊り込み、お祭り前のお祭り騒ぎ。誰もいない街で好きなだけ遊び、飲み食いし、その世界がえんえんと続く。それが気持ちよかったから」
また、映画論を語るにおいても、あちこちから好評価が送られてきました。「これはメタ映画であり、映画そのものとして面白い」と。
この素晴らしい映画は、劇場公開時は放映中だったTV版の大人気もあってそこそこの入場者数も記録、そして評価は、「うる星やつら」ファンも一般のアニメファンも、そして普通の映画ファンからも絶賛されました。
しかし押井監督は、この映画の骨格が制作された夏、カラオケスナックの2階に下宿して、昼はTV版の現場から送られて来る絵コンテと原画のチェック、夕方から夜にかけては世界初のOAV「ダロス」の制作、そして夜から朝にかけてを「ビューティフル・ドリーマー(以下「B・D」)」のコンテ切りに当てるという地獄のようなスケジュールの中でこの作品を生み出していたのです。
その夏のはじめに、公開日までの日数がどんどんと減っていくなかで会社を焦らすように制作を先送りにし続け、会社から「もうお前の好きなようにやっていいから」といわれた途端に用意していた話の骨格を説明してコンテ作りに入ったという逸話がありますが、その結果、押井監督が好きなように作ることが出来る代わりに、名作「B・D」はシナリオすら書かれず、監督以外にはどんな作品になるのか誰も知らないという状況で制作が開始されたのです。
ところが、ここが奇人の奇人たる由縁か、なんとスケジュールを会社側にごまかして、制作レベルでは予定より一ヶ月もはやく作画を仕上げさせ、アフレコの段階では画面に95%色がついていたといいます。そしてそこからは、今では押井映画の特色の一つになっている「音」へのこだわりに、時間と労力が割かれました。

ここで、押井監督が超人的なスピードでアニメを制作した話をもう一つ。
同じく「うる星やつら」の話なのですが、この作品、TV放映が決定してから実際に放映開始がされるまでの間隔は実はたったの3ヶ月だったそうです。普通、アニメ制作は多少なりともスケジュールが厳しいものだそうですが、これはいきすぎです。その上、押井守が所属していた当時のスタジオぴえろの主力スタッフは、先年の「ニルスの不思議な旅」から人気を引き継いだ大看板の「太陽の子エステバン」と、「まいっちんぐマチコ先生」に出払っており、与えてもらえた有力な演出家は一人だけ。後はなんとか押井監督が人脈でかき集めるしか無く、間に合わない分は外部にどんどん発注を出し、ついにはなんとスケジュールを間に合わせてしまいました。そして、アニメーターの出入りを自由にしているうちに、「あそこは好きなことをやらせてくれる」という噂がたって、それまでスタジオぴえろといえば動物を動かすのが得意なところだったのですが、板野一郎氏(マクロスなどでお馴染みの板野サーカスの人)や平野俊弘氏(熱狂的なファンのいる美少女描きアニメーター)などもやってきて、いつの間にやら「うる星やつら」はSFメカ、ファンタジー、美少女なんでもござれの一大バラエティーアニメになっていったのです。はじめは原作ファンあたりからカミソリレターなんかも送られてきて評価も散々、一次はクビになるかどうかというところまで行ったそうですが、後に視聴率・人気共にブレイク。この作品は皆さんもご存知の押井守中期(初期?)の代表作となりました。

さてさて、話は逸れましたが、今回僕が皆さんにお話したいのは、「B・D」の音についてです。厳密には、ある効果音について。
明日の学園祭を控え、「純喫茶第三帝国(おそらくこの名前はメガネの趣味であろう)」となったあたる達の教室には、面堂の持ち込んだ戦車が中央に居座っています。無茶をするなと文句を言う温泉マーク(教師のあだ名)に対して面堂は見栄を切り、「なんとか運び込んだけれども教室の容量はぎりぎり、いつ底が抜けてもおかしくありません。突っつくのはやめて下さい。それとも、明日の開店を放り出して今更こいつを教室から出してしまいますか?」というようなことを言い放ちますが、これを、温泉マーク=会社、面堂=押井、教室=映画興行、戦車=作品内容と読み替えて、会社側への押井監督の勝利宣言とする解釈が有りまして、その前のシーンにおいても学内の混乱に混じってスタッフがあちこちに顔を出しており、校内で聞こえて来る「引けー!力の限り引けー!こんじょおみせてみろお!」という掛け声なんかも押井監督からのスタッフへの叱咤激励と解釈してしまうと、序盤はすでに「B・D」を作っている人々を描いたメタ映画になっているという読み解きが出来ます。

またまた話が逸れましたが、その戦車レオパルドが、その自重から床を軋ませる音、「ぎごご」というようなあの音が、作中、一見無関係な場所で何度も響いているということに、皆さんはお気づきでしょうか。
自宅に帰った温泉マークを追ってサクラが学校を飛び出し、廃虚と化していた安アパートの一室でかびに埋もれていた温泉マークを連れ出して喫茶店にて会話をするシーン。実は同じ一日を繰り返しているのではないかという疑問を作中で初めて気が付いた(すでに失踪している錯乱坊が先か?)温泉マークが、それをサクラにおずおずと語る場面で、その「軋み」の音がします。
そこからしばらく経った後、学校が一番怪しいと睨んだあたる達が夜の友引高校にジープを乗り付けたシーン。木造モルタル三階建てのはずの校舎が四階建てで聳え立っていることに気が付く場面で、またもや「ぎごご」と軋みます。

軋みが聞こえる場面の共通点。それは、「世界の歪みが露呈した場面であること」です。最初に教室(=映画興行)を軋ませた戦車(=作品内容)という読み解きをしていないと、これらのシーンで何故にその音がするのかは説明できません。では、軋み、崩壊してしまった世界が何を生み出すのか。
次回以降の更新では、その辺りを中心に論を進めていきたいと思います。

「パトレイバー2・ザ・ムービー」を読み解く

押井守作品を鑑賞する際には、常に二つの視点を用意しなければなりません。
「その作品単体だけで読み解く視点」と「押井作品一連の流れの中で読み解く視点」です。
前者はその作品が上映されている時間にそって行使され、、後者は過去の押井作品を頭の中で横に並べ、その時見ている場面と比較しながら扱っていきます。
後者の認識を持つことで、無意味に感じたシーンが鮮やかな色彩をもって能弁に私達により難解な謎を語り掛けてくれるようになったりするわけですが、映画としての評価は、主に前者の視点によって下されます。
この前者がそもそも、なかなかに難解で、それが押井作品の世間一般の評価の辛さと面白さに繋がるわけです。

しかし、決して「後者の視点が入っているから押井映画は難しいのだ」などと勘違いしてはいけません。
「映画」を作ることにこれほど貪欲な監督が、「映画」であることに意味を成さないシーンを一秒足りとも作品内に入れるはずがありません。アニメ映画は、そのシーンをわざわざ技術のある人間が描かなければならないという性質上、実写以上に細かく作品内の時間が制限されます。画面の隅からすみまで設計図を引かれた状態で作られる映画なのです。
挿入されているシーンが難解であったり、無意味に感じられるのならば余計に、そのシーンには必然性があると考えなければならないし、実際に押井作品に登場するそういったシーンは、研究すればするほど、深い意味が現れてきます。(押井作品と少女革命ウテナ以外のアニメについては、知ったこっちゃございません。)

そして、「パトレイバー2・ザ・ムービー」は、僕の知る限りでは、押井作品の中で「一番無意味に見えるシーンが多い作品」なのです。
なぜ、延々と水族館なのか。なぜ延々と首都高速なのか。なぜ延々とあの男は鳥の映像を見続けているのか。
意味はあるはずなのに、解らない。ストーリーに整合性はあるが、必然性が解らない。
まさに押井守ファンの醍醐味が味わえる一本です。
僕の研究の成果は、また次回以降の更新で発表していきたいと思います。

「パトレイバー・ザ・ムービー」を読み解く

押井守作品を未見の方、並びに監督を意識して見たことが無かったという方は、この作品から見ることをオススメします!

「パトレイバー・ザ・ムービー」は、見やすさと深さの同居という意味において、押井作品の白眉と言えるでしょう。
そしてまた、押井映画の深淵の一つともいえる「パトレイバー2・ザ・ムービー」にスムースに移行出来る点も、良いところです。
「演出家としての能力は世界一」と言われる押井守の世界を、まずは体験してみて下さい。

特に、
・犬の出て来るシーン
・鳥の出て来るシーン
・魚の出て来るシーン
は、ストーリーに関係なさそうでもチェックしておくと、他の押井作品を見る上での良い資料になるでしょう。

「攻殻機動隊」を読み解く

主人公、草薙素子少佐は作品内では特に言及されないが、死体として表現されている。
全体に明暗がはっきりした画面が多く、また、肌の白い登場人物が多いためにあまり目立たないが、彼女の肌は腐肉のように白く、彼女が特に感情表現をしない時、彼女の目は瞳孔が開ききって中空を見つめている。
映画の冒頭、裸でビルから飛び降りるシーンから、ラストの少女の姿になって街を見下ろすシーンまで、一貫して画面には死体の主人公が登場し続けている。
この表現は、観客の感情移入を無意識下で阻害しており、何の準備も無しにこの映画を見る人が楽しみづらくなっている一つの要因といえる。
普通、アニメのキャラクターは、その表情によって観客に感情を知らせるからである。
しかし、その狭い視野から離れて、一つの表現としてサイボーグ・草薙素子をとらえてみるとどうか。
彼女は作中、その外見の機械的な無表情とは相反する、多彩な感情の揺れを見せる。
自分の存在の不確かさにおびえ、「人形使い」の恋の告白にためらい、パートナーのバトーに助けを求め・・・「人形使い」のいささか色気には欠ける口説き文句に戸惑いながらも受け入れてしまう女心のはかなさは、士郎正宗原作のマンガ版に比べて、あまりにもか弱く描かれている。
彼女の人形的な表情と、重たいサイボーグの体を引きずったアクションシーンは一度脇において、彼女の声、そして行動に主眼を置いて鑑賞すると、草薙素子があまりに「普通の女性」である事にあなたも気付くことができるだろう。
このコントラスト。素晴らしい能力を得る機械の体のために、身体的な感情表現が乏しくなってしまっているという対比は、十分に面白い。
この辺りのアニメファンの死角とも言える表現をやすやすと使えるあたりが、押井守が「アニメ嫌いのアニメ監督」と言われる由縁だろうか。
こうして見ると、この作品を「単純な恋愛物語」と評する押井守の発言もよくわかる。また、アニメジャンル以外の批評家に好評だったのもうなずけるところだ。

作中の犬・鳥・魚などの表現や映画の主題に言及する論は、また次回以降の更新で。
それにしても恐ろしいのは、今回述べた内容はこの作品を理解する上で非常に重要な部分であるのに、それに私が気が付いたのが、今日(1999年8月9日)、この原稿を書きながらの何十回目かのリピート鑑賞中のたった今であったことである。
研究者を標榜するものが、こんなことでよいのだろうか(笑)
こんな僕の文章ですが、どうか見捨てないでくださいね。

P

作品内容を語る前に、まずパトレイバーという作品が持つ少々不思議な特性を説明したいと思います。
パトレイバーという作品には、設定をほぼ同じくしながらもお互いに干渉しあわない三つの世界があります。パラレルワールドといって差し支えないでしょう。
一つは、ゆうきまさみ氏による週間少年サンデー誌上に連載された講談社マンガ賞を受賞した「マンガ版パトレイバー」。
一つは日本テレビ系列で放映された「TVアニメ版パトレイバー」とその後のビデオシリーズ。
そして残る一つが小説版、OVA版、TVゲーム版、劇場版などなどの複数メディアにまたがって展開された、まあ、あえて名前をつけるならば「劇場版系列パトレイバー」です。

今回、この「押井守の話」の中で扱っているのは上記のうちの三番目、劇場版系列パトレイバーです。
この三つのパトレイバー世界は、登場人物や作品世界の設定がほぼ同一であり、また、同一のクリエーターがまたがって手がけていることもあるため、混同してしまうことがよくあるのですが、明確に異なっている点がいくつもあって、それらは無視できない違いであるため、はっきりと区別しておく必要があるのです。

では、その違いをいくつか挙げてみましょう。

・香貫花クランシーと熊耳武緒の扱い。熊耳は劇場版系列にはまったく登場しないが、香貫花は基本的にすべての世界に登場する。しかし、マンガ版では役割が少々異なる。
・マンガ版、TVアニメ版では、二課の明確な悪役としてシャフト・エンタープライズという企業、そしてその所属の内海課長とバドリナード・ハルチャント少年が登場。一方、劇場版系列にはシリーズを通しての悪役は登場せず、二課は個別の相手と戦うことになる。また、劇中三度ほど、東京の街が大きな被害を受けている。マンガ版とアニメ版では、劇場版系列ほどの大きな事件は起こらない。あえてあげるならば、マンガ版の「廃棄物13号」の話がかろうじて比肩しうる大事件だが、死傷者、物的被害等の規模には大きな差がある。


どの世界も面白く、それぞれに評価されているわけですが、やはり一際異彩を放っているのが劇場版系列です。
これは、まず最初に発表されたOVA版の監督を務めた押井守の色であり、その流れを劇場版二作品はまっすぐに引いているわけで、劇場版の理解を進めようと思うとき、その背景にある作品群を知っておくことは、決してマイナスにはならないと考えます。

そのうちの一つを例に挙げますと、OVA版5巻6巻の「二課の一番長い日」、「劇場版1」、「劇場版2」の計三回、主人公たる特車二課の面々は東京(日本)を救っている、という流れがあります。
この知識を持っていないと、たとえば「劇場版2」の中での荒川という男の「二課の度重なる超法規的活動、いや、活躍と言うべきかな。お噂はかねがね」というセリフがしっくりこなかったりしてしまうわけです。
で、一度しっくり来ないシーンがあってしまうと、それが解決されないうちにどんどんと物語は展開し、考えているうちにぼーっと見逃してしまったシーンに重要なものが写っていたりしてしまって、どんどん、わからなくなってしまう、なんて事が起こるわけです。

では、それらの把握をある程度行なった上で、やっと、次回以降の更新で作品本編へ入りたいと思います。

「天使のたまご」を読み解く

この作品の恐ろしいところは、1985年に作られた作品(2月発売)ながら、「攻殻機動隊(1995年11月公開)」に至るまでのほとんどの押井作品を内包しているということです。
押井守はこの作品を評して「自分の巨大な糞塊」であると言っています。押井守の仕事は、基本的に「与えられた素材をどう生かすか」に主眼が置かれていて、その中で「天使のたまご」は、押井自身の中から出てきた物語であるからだそうです。
とはいうものの、多くの人は押井のこの発言を素直には受止めることができないでしょう。「押井の作品は、いつも原作を自分のいいようにこねくり回しているじゃないか」・・・まったく当然のご意見です。
しかしながら、押井守の発言通り、もとの素材を生かした結果が、「ビューティフル・ドリーマー(1984年2月公開)」や「攻殻機動隊」なのだと考えてみたらどうでしょう。この場合見ぬかなければならないのは、押井守的な素材の生かし方、なのです。
押井守は何も客観的な作品作りをしているとは言っていません。押井守が自身の主観で判断した素材の良いところを、作品作りに生かしているだけなのです。
押井守の主観、その価値観や世界観を捕らえるには、作品の比較研究をしなければなりません。
そして、その主観だけで作られたという「天使のたまご」は、明らかに、押井守が見つめる「世界」に最も近い作品と推測することができます。(本当はこの作品すらも天野喜孝氏のイラストボードによって大きくイメージを変えられたのだとか。当初は、深夜のコンビニで、雑誌を立ち読みしている人や、おにぎりをずっと食べている人が居るところに、お腹の大きな女性がやってきて、ところがお腹だと思っていたものは大きなたまごで・・・といった、今僕らの前にある作品のファンタジー感とは無縁の話だったとか。)

犬・鳥・魚の登場シーンの比較、少女の意味、天使の意味、水、印象的な画面の相似性・・・。
果てしなくループする押井モチーフのほとんどが、登場する作品です。
作品分析は次回以降の更新にまわしますが、未見の方は押井守と戦うために、レンタルビデオ店をはしごして見てみて下さい。

(実は、僕の手元にもこの作品が無いので、記憶だけでは深い論評をするのに心もとない、というのが本当の理由ですが。)

押井守の話

「奇人」というのは、そもそもある種の尊称です。
独自の執着心で何かに没頭し、常人の理解の及ぶ範疇を遥かに越えてしまった人々に送られる言葉です。
かの人のいかなる言動を見るにつけても、押井守は当代有数の奇人であるといえましょう。
また奇人とは、己の興味の範囲に入らないものには、とことん無頓着なものです。ほとんどの奇人は、自分が何をやっているのかを人に喧伝することに、関心がありません。
だから、押井守が作品を発表し、僕らの前にその世界を開陳するのは、それがかの奇人の執着の範疇だからなのです。
押井守の作品は多くの謎を秘め、それを鑑賞してしまった僕らは、その謎を解こうと躍起になります。
いくつかの謎を解いているうちに、今まで何でもなかったあるシーンに大きな謎がある事に気が付いてはっとさせられたりします。
謎が、一見謎だと解らないように無数に配置され、それが曼荼羅のように折り重なって作品が形成されています。
でも、この奇人は僕らをあまり見ていません。彼が見ているのは、作品の素材と、映画というものそのものです。
しかし、この曼荼羅世界は僕らを引き付けて、止みません。
この重力と戦うには、あまりに多くの知識と研究が必要で、しかも、中心にいる奇人は、僕らより曼荼羅の方に興味があると来ています。
つまり、僕らと押井守には「中心にいるか、いないか」という違いがあるだけで、求めるものは同じ。

押井守の作品を読み解くということは、曼荼羅の中心に座る押井守になろうとすることに他ならないのです。


「天使のたまご」を読み解く (8月8日)

「攻殻機動隊」を読み解く (8月8日)

「パトレイバーの話をする前に」 (1月14日)

「パトレイバー・ザ・ムービー」を読み解く (8月8日)

「パトレイバー2・ザ・ムービー」を読み解く (8月8日)

「ご先祖様万々歳!」を読み解く (9月15日)

「うる星やつら2ビューティフル・ドリーマー」を読み解く (8月26日)

「トーキング・ヘッド」を読み解く


以下、いろいろ続く

ページ移動

  • 前のページ
  • 次のページ