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私は世界を変える

「少女革命ウテナ」という作品を語る上で、その強烈なビジュアルイメージを無視するわけにはいきません。
その中でも最初に僕たちの目に入るTV版のオープニングについて、それでは簡単に絵解きをしていきたいと思います。

まず最初、一つの薔薇の花の中で、ウテナとアンシーのシルエットが一緒に眠っています。これは、二人がもともと同じ存在であるということを表しているのかもしれません。ウテナもアンシーも、作中ではそれぞれの棺桶の中に閉じこもっていました。そして、二人の顔が近づき、次の瞬間薔薇は二つに分かれます。二人は、同じ薔薇の棺桶に眠りながら、「王子様」と「お姫様」という、異なる道を選ぶことになるのです。この時点で、作品の終盤で明らかになる事実、「二人は昔一度だけ出会っていた」ということが実はすでに明かされていたのでした。薔薇の花嫁として苦しむアンシーを見た事が、ウテナに王子様になろうとする意志を与えたわけですから。
もう一度二人は吐息がふれあうほど近づき、今度は背中合わせに寄り添います。これは、学園で出会った二人が、エンゲージをしている状態を表しているようにも見えます。寄り添っているけれども、実は心は向かい合っていないという関係です。そして、絡められていた二人の手が引き離され、タイトルの「少女革命ウテナ」という文字がその暗闇から浮かび上がります。もちろん、このシーンのウテナの指には、薔薇の刻印がちゃんとはめられています。
そして、ウテナは男子生徒に混じり、アンシーは女生徒に混じって、学校に登校するシーン。二人はそれぞれアップで振り向いて明確な「顔見せ」をします。そして、閉ざされた学園の奥にある、鳥かごのようなデザインの薔薇の温室で二人は出会い、落葉の敷き詰められた校庭で、寝そべって、微笑みあいます。
この一連の流れは、ウテナとアンシーを取り巻く状況と、お互いの普段の関係を解説しています。こうして二人でまどろんでいる限りは、彼女らはただの友達なのです。しかし、アンシーの差し出した白い薔薇をウテナが受け取った時、ウテナのガクランは決闘服に、アンシーは薔薇の花嫁に姿を変え、そびえたつ決闘広場と天空に輝くディオスの城が姿を現すのです。薔薇は、「気高い思い」の証であり、決闘者となるための切符なのです。

ウテナは鋭い踏み込みで、ディオスの剣を振るいます。その先にいるのは、ウテナが戦っていくライバルたちです。西園寺、樹璃、ミッキー、七実、冬芽と、物語を彩る個性的なキャラクター達が見栄を切ります。彼らは、敵でありながら、ウテナとアンシーに成長を促してくれた友でもあります。そしてその戦いの果てに、雄々しく剣を構えるウテナと厳しい表情をしたアンシーの足元、決闘広場が崩壊し、その中から二頭の馬が現れて、ディオスは目を覚まします。作中、決闘広場は2度にわたって崩壊しますが、それも、オープニングの時点ですでに語られているわけです。また、それこそが、ディオス、つまり気高い意志を持った本当の王子様が目覚める鍵になっていることも、ここに暗示されています。
ここから、思わぬ展開が発生します。
ウテナは黒い甲冑を着て白馬に、そしてアンシーは赤い甲冑に身を包んで黒馬に跨り、長槍を手にして、お互いに激しくにらみ合いながら対峙するのです。まるで、お互いを憎みあっているかのごとく。アンシーは、作中の大人しさなどなかったかのように、強く手綱を引き絞って馬を操っています。おりしも、バックの主題歌は、最も盛り上がっている部分です。そのまま二人は牽制し合うようにしながら宙を駆け、そこに永遠があるという、天空の城に飛び込んでいきます。
このウテナとアンシーの戦い、それは、アンシーから観たこの作品の物語です。物語の最も終盤で明かされるように、アンシーはウテナを蔑み、本当は憎んですらいたのですから。ウテナは、自分から王子様を奪いに来たもう一人のお姫様でもあり、兄の暁生が王子様でいる限りは偽者の王子様でしかないのであり、しかしながら、ウテナはアンシーを救う本当の王子様でもありました。この複雑にもつれ合った感情と事実。果ての無い争い。人間誰もが多かれ少なかれ持っている葛藤。アンシーの存在こそが、この作品のもつ人類普遍の命題を僕らに提示しているということが分かります。
そして最後に、TV版のラストと同じように、ウテナとアンシーはもう一度引き裂かれます。このシーンで画面から落下してしまうのは、なんとアンシーではなくウテナです。ウテナは、また薔薇の棺桶の中で、眠りについてしまいます。アンシーは、もうそこにはいません。これはまさに、TV版最終回の、ウテナの側の物語。

この作品のオープニングは、最近のアニメにしては珍しく、全39話の間変わりませんでしたから、なんと第一話が放送された時点で、この物語の大まかな流れと、最後にたどり着く結末の一端が語られていたというわけです。さらに、二人が馬で走るシーンなどは、劇場版の「ウテナ・カー」のシーンとの類似性すら感じてしまいます。
もちろん、劇場版まで計算してこのオープニングが作られていたはずは、さすがにありませんが、この「少女革命ウテナ」という作品が明確な主題を最初から持っていて、それを方向性の定まった方法で僕らに見せてくれているからこそ、2年以上も経ってから作られた劇場版ともリンク出来てしまうのでしょう。
そして、そこで扱われている主題は、人類にとって永遠普遍の、大切なものです。

今回は、この作品が、作品全体をきちんと見渡せる才能の在る集団が作り上げた、極上のアニメであることが、オープニングを観るだけでもわかるというお話でした。

薔薇を咲かせるのは難しいのだけれど

「天上ウテナ」とは何者なのか、解き明かしてしまいましょう。
僕は、この問いに対して、番組放映の頃から、はっきりした答えを持っていました。ビデオで何度も見返したり、マンガ版を読んでみたり、関連書籍を読んだり、劇場版を見たりした現在においても、その答えは変わっていません。
ウテナは、「あなた」なのです。これは、別に丁寧で説得力のある論理を構築した上でたどり着いた結論ではありません。まあ、言うなれば直観です。
「少女革命ウテナ」という作品は、ストーリーや映像表現のみならず、その独特の音楽に関してもものすごい個性をもっているわけですが、その七枚ほど発売されている音楽集の三つ目である「体内時計都市オルロイ」の表紙、そこに、僕の直観の由来があります。
図案は、左右に大きく配置された鳳暁生と姫宮アンシー、そしてその両者に挟まれて頼りなげな表情を浮かべ、自分の体を抱いている天上ウテナです。LDの表紙やコレクションカード商品等、「ウテナ」関連の書き下ろしイラストには、こういった、他の登場人物達によって嬲られているウテナ、という図案が多く見られます。この「オルロイ」の表紙もその一つなわけですが、このCDケースは、その上から「UTENA」とロゴの書かれた透明なプラスティックケースに収められる作りになっていまして、それで、一つのパッケージとして完成します。
プラスティックケースにデザインされている、ひときわ大きな「UTENA」の「U」。CDケースが中に収まった時、ちょうどその「U」の中心に、先述の儚げなウテナのイラストが来るようにデザインされているのです。「U」は「you」。「ウテナはyouです」と、パッケージのデザインは訴えているように見えるのです。これだけでは、そんなのこじつけじゃないかトンデモじゃないかと言われそうですが、これで僕の頭の中のウテナのイメージが、はっきりと形になってしまったのだから仕方がありません。

送り手が「あなた」と言った時、その対象は不特定多数の受け手すべてのことになります。「ウテナ」を鑑賞する可能性のある、現代に生きるすべての人たちのことです。
天上ウテナは男装の似合う美少女で、スポーツ万能で、さっぱりとした人に好かれる性格をしていて、学園の人気者です。作品の主人公らしい、特別な人間であるという設定がされています。翻って「あなた」、つまり僕ら自分自身のことを考えてみますと、社会的には、決して特別な人間では無いかもしれませんが、間違いなく自分にとっては、自分は特別な人間です。ところで、設定上では特別な人間であるウテナですが、作中では至極普通の人間として描かれます。ひょっとしたら、登場人物の中で一番まともかもしれません。そして僕らもまた、日常の中では、自分が一番まともであるという価値観の中で生きています。
監督の幾原氏は「ウテナは自分がなりたい人なんだ」と発言していますが、それは、ウテナが気高さをもって生き抜いたことへの憧れの気持ちから出てきた言葉のように思えます。そして、まだ「普通の人間」である僕らは、ウテナを知ることによって、気高い思いを抱いて生きる人間に変わることができるわけです。そういう意味では、幾原氏も「あなた」のうちの一人なのでしょう。

ウテナは元々気高い思いをもっていました。物語の中で、彼女は多くの障害と戦いますが、最後までそれを失うことがなかったから、世界を革命することができました。僕らも、日ごろ意識しなくても、自分の中のどこかに気高い思いを持っているはずです。もし失っていたとしても、気高い思いは奇跡の力なのですから、何度でも、何も無いところからでも僕らの中に蘇ります。そうして気高い思いを持ち続けられる僕ら(=送り手にとっての「あなた」)には、世界を革命することが出来るはずだと、この作品は勇気づけてくれているわけです。これこそ、最終話放映後に画面に表示された、「この薔薇があなたに届きますように-スタッフ一同」というメッセージの中の「薔薇」にあたるもののように、僕には思えます。
ウテナの迷いは僕らの迷い、ウテナの喜びは僕らの喜びなんです。
身に憶えのない状況に翻弄され、正しいと思うことをやって傷つき、友に裏切られ、時に裏切り、それでも純真な善良さを胸に抱いて、伸びやかに生きようとする僕らの姿を、「少女革命ウテナ」は描いているのです。
だから僕は、この作品がいつまで経っても好きなんだと思います。

世界の果ての向こう

「少女革命ウテナ」とは、結局のところ革命がおこる話です。結果から言ってしまえば、「世界が革命された」物語でした。
では、その革命された「世界」とは何だったのか、ということを、TV版と劇場版それぞれについて考えてみたいと思います。


TV版で革命されたのは、姫宮アンシーの中にある世界でした。
決闘ゲームの賞品、薔薇の花嫁として決闘者の間をさ迷いながら、実はゲームの構造そのものを、ゲームの提供者である「世界の果て」と共に支配していた彼女。「私は、エンゲージしている方の思うがままですから」と微笑んで言い放ちつつ、実際には決闘の勝者には心を許さず、実の兄であり自分の王子様である「世界の果て」の為だけに働いていた彼女。作中何度も描かれる彼女の衝撃的な裏切り行為や、「好きな人のためだったら、自分の気持ちをだますなんて簡単なことです」などの過激なセリフに象徴された、今までのアニメキャラクターにはほとんどいなかった本物の魔女。
最終回の一つ前の話のラストシーン。アンシーの取った行動に驚かない方は、まずいないと思います。最後の決闘が終了し、「世界の果て」がその本当の目的を果たそうとしている時にも、アンシーはただ「世界の果て」のために生け贄になり続けて、「世界の果て」以外の者に心を開こうとはしませんでした。
過去に、自分に永遠を見せてくれた、王子様であり、実の兄である「世界の果て」。兄が「世界の果て」になってしまった原因は自分であり、その苦しみも理解しているからこそ、兄のために薔薇の花嫁であり続けるアンシー。しかし、その閉じてしまったアンシーの世界の扉を開けてくれたのが、ウテナでした。
彼女は、最後の決闘で「世界の果て」に敗れ、立ち上がることもままならない状態で這いずりながらも、「世界の果て」がウテナから奪った剣を使っても開けることの出来なかった、世界を革命する力が向こう側にあるという扉にたどり着き、手をかけます。彼女の手にすでに剣はなく、「世界の果て」は扉を開けることができる剣を持つものが現れるのを再び待つことにしてくつろいでしまっています。そして、ウテナが指先に渾身の力を込めた時、扉は少しづつ動きはじめたのです。
いつのまにかその扉は、薔薇の紋章の付いた大きな棺に変わっていました。その棺の中には、薔薇に包まれて眠るアンシーがいました。ウテナは、優しく声をかけます。「アンシー、やっと君に会えた」と。
自ら望んで世界を閉じていたアンシー。その元に訪れて、ついにアンシーの本心に出会えたウテナ。ウテナは叫びます。「姫宮、手を!」しかし、アンシーは、自分のためにではなく、自分の大切な兄、王子様の為にそこにいるのですから、出るわけにはいきません。「ウテナ様、違うんです」。そういっても、ウテナはやめません。ひょっとしたら、ウテナは「アンシーは誰かに捕らえられている」というような誤解をしたまま叫んでいたのかもしれません。すでに、息も絶え絶えになりながら、ひたむきに叫びます。「姫宮、手をー!」そのウテナの中のひたむきな心に打たれたのか、ついにアンシーは手を伸ばします。二人の指先が求め合い、頼りなく、しかし確かに絡まり合います。
しかし、そこまででした。
閉じた世界の扉を開いてしまったウテナに、世界を革命する時におこる歪みの象徴である、100万本の剣が襲いかかります。すでに決闘広場という気高いおもちゃも破壊され、ウテナを残してアンシーの棺も落下していきます。ウテナは、もう体を起こす力も残っておらず、倒れたまま、ついにアンシーを救えなかったことをか細い声で謝り続けます。その背に、100万本の剣が猛々しく襲いかかり、そしてウテナは、無残にこの作品世界から消滅しました。

ウテナのいなくなった鳳学園。しかし、生徒達はウテナのことを忘れ去っています。ウテナと何度も戦いあった生徒会メンバーすらも、身の回りのことに追われてウテナを思い出しません。どんなに素敵な王子様でも、人はそれをじきに忘れてしまうのです。
しかし、アンシーは制服を脱ぎ捨て、学園を出ました。いつまでも同じ事を繰り返す学園の生活を振り払い、学園の中の世界からいなくなってしまったウテナを探すために、外へ旅立ったのです。アンシーの世界に、外の存在が生まれたのです。ウテナは、自分の全てと引き換えに、アンシーの世界を革命することが出来たのです。「必ず探し出してみせるから、待っててね、ウテナ!」そう心に誓って、アンシーは希望に満ちた一歩を踏み出したのでした。


そして、劇場版のウテナは、再び巡り合ったアンシーと共に、外の世界を革命してしまいました。
TV版では、アンシーはずっと、ウテナの事を「ウテナ様」と呼んでいましたが、劇場版では、TV版のラストのように「ウテナ」と呼び捨てにしています。これは、外の世界へ飛び出してしまったウテナとアンシーが、ついに映画の世界において再び出会うことが出来た、と考えたくなります。劇場版の設定ではウテナが転校生ですが、薔薇の敷き詰められた決闘広場にたたずむウテナに後から来たアンシーが声をかけています。映画の構造や作品間の設定の違いなどを超越して、ウテナがアンシーを見つけたこの場面は一つの奇跡なのだと僕は考えます。もう一度出会えてよかったね、アンシー、ウテナ。
そして、TV版のラストで誓った通りに、二人は一緒に輝きだします。お互いの過去に秘められた王子様にまつわる恐ろしくも悲しい出来事が明かされ、お互いはお互いをもう一度見詰め合います。そして、世界から出るための、世界の果てを超えるための疾走がはじまるのです。
ウテナによって世界を革命する力を与えられたアンシーと、アンシーによって自分が手に入れた力を使いこなすことが出来るウテナ。二人は幾多の難関を乗り越え、ついに、最後の試練「お城カー」へ挑みかかります。
「お城カー」とは、その名の通り上にキラキラと輝く「お城」を乗せた、ものすごく巨大な車です。その下面には無数のタイヤが付いていて、下を通り抜けようとする者を踏み潰そうとします。上に乗っている「お城」というのは、言うなれば僕らの生活している「社会」です。その社会の仕組みに巻き込まれず、タイヤの一つにならず、自力で走って通り抜けようとすれば、それを排除しようとする力が働くのは当たり前です。それを、ウテナとアンシーは突破していきます。自力で走ること、それが世界を革命し得る力であり、その原動力は気高さなのです。気高さを諦めてしまえば、そのタイヤの一つになることも出来るだろうし、鳳学園の生活のように、キラキラと輝く「お城」に住み続けることも出来るでしょう。しかし、世界を革命する強い意志と気高さと、自分で走る力を持った者があるとき、世界は革命されるのです。現に、僕らの住む世界も、歴史上何度も革命されてきたではありませんか。
「お城カー」の下を潜り抜けたと思った瞬間、左右から巨大なキャタピラが、正面からは昔に王子様であったものが、不意に現れてウテナとアンシーを押え込みます。世界を革命するための最後の戦いです。「王子様だったもの」から発せられる恐ろしい言葉。左右からの、身を削るキャタピラの回転。しかし、幾多の戦いを乗り越えてすでにボロボロになっている彼女たちの輝きは、全く衰えてはいませんでした。TV版の時に、何度もウテナが叫んでいたこの作品を象徴する言葉を、ついにアンシーが叫びます。それは、気高き全ての者が求める力を、欲し、発現する祈りの言葉です。
戦いを突破し、世界は革命されました。「お城カー」は砕け散り、その中にあった安住の生活全てが、瓦礫になっていきます。ウテナとアンシーだけが進むその世界は、振り返ってみても美しい城の影は無く、先を見ても目指すべき城が消え、ただ瓦礫の続く世界になっていました。
描かれている「希望」は、ただ青く晴れ渡る空だけ。
「少女革命ウテナ」の描く、世界の果ての向こう側とは、あまりにさびしく、恐ろしい世界でした。しかし、ただウテナとアンシーは進みます。

「少女革命ウテナ」とは、こういったものが描かれている作品でした。これを見たら、ヘミングウェーはどう思うでしょう?マルクスは?漱石の手には余るでしょうか?
一通りの「ウテナ」論はこれまでに書き連ねましたが、あまりに不親切で、また僕は語らねばならぬもっと多くの言葉を置き去りにしてしまったように思います。まだまだこのコーナーは続いていきます。ご意見、ご感想等ありましたら、どうぞ会議室の方へ遠慮無くお書き込み下さい。

回り道

ウテナ四方山話~!

「少女革命ウテナ」に登場するキャラクターは、そのほとんどに植物に関連する名前がつけられています。
主人公の名前「ウテナ」は、「台」と変換すると分かり易いですが、花が咲くときにその回りを小さく覆って花びらをまもる「がく」のことです。ヒロインの「アンシー」は、どこかの国の言葉で「花が咲く」という意味の動詞なんだそうです。つまり、アンシーという花を咲かせるためにウテナはいるんだということは、最初から名前の中に秘められていたんですね。
生徒会メンバーもそれぞれ「冬芽」、「莢一」、「樹璃」、「幹」ですし、他のキャラクターたちも「七実」「根室」「茎子」「香苗」「枝織」「梢」など、何かしら植物に関係する名前ばかり。主要キャラクターで植物の名前が付いていないのは、「鳳暁生」と「チュチュ」だけです。これは、ウテナだけではなくこの二人を除いた全員が、結局、アンシーという花を咲かせるために行動していたということなのかもしれません。


物語の舞台になっている鳳学園は、実に多くの謎を持っています。
そもそも、漢字の名前を持ってはいるものの、日本にある学校なのかどうかも定かではありません。暴れカンガルーが偶にでたりするところを見ると、オーストラリアにあるのでは、という説もあります。でも、象がいたり暴れ馬や暴れ牛がでたりもするので、どうにも、厳密な限定はできません(笑)。そういえば、日本にしかいないはずの青大将も出てきましたっけ・・・。
また、ヨーロッパ風の統一された校舎や生徒寮のデザインは非常に美しく、小学校から大学まで一貫した全寮制の鳳学園に通う生徒達が羨ましく思えます。ただ、毎回の話の冒頭で画面に映る学園の敷地の丘には、少々の謎があります。まるで巨大な鍵穴のような形をした丘。それは、我々日本人には馴染みの深い、前方後円墳の形です。古墳とは、古代の豪族の作ったお墓です。墓の上に建っているように見える学園。この事から、鳳学園は僕らの住む生の世界と墓の下にある死後の世界の境界線上にあるのだ、という説があります。
考えてみれば、確かに「少女革命ウテナ」には何人かの死者も登場しました。具体的な名前はまだ見ていない人のために挙げませんか、TV版、劇場版ともに、数人の死者が、まるで生きているものと同じように学園内を動き回っていました。
「劇場版少女革命ウテナ・アドゥレセンス黙示録」では、学園全体の外観は明かされませんでしたが、冒頭から全編に響き渡る鐘の音や、TV版では「鳥かご」があった場所にあった王子様の墓標、そしてお姫様の為に死んだ多くの王子様の挿話から察するに、やっぱり学園全体が「王子様の墓標」なのでしょう。


生徒会メンバーも謎だらけです。
その中の、中等部1年にして大学のカリキュラムも受け、ピアノとフェンシングの腕は全国レベル、さらには生徒会メンバーでありながらウテナと共に「薔薇の花嫁争奪戦」に反対している薫幹(かおる・みき)、通称ミッキーは、作中、彼だけの不思議な行動をとります。
突然彼の手元がアップになり、いきなりストップウオッチを止めるのです。どうやら、その前のシーンの誰かのセリフやシーンそのものの長さを計っているらしいのですが、その意図は説明されません。
第一話から行われるこの謎の行動は、僕ら視聴者に「少女革命ウテナ」のヘンテコリンな世界を印象付けてくれましたが、作中人物達にとっても彼のこの行動はやっぱり謎だったらしく、物語の終盤になって桐生冬芽の妹、桐生七実(きりゅう・ななみ)がミッキーに対して「あなた、いつも何をしているの?」と至極当然な問いを発します。
しかし、結局ミッキーはそっぽを向いて知らん振りを決め込むだけ。一説には、彼の生真面目さの象徴的行為であるとも言われていますが、真相はミッキーの胸のうちです。ちなみに、彼が最後にストップウオッチを押したのはウテナと「世界の果て」による最後の決闘がはじまった時で、ストップウオッチの「計りはじめ」が描かれたのはこの時だけです。そして、このストップウオッチが止められるシーンはついに描かれませんでした。これは、あの最後の戦いが、「劇場版」が終了した今でも続いているということを表しているのかもしれません。

気高い思い出

夏休みも終わって、新学期のはじまったばかりのここ数日、TVのワイドショー番組等で特別大きくも無く、さりとて小さくでもなく取り上げられたある小学校教諭について語るために、今回この特別考察を設けました。
その時には、普通のニュース等でも取り上げられたために、お昼のワイドショーなんて見ないという方でも少しは記憶に留まっているのではないかと思うのですが、僕の住む愛知県春日井市のある小学校につとめる男性教諭が、女子高校生との買春行為を行ったという罪で、逮捕されたという事件がありました。
彼は何年か前までは僕の通っていた小学校に勤めており、そして僕が部長を勤めたオセロ将棋部の顧問でした。
僕は小学校4年、5年、6年の三年間、毎週火曜日に彼と将棋をさしていたのです。

僕が入部したころ、オセロ将棋部は人数不足で廃部寸前でした。学校のきまりで、部活動を行うためには10人の部員が必要だったのに、どんなに人に呼びかけても9人までしか人が集まらなくて、非常に焦ったのを憶えています。登録締め切り時間ぎりぎりになって、やっと一人入ってくれる子がやってきて、翌週からなんとか部活動を開始することが出来たのですが、いざ集まってみると9人しかいません。最後に来た子は、実は他の部と間違って入ってしまったのだそうで、部活動開始までに他の部に移籍してしまっていたのです。
ひょっとしたら、これで廃部になってしまうのか、と僕らが不安になった時、当時まだ20代後半だった彼は、「先生も入れて10人だ」と元気に言って、将棋盤を取り出しました。
どう彼がはからってくれたのか、それから学校側からは何も言って来ることはなく、つつがなく部活動が行われました。
僕らの部は人数が少なかったためか学年、先生の壁を越えて非常に仲が良く、アットホームな部活動をしました。先生と僕は、よく床に寝転がって頬杖をつきながら、将棋をさしました。将棋の駒をつかった「山崩し」という遊びがありまして、無造作に盤上に積み上げた駒を人差し指一本で音をたてないように盤の外まで持ってこられたらそれを獲得出来るという遊びなのですが、それをやってから獲得した駒を自陣に好きなように並べて、それから将棋をするといった変則ルールでの遊びもしました。もちろん、挟み将棋や回り将棋もしました。
翌年からは入部者数がどっと増えたので、独特のアットホームな雰囲気は薄れてしまい、床で将棋を打つことも変則ルールで遊ぶことも出来なくなってしまったので、やはり、最初の年の楽しかった思い出が、一番印象に残っています。

僕は女の子ではありませんが、今思えば、彼は王子様でした。彼は、僕ら将棋部員の前では、とても明るく、楽しく、カッコよく、優しい先生で、先生に毎週会うのがいつも僕は楽しみでした。
ワイドショーでは、彼がロリコンで、変質者であったということにしたいらしく、意図的にそういった放送内容を作っているようでしたが、現場の生徒さんや、学校長や、父兄さんのコメントの中には、それを裏付けるようなものはありませんでした。学校長は「真面目で仕事をコツコツやる先生だった」といい、生徒の女の子は「恐いけど、折り紙とかを教えてくれて、優しい先生だった」と言っていました。彼は色黒で、とても背が高かったので、小さな生徒さんには恐かったのでしょう。僕も、最初はその外見が恐かったのを憶えています。
彼が淫行をはたらき、逮捕された罪状はあくまで女子高校生の売春行為の相手だったということだそうですが、今日び、女子高校生を相手にしたからといって、即、ロリコンということは無いでしょう。僕が言いたいのは、彼は決して生徒をそういう目で見るような、変質者と呼ばれるような先生ではなかったはずだ、ということです。彼は、生徒や他の教諭や父兄がいる限りは、カッコ良くて朗らかな先生でいたはずなのです。

もちろん、彼の罪状は明らかです。1年以上の期間にわたって、30人以上もの女子高校生と買春行為をしていたというのですから、たまたま運命の相手がまだ女子高校生だったということでも、たぶん、無いでしょう。ただ、ワイドショーなどで公然と放送された「女子高校生との行為を撮影したビデオテープを業者に売った」というのは、彼は否認しているそうなので、僕は彼の発言を信じて、そういう事実は無かったものと考えます。
それでも、彼は未成年者との買春行為という違法行為を犯したのであり、犯罪者です。とくに、先生という聖職にある者がそんな事をしてしまったのですから、罪は重いと考えてもよいと思います。

「劇場版少女革命ウテナ・アドゥレセンス黙示録」に、こんなエピソードが挿入される場面があります。
たくさんの人から求められ、それに答え、人気者だった王子様には秘密がありました。彼は、お姫様がいたから、王子様だったのです。本当の彼の姿は、蝿の王だったのです。お姫様がいたから、彼は王子様でいられたのです。

僕は、決して彼を糾弾するためにこの文を書いているわけではありませんし、説教めいたことを言いたいわけでもありません。
昨日、このコーナーで書いたばかりの「永遠のもの」、気高い心を持ち続けるということがどれほど困難なことなのか、直接知る人間の犯罪行為によって身に染みて感じてしまったのです。
これは僕の考えですが、王子様が王子様で居続けるためには、自分の外に広がる「世界の果て」との戦いのほかに、自分の内に存在する「蝿の王」との戦いにも、たぶん勝たねばならないのです。蝿の王の誘惑は甘美で、しかも、大抵の場合はそれに答えてしまっても、他人にとっての王子様で居続けることが出来る・・・ような気がします。その時、自分の中の気高い思いが消えてしまうことだけが、大問題なのです。
だから、気高い思いを持ち続けていれば、蝿の王と共存することは出来るのかもしれません。なぜなら、同様に気高い思いを消し去ってしまう「世界の果て」とだって、気高い思いは共存していることがあるからです。

彼が、「世界の果て」になってしまったのかどうかは、わかりません。
彼は昔、僕に世界に対しての楽しさと憧れを与えてくれる、僕の王子様でした。彼の中に、気高い思いがまだ輝いているのか、もう消えてしまったのか、それとも最初から無かったのか、事実はわかりませんが、僕は彼の中にその昔、確かに先生として生徒を慈しみ、その責任を果たすための気高い思いがあったのだと信じています。そして、今回の逮捕の経緯聞いた限りでは、それをもう失ってしまっているのだとは、決定的には思えません。

彼が、適正に罪を償い、社会に戻って、再び誰かの王子様として輝けることを、切に願います。

彼と彼女らの欲するもの

あなたが一番欲しいものはなんですか?それがある場所がわかっていて、そこへ行く方法が示されていたら、あなたもそこへ行こうとするのでしょうか?

剣道部主将「西園寺莢一(さいおんじきょういち)」が欲しかったのは、少年時代にその存在を信じた、永遠の友情でした。
フェンシング部部長「有栖川樹璃(ありすがわじゅり)」が欲しかったのは、自分の中にある、奇跡を信じる魂を否定するための強い心と、それを可能にしてくれる「奇跡」の到来でした。
天才少年「薫幹(かおるみき)」は、幼いころに失った光さす庭を、そこに確かに存在していた輝くものを取り戻したいと願っていました。
そして、生徒会長「桐生冬芽(きりゅうとうが)」は、ただまっすぐに世界を革命する力を欲していました。

それらは全て、決闘広場の上空に浮かぶ、永遠があるという城に行けば手に入るといいます。そこに行くための方法はただ一つ。薔薇の花嫁「姫宮アンシー」とエンゲージすることです。だから、彼と彼女らはアンシーをめぐって決闘ゲームに明け暮れました。
しかし、彼らの挑戦を退けて最後に薔薇の花嫁とエンゲージしていたのは、自分が王子様になりたいと願う少女「天上ウテナ(てんじょううてな)」でした。ウテナは幼いころ、両親と死に別れて絶望の縁に立っている時に、ディオスという名の少年に永遠のものを見せられて、この世界に帰って来ることができました。その時にディオスに指輪を渡されながら言われた言葉「君がその気高さを失わないならば、いつかこの薔薇の刻印が君を僕の元へと導くだろう」この思い出を胸に、ウテナは王子様になる決意をして生きてきました。

ウテナが少女のころに見せられた「永遠のもの」。それは何だったのでしょうか。永遠であり、奇跡であり、輝くものであり、世界を革命する力であるというもの。
親友を信じることが出来ず、あってはならぬ恋に苦しみ、失われた幸福の時間の中に帰ろうとする彼と彼女たちが、最後に求めたそれがあるという天空に浮かぶ城。
ウテナ以外の、その城にたどり着けなかった彼と彼女らは、頭上に浮かぶその城が本当は幻だったということを知りません。さらには、彼と彼女らが立っているその場所が、すでにその永遠があるという城であったということに、気がつきません。

ウテナが昔見せられた、そして城だと思ってたどり着いてしまった「世界の果て」でウテナが僕らに見せてくれた「永遠のもの」。それをどう読み取るかというのは僕ら視聴者一人一人に与えられた権利なのですが、本論を分かり易く進めるために、僕なりに出した答えをここにはっきり出します。それは気高き思いです。
気高き思いは人から人に受け継がれ、また奇跡のように人の心の中に突如発生します。それを発揮することで、人は誰でも王子様になれます。しかし、気高き思いを持ち続けた人は、己の身を擦り減らし、お姫様を助けるために簡単に命を落とします。そして人々は王子様のことをじきに忘れてしまいます。
そのことに気がついて、気高き思いを持つことをやめた時、王子様は「世界の果て」、つまり、あきらめてしまった存在になってしまいます。「世界の果て」が幾重にも連なって、世界の殻が作られます。間違いなく、この世界は、はじめは王子様の気高き思いによって生まれたのです。しかし、「世界の果て」になってしまった王子達は、世界の中に生まれた気高き思いを飲み込んで、それらを自分達と同じ「世界の果て」に変えてしまうのです。自分達も昔王子様だったから、新しく生まれてくる王子様達の輝きがより妬ましく思えて、取り込んでしまうのです。
「世界の果て」に取り込まれず、気高き思いを持ち続けることが出来た王子様には、世界を革命することができます。たとえ自分は死んでしまったとしても。世界を革命するということは、世界を破壊するということです。そして破壊された世界の外にあるのは、恐ろしい自由です。そこにたどり着いた王子様とお姫様は、やはりいつかまた、その自由の恐ろしさに敗れ、「世界の果て」になっていくのかもしれません。しかし、その中からはまた気高き思いが生まれ、いつか再び世界の殻を破壊するのです。

僕らのまわりに普遍的に存在している、無限に円環する気高き思いと「世界の果て」との戦い。そのほんの一部の、ある世界が革命されるエピソード。それが「少女革命ウテナ」の描いていた物語なのです。
あなたは本当は、世界を革命する力を望んではいませんか?もし、すでにあなたが、気高き思いを見失ってしまっているのだとしても、あなたの魂が本当に諦めていないならば聞こえるはずです。世界の果てを駆け巡る、あの音が。あなたが一度諦めることと引き換えに手に入れた社会的な力。その躍動する音が。気高き思いは奇跡の力、いつ、どこにいても何度でも蘇ります。今のあなたには、あのころには備わっていなかった力があるはずです。さあ行きましょう、あなたの望む世界へ!


次回以降の更新では、「世界とは何か」「他人は存在するか」「ウテナ回り道」「チュチュの不思議な生態」などをやっていこうと思っています。ああ!今日は「ウテナ」で一番言いたかったことが書けたので、気持ちが良いです。

世界を革命する話

TVアニメ「少女革命ウテナ」の最終回は、12月24日でした。

さかのぼって時は10月。
友人にウテナを薦められ、たまたま放映時間に家にいた僕は、大した期待も無くTVスイッチを入れました。

「ゲンジ通信あげだま」の時も「姫ちゃんのリボン」の時も「赤ずきんチャチャ」の時もそうでした。僕が心奪われる作品というのは、いつも放送終了間際なのです。

その日のウテナは、全39話中、第30話あたりでした。登場したのは、婚約相手のある年上の男性に、いけないと思いながらも心ひかれていく、主人公のりりしい少女。
その気持ちを弄ぶように、その男性が少女に誘惑をかけると、その度に燭台に乗った3本のローソクが唐突に画面に現れ、その火が一つづつ消えていきます。
それは少女の心理描写。いけない恋に心が揺れるさま。作中、少女は何度も「いけない、ボクが好きなのは、記憶の中の王子様なんだ」と自分につぶやきますが、ローソクの炎は揺らぎ続けます。
でも、頬をそめたり、言い寄られて唇を奪われたり、その男性の婚約相手が現れたり、その度ごとの少女の仕種は彼女の揺れる心を十分に表現していました。ここに疑問が。丁寧なその表現は十分過ぎるほど揺れる心を伝えて来るのに、これ以上、何故ローソクの表現が必要なのでしょう?

少女がその男性の止っている車の中で押し倒され、ゆっくりと唇を奪われるシーン。ローソクの火が、一つ消えます。その車の向こうの夕日に包まれた校舎の陰に、燭台を持った眼鏡の少女が立っていて、じっと二人を見ています。眼鏡の少女はその男性の妹で、主人公の少女とベッドを並べて同じ寮の部屋に眠る親友。そしてローソクの表現は、主人公の揺れる心を見つめている「観察者」の存在を現していたのです。
その少女は、自分が観察者であることを当然のように隠しながら主人公に接していて、純真な主人公はそんな彼女を疑おうともしません。

当事者の主人公ではなく、見ているものだけが感じる緊張感。視聴者と、観察者である親友の少女の視点が一体化します。そして突然画面が変り、夕日の作る影が校舎に映る、別の二人の少女による影絵劇が始まるのです。
能天気な語り口とは裏腹に、劇の内容ははなはだ暗示的で、ストーリーの裏に流れる製作者の「このアニメから一瞬足りとも目を離すな」という挑戦の意志が伝わってきます。
誰が、誰をだましているのか。作り手は視聴者の心理をどこまで計算しているのか。どうしてこんなに、見ていて切ないのか。

最後に一つ残ったローソクの火が、一際大きく揺らめいて「あ、消える!」と思った瞬間、この日の放送分は終わりました。もちろん、僕はこのアニメのトリコになっていました。

そしてクリスマス。最終回のエンディングを見終わった僕は、しばらくそのまま余韻に浸っていました。ラスト10回分しか見られなかったので、どこまで理解出来ていたのかは解らなかったんですが、それでも、ラストの希望に満ちたシーンは、僕に深い感動を与えてくれました。
TVはいくつかおもちゃのCMを流し、そしていつもの「少女革命ウテナ/おわり」と出る5秒ほどの静止画が---そこに表示されたのは、「この薔薇が、あなたに届きますように。スタッフ一同」という、飾られた文字でした。
「薔薇」とは、この作品の含んでいたテーマか、それとも作中語られた「気高き思い」か?このメッセージは、僕みたいにぼんやりしていた人か、次の番組(「トランスフォーマー・ビーストウォーズ」)を続けて見ようと思っていた人じゃなければ見ることは出来なかったはず。
やはりこの作品は、作り手が意図的に何かを仕組んだ作品だったのです。ちょうどクリスマス・イヴに、僕らに「薔薇」をプレゼントしてくれたのです。

次回以降の更新では、僕なりに考えたその「薔薇」について論じていきたいと思っています。


考察1・少女と薔薇 (8月20日)

考察2・永遠、奇跡、輝くもの、世界を革命する力 (9月1日)

特別考察・ある小学校教諭について (9月2日)

考察3・ウテナまわり道 (9月4日)

考察4・革命された世界 (9月5日)

考察5・オープニング解析 (9月16日)

考察6・天上ウテナ (1月12日)

薔薇物語

「少女革命ウテナ」という作品を論じるに当たって最大の焦点となるのは、その難解な表現の解釈です。
この作品を見ていて、美少年や美少女たちの躍動するアクションアニメとして楽しみながらも、一見物語と関係なさそうに画面に現れるいくつもの意味不明の記号に首をかしげ、次第に製作者の意図を読み取ることを放棄していったという方は、結構いらっしゃるのではないでしょうか。
主要登場人物が現れる度に画面の四隅で回る「薔薇の紋章」や、学校の噂や世間話という形をとりながら物語の主題を鋭く隠喩する「影絵少女」、学校の裏庭にそびえたつ白亜の塔とその最上部に作られた決闘広場、決闘広場のさらに上空に浮かぶ蜃気楼の城、意味のある場所にも無意味な場所にもシグナル音とともに現れる「ゆびさし記号」、そして物語の結末に近づいた頃に現れた世界の果ての乗り物「赤いオープンカー」などなど。
「少女革命ウテナ」の魅力の一つはこれらの奇抜な演出にあるわけですが、他のアニメでは見かけることのなかったこれらの演出を、ただ「なんか面白い」と思うだけでは、あまりにも勿体無いというものです。それぞれの演出が、それぞれの使われているシーンで、いったいどんな意味を持っているのか、なぜそんな表現が使われているのか。それがわかるようになってくると、うわべの面白さに包み隠されたこの作品の深いところにある別の面白味やメッセージ性が楽しめるようになります。
ただ、これらの奇妙な表現群を理解するためには、最低限認識していなければならない事があります。
それは、「作品を鑑賞することは、製作者との対話である」ということです。作品を見ながら、作り手の意図を感じようとする意志です。優れた送り手は作品からどんどん自分の匂いを消してしまいますが、それを見極め嗅ぎ当てるような受け手の技能、才能、そのための努力。よりその作品を楽しもうという気持ちから生まれる、自然な受け手と送り手のやりとりが、この作品が隠し持つ「薔薇」をあなたに届けてくれるのです。

例えば、ぐるぐる回る「薔薇の紋章」は、はじめのうちは繊細なデザインの登場キャラクターたちを飾るように、画面の隅に表示されていました。ところが、話が進むにつれて、「薔薇の紋章」は華やかなキャラクターの引き立て役ではなく、彼女らの行動を隠す役割を持つようになります。
二話に一度程の割合でクライマックスに登場する決闘シーン。お互いに胸に挿した薔薇の花びらを先に散らされた方が負けというルールで、主人公「天上ウテナ」は、所有する「薔薇の花嫁」こと「姫宮アンシー」という少女を賭けて、選ばれたデュエリスト達と戦います。相手は剣道部主将やフェンシング部のホープなど、剣を扱うことにかけてはウテナより一枚も二枚も上手な強敵です。しかし劣勢に立たされたウテナが、勇気を振り絞って最後の一撃を繰り出す時に、決闘広場の上空に浮かぶ「ディオスの城」から王子様の姿をしたディオスと呼ばれる少年が舞い下り、ウテナに力を与えます。その時、ディオスがウテナに重なった瞬間、突如画面には回転する「薔薇の紋章」が現れ、視聴者から二人の姿を隠してしまいます。次の瞬間に、ディオスの力を全身に宿したウテナが鋭い姿勢で飛び出し、決闘相手の胸の薔薇を散らしているのです。
薔薇で隠されていた一瞬の間に、ウテナとディオスの間には何があったのでしょう?おそらくは、ディオスの意志がウテナに宿ったという表現として、ディオスがウテナに乗り移るという「絵」がそこには描かれていたのでしょう。はっきり描いてしまえば、他愛の無いアニメにありがちな表現です。しかし、ウテナの演出家はそれを隠したのです。薔薇の花の紋章で。隠さなければ、「人の精神が他人に乗り移る」なんてデタラメを平気で使うようなただのお子様向けアニメです。しかし隠すことで、そこには「少年と少女が薔薇の花びらの向こうで一体化する」という、なんとも淫靡な香りの漂う表現になってしまうのです。
このシーンは、30分のアニメの中にほんの一秒ほど挿入されているに過ぎませんが、送り手が「このアニメは、ここまでやるんだ」と僕らに伝えるには十分な効果になっています。

この「薔薇の紋章」は、アニメの登場人物達には知覚されていません。作中の構図等に関係なく、画面の一番手前に現れます。
普通、アニメの製作者は、アニメのキャラクターや物語を通して僕ら視聴者に何かを訴えかけようとしますが、「薔薇の紋章」という演出は、製作者が僕らに直接何かを伝えようとする効果を持っています。ウテナとディオスが一体化するシーンを隠したのは、作中人物の意図ではなく、製作者の意図なのです。
こんなにも分かり易く、製作者が僕らの前に姿を現してくれるのですから、その意図を読み込まないのは失礼とさえいえると、僕は考えます。
薔薇の花によって華やかに飾られ、同時に薔薇の花によって隠される少女、ウテナ。

彼女は、幼い頃、両親を同時に失い深い悲しみに沈んでいる時に、白馬の王子様と出会ったという記憶を持っています。王子様は幼いウテナを薔薇の香りで包み込むと、そっと涙をぬぐってキスをしてくれました。「たった一人で悲しみに耐える君・・・・・・。その強さ、気高さを決していつまでも忘れないで」そしていつの日か再会することを約束して、薔薇の紋章の入った指輪をくれたのです。
ところがそれ以来、ウテナは王子様に憧れるあまり、自分も王子様になる決意をしてしまいました。
ウテナの気高い精神は、この幼い日の王子様との約束を守り続けることで作られました。その気高さの象徴として彼女とともに薔薇がある限り、自分がお姫様になることが出来ないということに、その悲劇性に、ウテナは気が付いていません。王子様と再会出来るのは「お姫様」であって、王子様が二人出会ってしまったら、戦わなければならないということにも。

一見、不思議な(というより奇妙な)少女・姫宮アンシーとの共同生活の始まりや、普通の学園生活が描かれているだけで表立っては出てきませんが、ここに挙げたようなこの作品が内包している悲劇性は、第二話までの時点で、既に読みとることがで来ます。
そして、それを意識してみることで、なぜかウテナ本人ではなく、今度は姫宮アンシーという少女の持つ謎への、回答が示されて来るのです。
彼女の正体はなんなのか。アンシーは、自分を「薔薇の花嫁」であるとして、決闘の勝者に絶対服従をします。ウテナのことを「ウテナ様」と呼び、掃除洗濯をかいがいしく行い、決闘広場に立つりりしいウテナに寄り添って剣を差し出します。アンシーは、お姫様なのです。そしてウテナはアンシーの元に現れた王子様。
アンシーといることで、ウテナは王子様になります。王子様に憧れるのではなく、守るべきお姫様を持つことで、ウテナは過去の束縛から解かれ、王子様でいられるわけです。この辺が、ただ男装の麗人がカッコ良く飛び回るだけのアニメではありません。
すると、第三話で学園の生徒会長「桐生冬芽」が現れ、ウテナは彼に昔見た王子様の面影を見てしまい、今度はお姫様としてのウテナの物語が進んでしまいます。でも、ウテナがお姫様になってしまっては、今度はアンシーの立場がおかしな事になってしまいます。「お姫様」では「お姫様」を守ることは出来ないはずです。
上辺では、何の問題も無く物語が進んでいるのに、一歩踏み込んだ見方をしていると、この作品は常に「物語」という枠組みが崩壊してしまうラインのスレスレで展開していることがわかるのです。

さらにこの先、ウテナとアンシーは、物語の構造としての「乗っ取り」の意味を持つ「別の王子様とお姫様」のカップルとも戦うことになっていきます。そしてその戦いを通して、「王子様とお姫様」の関係には様々なバリエーションがある事を僕らは見ていきます。その中で、「王子様とお姫様」の間で揺れるウテナと「絶対のお姫様」であるアンシーという、「予定調和の物語の構図」としては絶対にありえないはずの二人のカップルが、ついに新しい物語の世界を紡ぎ出せたということ、薔薇の花に隠されることで守られていたウテナという少女が、その結果物語としての歪みを一身に受け、最後には作品世界からはじき出されて消えてしまってまでも僕らに伝えてくれた、新しい物語の希望。
ただぼんやりと眺めていたのでは掴みづらい最終回間際の展開は、第一話からしっかりと送り手のメッセージを受け取りながら見ていくことで、はっきりとその奇跡の意味を伝えてくれるのです。

次回以降の更新でも、「少女革命ウテナ」の読み取り方の考察や、もっと気楽な楽しみ方の話を続けていきたいと思っています。僕なんかより「ウテナ」の理解の深い方にはただの雑文に過ぎなかったと思いますが、まずは多くの皆さんがご自分の言葉で難解な物語である「ウテナ」を理解出来る手助けをしたいと思い、この項を書きました。
この薔薇が、あなたに届きますように。

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