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バランシェファティマ41番

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S★D★A★さんからリンク記念にいただいた、
『ファイブスター物語』のファティマの一人、可愛いティスホーンのCGです。
深いスリットの入ったタイトスカートが刺激的♪

第十二回川瀬会議

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「アイドルへの道」のファン公認絵師E-Kenさんから、第十二回川瀬会議の記念に頂いていたイラストです。
web上などでの元々の企画は終了してしまいましたが、
僕らファンはいつまでもWOWOW生まれのバーチャルアイドル達を応援するのです!

少女

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6000HIT記念!ということですえさんに頂いた、コギャルなウテナのCGです。
鳳学園のものとは異なる、オリジナルの制服です。可愛いチュチュまでいます。
このHPの世界を革命する話の中でいろいろとウテナについては語っておりますが、
まだまだ彼女には底知れぬ魅力がありますね♪

Birth Of Wonder

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こどものくに開始当時に川瀬春純さんにお願いして描いていただいた、本来、TOPページを飾る予定だった水彩画です。
僕のミスで掲載が遅れてしまいました(^^;
すてきなイラストありがとうございますデス!

かえさる

Atsushiさんから二つ目の原稿を頂きました。
今度はカエサルです。世界史上最大級のスーパーヒーローです!(3月26日)

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私の歴史資料館

第2回  ガイウス・ユリウス・カエサル

 えーずいぶんと間が空いてしまいました。 第2回です。 そうそう、前回のハンニバルの時に感想をくれた方がいました。 すえさん、どうもありがとうございました。 お礼が遅れてしまいましたね。 ごめんなさい。 できれば今回もよろしくおねがいします。
 えっとそのすえさんから次はカエサルがいいんじゃないかとありましたので、今回はそのカエサルでいきたいと思います。 興味がある方は読んでってくださいね。

 さて、ガイウス・ユリウス・カエサル(以後カエサルと省略)とはいったい何者か。
 あまりローマ史に詳しくない人でも、クラッスス、ポンペイウス、カエサルの第一回三頭政治といえば、歴史の授業で少しは聴いたことあるのではないでしょうか。 このカエサルが私がこれからしゃべろうと思うカエサルと同じ人です。 カエサルは受験という歴史の中ではあまり有名人ではないかもしれませんが、でも世界の歴史の中では大変な有名人なんです。 日本で例えるなら坂本龍馬ぐらいの知名度は十分にありますし、スケール的には圧倒的に上だと思いますね。 嘘だと思う人たちにこんな話をひとつ。
 カイザーという言葉がありますね。 言わずと知れた皇帝という意味です。 このカイザー、響きがいいせいか色んな人の異名になってますね。 サッカーでいうとベッケンバウワーとか。 私なんかだとラインハルトをイメージしてしまいますけど。 ちなみに誰のことか分からない人は気にしないでください。 本文とはまったく関係ありませんから。 えっとそのカイザーですね。 これはCaesarのドイツ語読みですね。 英語ならシーザーになります。 さらにラテン語読みをするとあら不思議、カエサルになるんですね。さてなぜでしょうか。 答えは簡単です。 ローマ帝国の生みの親がカエサルだからです。つまりカエサルという言葉が皇帝を意味します。 いわゆるローマという国は建国が紀元前750年くらいで、滅びたのが東ローマ帝国の西暦1453年です。 約2000年くらい続いたんですね。 その長い歴史の中で政体が大きく3つに分かれます。 初めが王政、次が寡頭民主政、そして最後が帝政です。 ローマ帝国の初代皇帝はオクタヴィアヌス、つまりアウグストゥスですね。 このアウグストゥスはカエサルの指名した後継者なんです。 もしも状況が許せばカエサルが初代皇帝になっていたかもしれなかったんです。 これで少しはカエサルがすごい人だと分かったんじゃないでしょか。 分からなかった人でも最期まで読んでいただければ片鱗くらいは感じれられると思います。 それでは次はもっと具体的な話を交えながらカエサルについて語りたいと思います。   

 カエサルのことを話すにはまず、彼が生まれた頃のローマの状況を説明する必要があると思います。 これを知っていればその後のカエサルの行動が説明できるからです。
 なぜカエサルは長く続いた共和政を捨て帝政を目指したのか。 この問いに対する答えが、カエサルとはどんな人物であったかを一番理解できると私はそう思います。 それではローマの状況についていきましょう。

 カエサルが生まれたのは紀元前(以後BCと省略)100年。 この頃のローマは地中海を内海と呼ぶほどの領域を誇っていましたが、国力の低下が深刻となってきていました。 この原因となった理由の一つがローマの中核を成すローマ市民権を持つ者が減ったことによります。 ローマ市民権所有者の減少はローマ軍の減少に直接つながります。 ローマ軍の減少によって国が請け負う最低限の義務、国土の安全が困難になってきました。 それではなぜローマ市民権所有者が減少したのか。 簡単に言えばローマ市民権所有者はその財産によって資格を得ていました。 つまりローマ市民とは一定量の財産をもつ者を指します。これが減少するということはどういうことか。 答えの一つとして純粋に人口の低下という事が考えられますが、これは違います。 ローマの人口そのものは減っていないのだから。 ではどういうことか。 答えは簡単、ローマ市民の中に規定財産を維持出来ない者が増えたからです。 これによって無産階級者が増加しました。 無産階級者は何の権利を持たない代わりに、徴兵の義務がない者たちのことです。 つまり今で言う失業者が増加したということです。 それではその失業した理由はなにか。 それはローマの社会構造にあります。 ローマ人は基本的に農耕民族です。 つまりローマ市民の多くは農業に従事して生活していました。 ところがローマが度重なる対外戦争に勝利することにより属州が増加しました。 これによってローマに彼らの主食である小麦が大量に入ってきました。 これらの属州はローマよりも小麦の生産にむいた土地で、その価格はローマの小麦よりもずっと安いのです。 これによってローマの農家は大打撃を受けます。市場価格が下がり、生活できなくなりました。 それを解消するため借金をするが、もともと社会構造に問題があるのだからうまくいきっこありません。 彼らは借金を返すために土地を手放します。 これで無産市民の出来上がりというわけです。 
 国力低下のもう一つの理由はハンニバルがローマにもたらした置きみやげです。 ハンニバルによる本土侵攻という危機的状況に対応するのに適した組織は元老院しかありませんでした。 そして歴史が証明するとおりローマはこの危機的状況を乗り越えました。 その結果として本来助言機関にすぎない元老院に必要以上の権力が集中します。 具体的には外交権、人事権、財政権、そして軍事権。 ほぼ全ての機能が元老院に集まっているといっても言いと思います。 そしてこれがこのままうまくいけばなんの問題もなかったのですが、そうではなかったのです。 
 ローマの弱体化について最初に気づいたのは今となってはとても分かりませんが、行動を起こした人なら分かります。 ティベリウス・センプローニウス・クラッススとガイウス・センプローニウス・クラッススです。 この2人が歴史の授業でも登場するクラッスス兄弟です。 クラッスス兄弟の改革で有名ですね。 しかしこれだと2人で仲良く改革したように見えますが、実際には兄が始めて、弟が跡を継ぐという形で改革がなされます。
このクラッスス兄弟、詳しく話すとおもしろいのですが、今回は主旨が違うので簡単にいきたいと思います。 改革の目的を簡単にいうとローマの再生ということになります。 その手段として土地の所有に制限を設けて、それを小作農民に分け与える。 そして自作農をふやすことによってローマ市民権所有者を増やし、ローマの再建を試みました。 しかし広大な土地を所有しているのは元老院議員でもある大貴族。 改革は多少の成功を収めたものの元老院の強権の前に激的には変化せず、2人の死を契機に改革の芽はつまれました。 つまり元老院に権力が集まりすぎ、柔軟な対応が出来なくなっていたのです。 いわゆる保守主義がローマ世界を覆ってしまいました。 これがハンニバルがもたらした置きみやげの正体です。 
 次に現れるのはガイウス・マリウスという男です。 この人はクラッスス兄弟とほぼ同時代人です。 しかし彼は政治家であったクラッスス兄弟とは違い軍人でした。 しかし軍人であったせいでローマ軍の質の低下を敏感に感じていたと考えられます。 
 このマリウスは名前が示すとおり家門名を持っていません。 理由は分かっていませんがおそらく地方出身者であったと考えられます。 マリウスはユリウス一門の女性と結婚します。 この人はカエサルの叔母にあたる人だったようです。 マリウスは護民官、法務官などを経験して、執政官に当選します。 そこで出した改革が軍政改革です。 徴兵制であったローマ軍を志願制に代えました。 これに無産市民たちが志願し、失業者に職を与えることに成功しました。 ただこの志願制、今まで国家に属していた軍隊が、これからは指揮官に属すという意味あいが強くなりました。 マリウスは想像もしなかったと思いますが、これが帝政へ向かう足がかりの一つになったと考えることができると思います。 この後ローマはマリウスのもとで過ぎていきますが、ここにルキウス・コルネリウス・スッラという者が現れます。 彼もローマを再建しようと試みた1人です。 彼は軍事的な天才で、非常に優れた指揮官でした。 この人もすごい人で詳しく書きたいのですが長くなってしまうので簡単に書かせてもらいます。 このスッラとマリウスが対立し内乱になります。 スッラがギリシアに遠征中、執政官キンナとマリウスがローマを制圧します。 そしてマリウスが死ぬとキンナが独裁にはいります。 その後スッラがローマに戻ってくるとキンナは部下に殺されスッラがローマを制圧します。 そして独裁官に就任して改革に入ります。 彼の改革を一言で言えば、元老院システムの強化です。 この点でスッラは保守主義者でした。 そしてやることをやってしまうと自ら独裁官をおります。 独裁官というものがスッラが強化した元老院システムとは別の所にあるものですから、自分のやろうしていることを貫こうとするならば正しい選択だと思います。 

 さて、いよいよカエサルの話に移ろうと思います。 ここまでの状況は省いた部分が多く、わかりにくい所も多々あるとは思いますが、要するにローマの社会構造が変化していき、それに元老院が対応していけない。 それに対して何人かが何とかしようとしたということです。 この点は理解そてもらえると思います。 そしてこのカエサルも何とかしようとした1人であり、唯一成功した人でもあります。 カエサルの改革は簡単に言えば、元老院システムの廃止です。 しかし何も元老院をなくしてしまうということではありません。 厳密に言えば、元老院の持つ権力を廃止して、それを個人に移行する。 これがカエサルが考えた改革で、後の世で帝政と呼ばれるものです。 カエサルがこう考えたのには理由があります。 ローマは約700年の歴史の中で大きく成長していきました。 そしてその地中海を覆う広大な領域を治めるのに今の元老院システムでは非効率で対応していけない。 これを効率よく運営するには1人の人間に権力を集中するシステムがふさわしいと考えたのです。 実際この後ローマはより大きく成長していくので、カエサルの考えが正しかったことを歴史が証明しています。 

 少し堅い話が続いてしまいました。 ですから今度がカエサルの人間性について話したいと思います。 そこで私があれこれ言うよりも、もっと説得力のある人たちに話してもらいましょう。

モンテスキュー
 フランスの法律家、啓蒙思想家。 「法の精神」という有名な著書の作者。 三権分立を唱えた偉い人。

「 カエサルは幸運に恵まれていたのだと人は言う。 だがこの非凡なる人物は、多くの優れた素質の持ち主であったことは確かでも、欠点がなかったわけではなく、また、悪徳にさえ無縁ではなかった。 しかし、それでもなお、いかなる軍隊を率いようとも勝利者になったであろうし、いかなる国に生まれようとも指導者になっていただろう 」

バーナード=ショウ
 イギリスの劇作家で風刺、皮肉の達人。社会正義を重視し、フェビアン協会を設立した穏健な社会主義者。

「 人間の欠点ならばあれほど深い理解を示したシェークスピアだったが、ユリウス・カエサルのような人物の偉大さは知らなかった。 「リア王」は傑作だが、「ジュリアス・シーザー」は失敗作である 」

モムゼン
 ドイツの歴史家。

「 ローマが生んだ唯一の創造的天才 」

ルキウス・コルネリウス・スッラ
「 君たちにはわかかないのかね、あの若者の中には百人ものマリウスがいることを 」

イタリアの普通高校で使われる教科書
「 指導者に求められる資質は次の五つである。 知性、説得力、肉体上の耐久力、自己制御の能力、持続する意志。 カエサルだけがこのすべてを持っていた 」

 ここからカエサルという人物がどんな人であるか感じてもらえると思います。 私自身の感想を言わせてもらえば、紛れもない天才だと思いますね。 政治力は抜群、戦争も強い、演説は人の心を貫く、文章力はある、おまけに女の人にもてる。 この人が天才でないとしたら天才という言葉自体が必要なくなるんじゃないかと思うほどです。 だいたい政治力と軍事的才能を併せ持っていること自体が希なのに、そのほかの才能まで併せ持つ。
 カエサルの持っている才能のどれかひとつ持っているだけでもその世界でトップに立てると思いますね。 では欠点はなかったか。 そんなことはありません。 ただ欠点が欠点にならないところにカエサルのすごさがありますね。 例えば彼の借金は半端ではなかった。 彼の家はユリウス一門に属し、コルネリウス、ファビウス、クラウディウスといった名門貴族にも匹敵するほど古くまで遡れる名門貴族です。 しかしユリウス一門は共和政初期には活躍したようですがこのカエサルの生まれた頃にはさっぱりで、ローマの公式記録に現れるのはハンニバルと戦った第二次ポエニ戦役の頃になってからです。 その中でユリウス一門に属する者がカルタゴ軍相手に善戦した。 この戦功によってカエサルと綽名されました。 これが家族名となります。 ちなみにカエサルとはカルタゴの言葉で「象」を意味します。 しかしこの後はまたさっぱりで、一世紀の間にたったの1人。 先ほどでたコルネリウス、ファビウス、クラウディウスといった名門貴族からは何十人と出ていたようです。 BC1世紀になるとようやくルキウス・ユリウス・カエサルという執政官が現れます。 この人はカエサルの叔父にあたる人です。 ちなみにカエサルの父親は法務官の経験をもつだけの人だったようです。 しかしこの法務官という地位は決して低いものではあるません。 この地位は執政官に継ぐ地位で、法務官を経験した後、前法務官という地位に変わり各属州へ総督として派遣される。 そしてこの総督を経験した後初めて執政官に立候補できる資格を得ることができます。 しかしカエサルの父親は属州へ派遣されていないから、どうやら法務官のときに死んでしまったと考えられます。 どちらにしてもカエサルは有力者の息子ではなく、家のほうも名門ではあるがあまりぱっとしない。 だからカエサルが生まれ育った家も大きな屋敷ではありませんでした。 つまりあまりお金持ちではなかったのに、恋人達に気前よくプレゼントをしていきました。 ある女性に送ったアクセサリーの値段が当時の高級住宅地に家が建つ値段とおなじだったなんていう本当か嘘か分からない話があります。 そんな借金漬けのカエサルなのに借金で首が回らなくなったという感じはまったくしません。 カエサルの最大の債権者はクラッススでした。 私の崇拝する作家さんはカエサルの借金にたいしてこう述べています。 借金の額が少ない内は、債権者の方が立場が上だが、しかしその額が膨らみ債権者がすててしまうには惜しい額になると、その立場は逆転する。 債権者は債務者が破産しないように手を貸すようになる。 クラッススはカエサルが属州へ総督として出ていくとき債権者に囲まれ出発できなくなった時、それらの借金を立て替えてカエサルを属州に旅立たせています。 この借金もいつしか消えていったのだから、カエサルの器がでかいと言えばその通りなのです。 ただ、普通なら借金の重さにつぶれてしまうんではないかと思うのですが、物事は捉え方次第でどうとでも変わるという見本ですね。    
 さて、他の欠点といえば女癖が悪かったということがあります。 当時半数の元老議員の妻がカエサルと不倫していたという、これまた本当か嘘かわからない話もあります。 しかしカエサルのすごいところは、それほどの数の愛人がいて誰にも恨まれず、うまくやっていたというから驚きです。 女癖の悪さがまったくハンディにならないのです。 いまの政治家が聴いたらさぞうらやましがるでしょう。 もっも彼らとカエサルでは比べものになりませんが。 

   さて、もしも彼が「信長の野望」や「三国志」に出てきたら政治力100、武力98、知謀100としかつけられないキャラになることは間違いないと思いますが、今度は彼の軍事的才能について話そうと思います。 彼の戦争のうまさは同時代では間違いなく一番でしょう。 カエサルはガリア、つまり今のフランスからドイツあたりでガリア人、ゲルマン人と約8年間戦争しています。 もちろんカエサルは勝ち、ガリアを属州にしていますが、決して楽な戦いではありませんでした。 ガリア戦役が7年目に入ると、オーヴェルニュ族というガリアの中でも有力な部族の中に、ヴェルチンジェトリクスという1人の若者が歴史の表舞台に登場します。 オーヴェルニュ族はカエサルに反抗したことのない部族だが、それは部族内で親ローマ派と反ローマ派が対立していたからでした。 この対立していた者たちは兄弟で、親ローマ派が弟、そして反ローマ派が兄です。 弟は兄を公開処刑して自らは族長として収まり、部族は親ローマとして安定していました。 さてヴェルチンジェトリクスですが、彼はこの処刑された兄の息子で、つまり現族長の甥にあたります。 その彼がクーデターをおこし、叔父を殺して自らが族長として反ローマに立ち上がります。 そして彼は全ガリアを巻き込んで、カエサルに戦いを挑むことになりますが、その前にガリア人とはどんな人たちであったか簡単に説明したいと思います。
 ガリア人を想像しようとするなら、今のフランス人やドイツ人を思い浮かべればいいと思います。 そしてその彼らに獣の皮で出来た服を着せてあげてください。 そうすればローマ人が蛮族と呼んだ彼らができあがることと思います。 その彼らは現在の姿からも想像できるように、とても体格に恵まれていました。 一方ローマ人は決して体格に恵まれておらず、しばしばガリア人たちに馬鹿にされていたようです。 
 さて、ここまでの話から想像できるように、ガリア人は非常に勇猛で強かったそうです。しかも前回のハンニバルの時に書いたと思いますが、当時馬の産地といえば、アフリカかガリア。 だからガリアには非常のたくさんの騎兵がいました。 騎兵力の充実は当時の戦いでは勝敗を分ける重要な要因でしたから、戦闘力を測るならガリア人は相当なものです。 しかし戦いに勝つのは常にローマでした。 それはなぜか。 簡単に言うならば、戦いのやり方に問題があったのだと私は思います。 つまりガリアには戦術と呼ばれるものが存在しなかったと思いまし、例えあったとしてもそれはお粗末なものだったのでしょう。 だから戦いになれば、ガリア人は自らの強さと数を勢いにかえて突撃を繰り返します。 戦いの初めはいつもガリア優勢の状態になります。 しかし、その勢いを止められると次が続かなくなり、やがては劣勢になるのは常です。だからローマ側とすれば、初めを耐えてしまえばよいのです。 
 つまり戦いとは兵士の質だけでは決まらない。 勝敗を分けるのは指揮官の質ということになりますね。 まさに、一頭の羊に率いられたライオンの群れは、一頭のライオンに率いられた羊の群れにかなわないということです。
 さてヴェルチンジェトリクスの話に戻ろうと思いますが、彼はそんなガリアに現れたとても稀有な、戦略的思考を持つ者でした。 そしてカエサルがガリアで唯一その才能を認めた男でもありました。
 その戦略的思考を持つ男が考えたローマを倒すためのプランはこうです。 まずローマに勝つには全ガリアの団結が必要だと考えます。 しかし各部族がひしめくガリアで団結ほど困難な事はありません。 オーヴェルニュ族は確かにガリアの中でも1,2を争うほどの有力な部族ですが、それでも圧倒的というわけではありません。 だから力に任せて他部族を支配するというのは無理です。 そこでヴェルチンジェトリクスは民族意識に訴えます。 しかしそれだけではガリアの民はついてきません。 そこで彼は戦いに勝つことで自らの力を見せつけました。 そして彼は各部族をその強力な指導力をはっきしてまとめ上げます。 これだけでも見事なものですが、彼はそれだけではローマに勝てないと考えています。 そこで彼は全ガリアに焦土作戦をしきます。 そしてカエサル率いるローマ軍の補給を断ち、ガリアから撤退させようと試みました。 ナポレオンやヒットラーがこれにやられていますから、有効な戦略と言えますね。
 結果から言えば、カエサルが勝ち、そしてヴェルチンジェトリクスは負けます。 しかしヴェルチンジェトリクスの戦略は有効で、カエサルは一度撤退に追い込まれます。
 ここでさらに補給を絶つ戦略でいけば、少なくともローマ軍はガリアからの撤退に追い込まれたでしょう。 しかしそうはなりませんでした。 ヴェルチンジェトリクスは撤退したローマ軍に追撃をかけました。 その兵力はローマ軍を圧倒的に上回っていました。
 しかしカエサル率いるローマ軍はこれをさんざんにうち破ります。 やはり会戦においてガリア人はローマ人の敵ではありませんでした。 
 それではなぜヴェルチンジェトリクスは有利な状態にもかかわらず、追撃にでたのか。
 それは次のように考えられると思います。 この時ヴェルチンジェトリクスの頭には今後の展開が浮かんでいたと思います。 つまりもしここでローマ軍を撤退に追い込んだとしても、彼らはすぐに体勢を整えてガリアにやってくることは明白だ。 しかしその時にガリアは今の団結を保っていられるだろうか。 頭のいい彼のことだからガリア人の性質は知り尽くしていたことでしょう。 ガリア人は持久力に欠ける。 だからここでローマが再びガリアを訪れる気がしなくなるくらいの壊滅的打撃を与えなければいけない。 
 他の要因もあると思いますけど、一番大きな理由はこれだったと思います。 しかし逆にダメージを受けてしまいました。 ヴェルチンジェトリクスはそれでも軍をまとめ、ガリアの聖地とされるアレシアに立てこもりました。 ここでの戦いが、ガリア戦記のクライマックスとなる「アレシア攻防戦」です。
 ヴェルチンジェトリクスは騎兵のほとんどを各部族に向けて放しました。 各部族から援軍を要請するためにです。 騎兵は各部族の有力者の関係者が多いから、移動速度の点からも都合がよかったのです。 そして一度カエサルを撤退に追い込んだときも、籠城戦でしたから、彼は自信があったのでしょう。 しかしカエサルはカエサルでここで決着をつけれると考えました。 その理由を私自身はっきりとは分からないのですが、以前撤退した所よりも、アレシアの方が地形的に有利に闘えると考えたようです。 カエサルはローマ軍の持つ技術力を最大限にはっきして、アレシアを徹底した包囲網で囲みます。 壕や防壁、鉄鉤や水などで構成された7層もの防御網は内側、つまりアレシア側に16,5キロ、120メートルの幅に自軍を待機できるようし、その外側に同じ防御網を21キロ敷きました。 この戦史上でも前代未聞なこの防御網の完成に1ヶ月の期間がかかりました。完成してカエサルは兵士達に休息を与えました。 ちなみにこのアレシア攻防戦の防御網は、ナポレオン三世の発掘調査によってその全体像が明らかにされています。
 さて立てこもったヴェルチンジェトリクスですが、多くの非戦闘員を含んでいたせいか、1ヶ月の内に食料が欠乏し始めました。 援軍の様子を見ようにも、騎兵はいないし、ローマ軍の鉄壁な防御網に阻まれてどうにもなりません。 さぞかし心細かったでしょうね。人間というのは期限をくくられれば以外とがんばれますが、その期限が決まってないと、分からない分だけ不安が増加しますからね。 精神的にかなり追いつめられたでしょう。ついにヴェルチンジェトリクスはアレシアの住民を外に出しました。 住民達はカエサルに奴隷になるから食料をくれと提示したそうですが、カエサルは申し出を受けず、彼らを包囲網の外に出しました。 
 そうこうしている内についに援軍がやってきます。 援軍を見たアレシア側はさぞ狂喜乱舞したでしょう。 ヴェルチンジェトリクスはついに撃って出ます。 こうしてアレシア攻防戦は始まりました。
 さてここで両軍の兵力を明らかにしたいと思います。 アレシアに籠もったガリア軍、8万。 包囲網の外側にいるガリア援軍、26万。 一方それを迎え撃つローマ軍、本当かと思いますけど、約5万。 約というのは、正確には5万をきっていたからつけました。つまりアレシア攻防戦はガリア軍、内外併せて34万、ローマ軍5万弱の戦いなのです。この戦いは1ヶ月の準備期間と、3日の戦闘で決着がつきました。 その内容を簡単に記述すると、基本的には攻めるガリア、守るローマとなります。 ガリア側はその数を生かして徹底的に攻めますが、カエサルの的確な指示とそのカエサルの元で7年も戦い抜いた各指揮官、各兵士によって防御網はうち破れず、ただ兵だけが失われていきました。
 ヴェルチンジェトリクスは防御網の内、1カ所その防御の甘いところを見つけだし、6万の精鋭をもって攻めました。 カエサルもこの防御上の欠点には気づいていました。 だから全軍の1/5にあたる1万でここを守らせていました。  副将のラビエヌスがここを受け持っていましたが、カエサルに守りきれないときには攻め込んでいいと指示されていました。そのラビエヌスから攻め込むとの報告を受けたカエサルは、自らそこに兵を連れて急行しました。 赤いマントのカエサルは目立つため、前線に立つのは危険だが、カエサルはそれでも自らが現れることによる士気の向上を選択しました。 そしてここでこの6万をうち破り、この内側で壊滅していくガリア軍をみて、援軍に現れたガリア兵はちりじりに逃げていきました。 こうしてアレシア攻防戦はローマ軍の勝利で幕を閉じました。 カエサルはガリア戦記の中でこの時のことを次のように書いています。 「 もしもわが兵士たちが、この日を特徴づけた激闘の繰り返しで疲労困憊していなかったら、敵の全軍を完全に撃滅できていただろう 」
 5万にも満たない数で30万以上の敵を跳ね返した戦果はアレクサンドロス大王にも匹敵するもので、しかも内と外に挟まれていた事を考えると、戦史上でも初めてのことですね。 それを何より実感したのはヴェルチンジェトリクスだったでしょうね。 彼は逃げ戻ったアレシアでの会議で自らの行動はガリアのためであったことを発言し、しかしこうなってはしかたないとして、自らローマに投降し、他の人を助命させると提案しました。
 なかなか潔いと思います。 反乱を起こすのは別に悪いことではないと、私は思います。別によいことでもないですが。 とにかく善悪でくくれることではないと思います。 しかしそれに失敗し、助命を請うようではいけない。 こういうことは失敗したら死ぬぐらいの覚悟をしてやるべきだろうし、何よりそんな覚悟のない者の反乱がうまくいくはずがない。 それにそんなんでは見ている方が興ざめしてしまう。  その点ヴェルチンジェトリクスは見ていて気持ちがいい。 善悪は別として、人間こうありたいなっと思ってしまいますね。 潔さはある種の高貴さを感じさせます。 でも、中にはあきらめととる人もいるだろうし、あきらめずにあがくべきだと考える人もいるでしょう。 別に否定はしません。時と場合にもよるだろうし。 ただ私はこう感じたという話ですね。 少し話がそれました。 元に戻します。
 ヴェルチンジェトリクスはローマに投降します。 そこでカエサルと初めて顔を合わせたでしょう。この有能なガリアの若者を見てカエサルは軍団長に欲しいと思った可能性が高いですね。 ローマの弁護士として有名なキケロによれば、カエサルは自分の若い頃に似た性格のこの若者を愛したといいます。 結局、カエサルはこの若者の考えを入れました。ガリア側でローマに捕らえられたのはヴェルチンジェトリクスただ1人です。 彼はローマの牢に6年間入れられます。 そしてカエサルがガリアに対する戦勝の凱旋式を挙行した時、それに参列します。 そしてその後、殺されました。 ローマ人、中でもカエサルは寛容の文字が実によく似合う男で、この後も話すことになると思いますが、彼はほとんどの敵を許しています。 カエサルが許さなかったのは一度反乱を鎮圧され、再び逆らった場合です。 この時ばかりはカエサルも容赦はしません。 しかしその場合でも許されることもありました。 なぜヴェルチンジェトリクスは処刑されたのでしょうか。 この場合は彼の有能さが見事に表されていると思います。 生かしておくには有能すぎたということですね。 この点からも彼がカエサルが唯一認めたガリア人ということが判りますね。 認められたがゆえに処刑されるなんて皮肉な結果ですけど。 
 少し話がそれるんですけど、佐藤賢一という作家をご存じでしょうか。 「王妃の離婚」で直木賞をとった作家さんです。 この人が「カエサルを撃て」という書き下ろし出しました。 これがちょうどガリア戦記のカエサルとヴェルチンジェトリクスについての内容になっています。 もちろんアレシア攻防戦についても書いています。 内容について話すと、どちらかといえばローマ側よりもガリア側の作品ですね。 だから主役はカエサルではなくヴェルチンジェトリクスですね。 カエサルはライバルというところでしょうか。 結論から言いますと、はっきりいっておもしろくありませんでした。 冗談抜きで金返せコールですよ。1900円もしたのに・・・   別にいいんです。 ヴェルチンジェトリクスが主役でも。 私はカエサルのファンですが、彼も好きですから。 しかしこの作品私は読んでると腹が立ってきましたね。 どんな点が気に入らなかったというと、カエサルが情けない男として描かれていたんです。 その情けなさは半端ではありませんね。カエサルほど人間の性格について精通していた人も少ないと思うんですが、カエサルは非常に部下に慕われていました。 そうでなければ戦いに勝つことはできませんし、それでなくでも快適からほど遠いガリアで7,8年も過ごせません。 しかし佐藤賢一のカエサルは部下に不平不満を言われまくりです。 しかも部下に戦略を説かれています。 こんなの「蒼天航路」の曹操に言ったら、「わずかとはいえ、覇道をかたったな」といって首を切られているところです。 だいたいなんでカエサルがたかだか百人隊長に殴られるんだ。 しかも作中のカエサルはガリアにローマから女を連れてきています。その理由がローマにおいておくと誰かに寝取られないか心配だからだそうです。 確かにカエサルは快楽主義者です。 でもそれはプライベートにおいてです。 公務では非常にストイックでした。  カエサルの事ですから現地の女の人には間違いなく手を出しているでしょう。6,7代皇帝の頃にカエサルの子孫だと自称する者がガリアで出てくるくらいですから。しかしガリアに、しかも戦場に女を連れてくるなんて考えられませんね。さらに言うなら理由も理由ですね。 ローマにおいておくと心配? カエサルは一度、妻がある男に夜這いに近いことをされたことがあります。 厳密に言うと少し違うんですけど。その時当時の元老院議員はいい気味だと思ったそうです。 それはそうですよね。 いつもはカエサルがしていることをカエサルがされたのだから。 しかしこの時カエサルは妻と離婚しています。 しっかり確かめもせずに離婚したもんですから、周りが唖然としていると、カエサルはこう言ったそうです。 「カエサルの妻たるもの、疑わしいことはしてはいけない」 これを聞いた元老院議員はさらに唖然としたでしょう。 男なら一度は妻に言ってみたい台詞だそうですから。 そんなカエサルがそんな理由で女を連れてくるなんて考えられませんね。 
 この情けないカエサル君は作中でヴェルチンジェトリクスと戦う内に少しづつ変わっていくという書き方がされています。 そして最後のアレシア攻防戦で紙一重でカエサルが勝つというラストです。 その紙一重が戦略ではヴェルチンジェトリクスが勝り、カエサルに向けて放った矢がぎりぎりであたらなかったためカエサルが勝ったそうです。 カエサルは自分はやつに器で劣る。 策でも劣った。 向こうの弓兵の練度がもう少し良ければ自分は負けていただろうと思っています。 
 事実は見ていないのだから分かりません。しかし私の知るカエサルからあまりにかけ離れているため、ピンときませんね。 ヴェルチンジェトリクスをかっこよくしたいという気持ちは分かりますけど、カエサルをここまでおとす必要はないと思いますね。 確かにヴェルチンジェトリクスはすごい人だし、器も相当大きい人だったでしょう。 しかし客観的に見てもカエサルより大きな人には感じませんね。 そしてヴェルチンジェトリクスと戦う内に変わるカエサルというのも少し無理がありますね。 若い頃のカエサルも十分にすごい人です。 例えば、スッラが独裁官としてローマにやって来たとき、彼はリストを作りマリウス派の人間を殺しまくりました。このリストにまだ十代だったカエサルも載りました。 マリウスはカエサルの叔母にあたる人と結婚していましたし、カエサルもマリウス派の重鎮であるキンナの娘と結婚していたのだから、スッラから見れば立派にマリウス派に見えたのでしょうね。 しかしスッラの周りの人がまだ何も政治的なことをしていないのだから許してやってと嘆願しました。スッラもしょうがなく承知しましたが、その時次のように言ったようです。
「 君たちにはわからないのかね、あの若者の中には百人ものマリウスがいることを 」
 しかし、ただ許したわけではありません。 許す代わりにキンナの娘と離婚しろといったようです。 誰もがイエスというと思ったが、カエサルはノーと言いました。 おかげでスッラは怒り、カエサルはローマから脱出しなければいけなくなりました。 帰ってこれたのはスッラが死んでからです。 それにしてもなぜカエサルはノーといったのでしょうか。色々推論はされています。 子供を身ごもっていた妻をほっとくことは出来なかったとか。 ちなみにこの子どもが公式的にはカエサル唯一の娘、ユリアです。 しかしカエサルのことだから他にも結構いたと思いますね。 有名なのはクレオパトラの子、カエサリオンでしょうか。 まあいいや。 さて、他の理由は将来民衆派がカエサルの基盤になることをみこして裏切れなかったとか。 まあどちらにしら、時の権力者に逆らうのだから、カエサルが剛胆なのは間違いないですね。
 こんな話もあります。 カエサルがギリシアの方に留学するとき、カエサルの乗った船が海賊に襲われ、人質にされたことがありました。 このとき海賊の要求する身代金を払えなければ奴隷送りでした。 海賊はカエサルには20タレントという額をつけました。
 過去の貨幣価値を現在の価格に直すのは難しいですが、当時兵を5000人近く集められる額だというから相当な金額ですね。 しかしカエサルは海賊にこう言いました。
「お前たちは誰を捕らえているか知らないのだ」 そして身代金を50タレントに自ら上げたというから驚きですね。 そしてこうも言いました。 「お前たちを必ず捕らえ、絞首刑にしてやる」海賊たちは笑って聞いていたそうです。 自由になったカエサルは街で船と兵を集めると海賊たちを襲い、全員を捕らえました。 もちろん金は返してもらい、海賊たちの財宝まであったというから十分もとはとったでしょう。 カエサルは総督に報告したが、総督の興味は財宝にあったから、海賊たちの処分はカエサルに任されました。カエサルは彼らを全員絞首刑にしました。 まさか海賊たちも本当に絞首刑になるとは思ってみなかったでしょう。 このようにカエサルは若い頃から十分に大した人だったのです。 
 とまあ色々言ってきましたが、私は何もだから史実に即して書けと言っている訳ではありません。 歴史書ではなく小説なのだから。 佐藤賢一の言いたいことも分かります。確かにみんな一緒ではおもしろくないし、100人が書けば100通りのカエサルがあるでしょう。 しかし歴史小説を書く以上、その事柄を調べるのは当たり前です。 もちろん「カエサルを撃て」も調べて書いてあることは分かりますし、作中でローマ人はガリアの街で悪代官をしていますが、それも私には事実かどうか分かりません。 しかしそのように描くなら、読者がそれなりに納得できるように書く方がいいでしょう。 まあ司馬遼太郎みたいに本当か嘘か分からないとこまでやるのは難しいと思いますけど。
 とにかく要するに私は読んでて面白くなかったし、気に入らなかったのだから、少なくとも私にとってこの小説は失敗作としかいいようがありませんね。 私自身の定義ですけど、小説は面白くてなんぼのものと思っていますから。 もちろん感動したや為になったというもの面白いに入ります。 
 しかし今更ですけど少しフォローを。 この作品少し18禁入ってるんですけど、ただ女の人の書き方はうまいなと思いました。 読んだわけではないから何とも言えませんけど、きっと「王妃の離婚」はおもしろい作品なんだろうなと思います。 
 さて、少しどころかずいぶん外れてしまいましたけど、元に戻します。 カエサルの軍事的才能についてですね。  
 ガリアでの戦いが終わっても、カエサルの戦いはまだ終わりません。 今度の敵はローマそのものと言っていいでしょう。 カエサルはその年の執政官選挙への立候補とガリアに対する戦勝の凱旋式を元老院に対して要求しました。 カエサルの要求に対して元老院は強気に対応しました。 ここを詳しく概述するとすごく長くなってしまいますから、簡単にいきたいと思います。 執政官に立候補するにはローマに自ら出向いて立候補を表明する必要があるのですが、前執政官の官名を持つ属州総督は絶対指揮権という権利を持っています。 これは軍隊を率いる権利があるということですが、首都ローマは決して軍を率いて入ることが出来ないという決まりがあり、それはそのまま絶対指揮権をもつ者はローマに入れない事を意味します。 つまりカエサルが執政官に立候補するには属州総督の期限切れを待ち、凱旋式を挙行後、ローマで立候補を表明するという形になります。 しかしこれをするとカエサルは軍隊を率いる権利を失い、執政官選挙までの間、丸腰になってしまいます。 元老院は属州総督の地位を捨てる事を要求しましたが、カエサルはこれだけは避けたかったのです。 なぜなら元老院が取り込んだポンペイウスが元老院に認められ絶対指揮権を持っているからです。 だからカエサルはポンペイウスに対抗できる軍隊を手放すことは出来なかったのです。 カエサルは色々と手を打ったのですが、元老院はついにカエサルに対して元老院最終勧告という伝家の宝刀を抜き、軍隊の解散と元老院への出頭を命じます。 これは元老院の持つ強権の一つで、これに従わない場合は裁判をなしに殺害をしてよい事になっており、護民官が持つ拒否権も無視されるというものです。これによってカエサルは窮地に陥ります。 このまま勧告を無視すればローマの敵。 勧告に従えば死ぬことはないですが、彼の政治生命が絶たれ、彼の目指す改革は海の藻屑と化すでしょう。 元老院は自らの勝利を確信していたことと思います。 しかし元老院はなぜカエサルに対して、強く当たるのでしょうか。 その答えは元老院はカエサルの政策を恐れていたからだと、私は思います。 もちろんこの時の元老院はカエサルが帝政を目指していたことはまだ知らないでしょう。 しかし元老院に対して批判的であることは今までの行動から明らかで、カエサルは元老院にとって敵だという認識がありました。 カエサルが執政官であった頃、カエサルは次々と政策を法案化していきました。 ローマの執政官は言わずと知れた2人で行うものですが、カエサルとともに執政官になった者は元老院側の人間であったのですが、カエサルのやり方は絶妙で、彼は執政官としてまともに働けず、ついには任期が残っているにもかかわらずに引っ込んでしまい、カエサル1人に政策を牛耳られたという経験があります。 元老院は自らの権が犯される、このような状態がまた来ることをどうしても防ぎたかったのでしょう。
ここで元老院が取り込んだポンペイウスについて少し説明をしたいと思います。 彼はもともとスッラの配下の部将で、優れた指揮官でした。 スッラ亡き後はローマを牽引した人物で、主な功績として地中海から海賊を一掃、小アジア、パレスチナ、エジプトのローマ化など多大な功績を持つ人物で、当時非常に市民からの人気の高かったのです。 そしてローマ随一の将軍と呼び声が高い人物でもありました。 
 元老院は自らの強権とポンペイウスの持つ武力と人気によって、カエサルを失脚させられると考えたのも無理ありませんでした。  しかしカエサルという人物はそれらの予想を上回る人でした。 ローマの北側にルビコンと呼ばれる川があります。 この川が軍隊を率いて越えてはならない最終ラインで、これを越えるということは、勧告を無視することになり、それはそのままローマに対する反逆を意味します。 カエサルはこのルビコン川の境にたち、ローマの方を向いたことでしょう。 この彼に今従っているのは一個軍団のみ。 残りはまだガリアの地にいました。 ここでカエサルはおそらく一生に一度の大きな選択をしました。 その時、部下に対して次のような演説をしました。 
「 ここを越えれば、人間世界の悲惨。 越えなければ、わが破滅。 進もう、神々の待つところへ、我々を侮辱した敵の待つところへ、賽は投げられた! 」 いわゆる”賽は投げられた” の語源です。 こうしてカエサルはルビコン川を越えました。 
 こうしてローマ対カエサルの統治システムをかけた戦いが始まりました。 元老院側はカエサルがもしルビコンを越えたとしてもほとんどの兵が従わないだろうと考えていました。 しかし予想に反して脱落者はほとんど出ませんでした。 出たのはたった1人。
 それがカエサルの副将ラビエヌスでした。 ポンペイウスとの戦いの前にこのラビエヌスとカエサルの2人のドラマを紹介したいと思います。
 ティトウス・ラビエヌス。 前に紹介したマリウスと同様家門名を持たない男で、おそらく属州出身者であったのでしょう。 カエサルがルビコンを渡る前、このラビエヌスに接近したのはポンペイウスでした。 ローマの貴族にはクリエンテスとパトローネスという関係が存在しました。 パトローネスとはいわゆるパトロンのもとですが、ローマのこの関係はパトロンほど一方的なものではありません。 パトローネス、つまり保護者は多くの被保護者、クリエンテスを持っていました。 クリエンテスは親代々パトローネスに仕え、そしてパトローネスはクリエンテスの利益を保護する、いわゆる相互関係が成り立ち、これはローマ社会では重要なシステムになっていました。 だから一門の長が選挙に出る時はクリエンテスたちはこぞってローマに行って投票をしました。 そしてラビエヌスですが、彼はポンペイウスのこのクリエンテスだったのです。 ポンペイウスはどうしてもこのラビエヌスが欲しかったようです。 戦いは指揮官ただ1人ではできません。 多くの部下があってはじめて効率よく軍隊を運営できるのですが、ポンペイウスの部下たちはこの頃になると戦争を経験していない者が大多数を占めました。 いっぽうカエサルの部下たちはつい最近までガリアで戦ったいたので経験にはことかきません。 だからカエサルから彼の右腕と呼ばれた有能な部下を引き抜くこと以上に、ラビエヌスのような有能な実戦型の指揮官が欲しかったのです。 
このラビエヌスとカエサルの関係が始まるのはラビエヌスが護民官になった時からです。 どんな出会いをしたのか想像することも出来ませんが、ラビエヌスはこれ以後、カエサルと行動をともにします。 カエサルが属州総督をしてガリアに行くときも初めからついていきました。 ガリアでの戦いの中でラビエヌスはカエサルの期待に完璧に応えました。 当時カエサル指揮下の軍団長たちは、良家の子弟たちが多くいましたが、カエサルが支援に駆けつけなくていい前線は、ラビエヌスのところだけでしたし、軍を二つに分けた時の一方は必ずラビエヌスに率いさせました。 カエサルがガリアから属州に戻るときも、ラビエヌスはガリアに居続けました。 おそらくラビエヌスはカエサルが心からの信頼を置いたただ1人の男だったと考えられます。
 このラビエヌスはポンペイウスからの誘いがきたとき、心から悩んだ事でしょう。 彼は政治的な思惑など少しもなく、どちらにつくか悩んだ時も、元老院体勢を守るためにポンペイウスにつくのではなく、クリエンテス関係を守るためであり、たとえカエサルについたとしても、それはカエサルとの友誼を守るためであり、決してカエサルの考える帝政を目指すからではなかったでしょう。 
 結局ラビエヌスはカエサルがルビコンを渡ったあと、ポンペイウスや元老院が望んだカエサル陣営の切り崩しなどを一切やらずに、荷物も持たず身一つでポンペイウスの元へ行きました。それが彼に出来た唯一のことだったのでしょう。
 彼の離反を知ったカエサルは彼の残していった荷物を彼に届けるように命じました。
 これが13年間ともにいた同志の離反に対してカエサルがやった唯一のことでした。
この後2人は戦場で顔を合わしますが、その話はまたその時に語りたいと思います。
 さてルビコンを渡ったカエサルですが、渡った後の行動はまさに電光石火のスピードで進みます。 元老院側はまさかこの時期にカエサルがルビコンを越えるとは思っていませんでした。 カエサルが動くのはガリアにいる彼の軍団と合流してからだと踏んでいました。 だから準備はのんびりとしていたのです。 そこへカエサルの軍団が閃光のようにやってきました。 元老院はあわてます。 彼らは家財道具などをいっさいがっさい持ち出してローマから逃げだし、南イタリアにいるポンペイウスと合流しました。 カエサルは首都ローマに入り、9年ぶりに元老院議員たちを見たことでしょう。 元老院議員たちの中には当然政治的にカエサルと対立していた者も多くいました。 しかし、リストを作り反対派をまさに根こそぎ殺していったスッラと違い、カエサルは誰1人として危害を加えませんでした。 先ほど書いたようにカエサルは寛容の似合う男で、つまらない復讐心とは無縁でした。 しかしなにかと対照的なスッラとカエサル、政治的に見てどちらが楽であるかを示すらなら、おそらくはスッラの反対派の排除でしょう。 この虐殺という事実に自分自身が耐えることが出きるなら、自分の思う政策をすんなりと進めていくことが可能でしょう。 スッラは何も無関係の市民に手を出したわけではなく、反対派を一掃しただけなのだから。 それでもその数は相当なものですが。 一方のカエサルですが、何度も書きますが、彼は恨みや復讐心とは無縁の男でした。 ただ政策を行う上で、反対陣営がそのまま残っているわけですから、政策をとん挫させられる事はないものの、鬱陶しい事は間違いないでしょう。 しかしカエサルは全て承知の上で、自分のスタイルを貫きます。 これがやがて大きな災厄としてカエサルの身に降りかかるのですが、カエサルとしてもその可能性を十分に考慮していたに違いないでしょう。 しかしこれがカエサルという人間なのです。 人は分かってはいても、それをすることが出来ないと思うことがあるでしょう。 つまり、それはその人がその人であるためにゆずれない部分なのではないでしょうか。 ここでカエサルの言を紹介しましょう。
「 わたしが自由にした人々が再び私に剣を向けることになるとしても、そのようなことには心わずらわせたくない。 何ものにもまして私が自分自身に課していることは、自らの考えに忠実に生きることである。 だから、他の人々もそうであって当然と思っている 」
 人権宣言にも等しい言とは思いませんか。 しかし逆にこのカエサルの選択から、人は神になりえないことが実感できると私は思います。 さて、ローマから逃げ出した元老院議員たちですが、そのポンペイウスも準備が出来ておらず、カエサルの速攻に対応できずに、ついにはイタリアからみんなそろって逃げ出すことになりました。 これによってこの戦いの舞台はローマからローマ世界全体へと広がっていくことになります。 カエサルの思惑として、速攻で勝負を決めるつもりだったようですが、彼らのローマ脱出によってこれが不可能となりました。つまり、このローマ世界の行く末をうらなう内戦は、長期化を余儀なくされたのでした。

 さて、逃げたポンペイウス達ですが、彼らはギリシアに集結し今後の戦いの準備をします。 前に述べたポンペイウスの海賊退治からなる東方遠征のおかげで、ギリシアはポンペイウスのクリエンテスになっていました。 はやい話が、カエサルかから見れば敵地ということです。 そのポンペイウスには多くの元老院議員がついていった事は先ほど述べた通りですが、その内容となると現職の執政官を含む有力な元老院議員が多々いたという事ですから、ギリシアで元老院会議が開けるといった感じだったようです。 だからこの時の正統政府はギリシアにありました。 しかしカエサルの元にも幾人もの人々が集まってきました。 その内訳は、元老院議員たちの息子達で、言うならば次代をになう幹部候補生といった感じでしょうか。 これまた早い話が、キケロに言わせると、「 ローマの若き過激派達 」ということになります。 そのキケロにしても自分のかわいがっていた娘婿がカエサル側に走ったというのだから、大変でしょうね。 まあこんな所からも、この戦いが内戦であり、そしてローマのその後を賭けた戦いということになりますね。
 ポンペイウスの考えとして自分の勢力下にある北アフリカ、現スペイン、そして自分のいるギリシア。 ここからカエサルを包囲するというものだったそうです。 これに対してカエサルは攻めに出ます。 自分の部下をギリシアの制海権確保に、そして北アフリカに、そして自らはスペインを押さえるために出ます。 結論から言えば、自分が乗り出したスペイン戦線以外は壊滅します。 この理由をして対立する二つの陣営の構成にあると考えられます。 ポンペイウスの陣営は現職の執政官を初めとする元老院議員が多いため、戦線を任すことのできる司令官クラスの経験を持った人たちが多くいたということです。一方カエサル側ですが、若い者は体力ややる気は多くても、圧倒的に経験がたりません。だからつまり使ってみるしかないのですが、これが失敗したということですね。 つまりポンペイウス側は幕僚クラスには事をかきません。 カエサル側は唯一分隊を任せられたラビエヌスは引き抜かれたため、幕僚クラスはほとんどいず、いずれも30代の若者となります。 1人だけカエサルと同年代の人もいるんですけどね。 今回の話では特に紹介しなくてもいいとおもいます。 
 さて、それではポンペイウス側にはマイナス点はなかったのか。 それがあったんですね。 先ほど幕僚には事を欠かないと書きましたが、これが中堅の百人隊長クラスになるとこの割合が一転します。 カエサル軍の百人隊長達はガリアで戦い続けたベテランぞろいで、その練度は非常に高く、逆にポンペイウス軍は最近まで戦いそのものをしていなかったのだから、当然その力は圧倒的に劣りました。 だからポンペイウスは集めた兵士たちを訓練しなければいけませんでした。 これに一年近くかけたそうです。
 それに幕僚にはこと欠かないということは、要するに口が多いということです。 戦場を知らないが、気位だけは高い人々の意見が飛び交う軍議は、ポンペイウスから見たらさぞかし鬱陶しいことでしょうね。 しかもその中の1人が年齢や実績からポンペイウスと同等の司令官としてふるまっていて、これをポンペイウスも認めていましたから、指揮系統の統一といった点からも、何でも1人で即断できるカエサルに劣っていました。 しかし兵数となるとポンペイウス側は圧倒的に有利ですね。 カエサル軍が、歩兵2万5千、騎兵1千に対して、ポンペイウス軍は歩兵5万位、騎兵に至っては7千もいたというからカエサルは倍以上の兵力と戦うことになるんですね。 しかし歴史はカエサルの勝利を記しています。 ここからはカエサルがいかに勝ったかのプロセスの話になります。
 このローマの将来を占う戦いの舞台はギリシアになるのですが、制海権は完全にポンペイウスのものでした。 彼は6百隻からなる船を持っていましたが、カエサルは百隻をきる数しか持っていなかったようです。 2万5千くらいの兵を一度にローマからギリシアへ運べなかったようですから。 先にカエサルが率いる半数がギリシアに到着しましたが、残りの半数はカエサルの元で軍団長として戦ったアントニウスが率いていたのですが、風の関係や、ポンペイウス軍の妨害によってなかなか出航できません。 この頃の船は四角い帆を使った帆船だったので、風上に向かって航海することが出来ません。 この四角い帆の帆船は後ろから風が吹いてくれないと真っ直ぐに進めないのです。 ちなみに風上に向かって動けるのは三角の帆を使った帆船で、これはもちろん風上に対して真っ直ぐいけるわけではないのですが、風上に対して斜め前方に進み、今度は逆の斜め前方に進むことを繰り返すことによって目的地にたどり着けたようです。 もっと詳しく知りたい方は、月刊マガジンで連載されている「海皇記」を読んでみてください。 絵で説明してくれているので、私の説明より断然わかりやすいものになっています。
 さてギリシアの地で孤立してしてしまったカエサルですが、それでも行動を起こし、ギリシアの町を攻略していきました。 この時ポンペイウスは5万ぐらいの兵力で食料庫でもあるドゥラキウムの町にいました。 この時ポンペイウスがカエサルに対して攻撃をかけていれば、勝負はついたと考える事が出来ます。 この時、カエサルの率いる兵は1万2千くらいなのだから。 しかしどういった理由があったのか分かりませんが、ポンペイウスは動かず、そしてカエサルも動けませんでした。 こうしている内にアントニウスがギリシアにたどり着き、ついにカエサルと合流します。 これを見たポンペイウスはドゥラキウムの町へさがります。 ここでドゥラキウム攻防戦がなされます。 
 戦いが長期化すれば不利になるのはカエサルの方でした。 なにせギリシアの地はポンペイウスのクリエンテス。 つまり敵地で戦うことになり、補給という点で圧倒的不利な立場にありました。 しかも制海権は完全に敵側のもの。 海からの補給も期待できません。 カエサルは部隊を分けます。 一部は各町に送り出し、食料の提供をお願いする。もう一部は敵の別働隊を足止めするためです。 そして残りでドゥラキウムの町を包囲していきました。 全長25キロになったといいますから、まるでアレシア攻防戦のようです。 しかしポンペイウスも防御網をしきます。 その長さは22キロ。 カエサルより短くてすんだのはその陣地が内側にあるのだから当然ですね。  つまりこの戦いは敵より圧倒的に少ない数で包囲するといったものになりました。 これではカエサルの兵は百メートルに1人しか配置できない計算になります。 そして補給を断つ目的はいっこうにはたされません。 ポンペイウス側は海からひっきりなしに船が補給に入ります。 食料がなくなったのは逆にカエサルのほうでした。
 こんな感じで進んでいき、ついには直接戦闘が始まります。 カエサル側は何とか奮闘しますが、仲間の裏切りによる情報漏れによってついには撤退に追い込まれました。
 ドゥラキウム攻防戦はカエサルの敗北で幕を閉じます。 負けた直接的な原因は裏切りによるものですが、もともと戦略的にも非常によくなものであったことは間違いありません。後にナポレオンが言っています。 数で優勢な敵を包囲するなど、戦略として誤りだと。しかしこれで終わらない所にカエサルのすごさがあります。 カエサルはポンペイウスと違ってガリアの地でも撤退に追い込まれたことがあります。 カエサルは失敗はするのです。 しかしそれが致命的なものにならないところが彼のすごいところです。 
 以前すえさんがカエサルは史上「最高」の戦術家と言っておられましたが、私としては「最高」が「有数」となると賛成なのですが、最高となると肯けません。 このようにカエサルは戦術的ミスを侵します。 この点でハンニバルやアレクサンダーといった人たちには劣るのではないかと思うからです。 しかしだからといってこれらの人にカエサルが勝てないといっているわけではありません。 これらの人たちを戦えば、一戦場では遅れをとることもあるでしょう。 しかし最終的に勝っているのはカエサルだと思います。 それはカエサルの本質は戦術家ではなく政治家だと思うからです。 カエサルは戦場で負けてもそれは致命的なものにはしないだろうし、戦術的勝利はすぐにそれを政治レベルに活かし、戦いそのものを有利に進めていくことでしょう。 だからハンニバルにとって戦術は芸術であったけど、カエサルにとって戦術は政治の延長にすぎないものであったと思います。
 ここで一つのエピソードを紹介します。 このドゥラキウム攻防戦でカエサル側の兵士が何人か捕虜になりました。 そこでラビエヌスはポンペイウスに捕虜の処分は自分に任せてくれと願います。 ポンペイウスは許可します。 ラビエヌスがカエサルの部下を口説いて味方にしてくれると思ったのでしょう。 しかしラビエヌスはその捕虜達に向かい、「 今日の戦いがカエサルの兵士たちの戦い方か 」と言い、全員を殺しました。 これを見てポンペイウスはさぞかし唖然としたことでしょう。 このラビエヌスの行動を私の崇拝する作家さんはこのように言っています。 カエサルの兵士を殺すことで自らの行動を追いつめたのではないかと。 つまりカエサルに対して、後戻り出来なくしようとしたということです。 私の意見としてはこれと少し異なります。 確かにそんな気持ちもあったと思いますが、実際には言葉どうりだったんじゃないかと思います。 自分がカエサルを助けることが出来ないのに、そのカエサルの兵士たちの不甲斐ない戦いに腹がたったのではないでしょうか。 お前らがそんなことでどうする、といった感じだと私は思います。 ラビエヌスの言葉は残ってませんから想像するしかありませんけど、この方が彼らしいと思いますし、何より男って感じでかっこいいと思いませんか。 みなさんの考えはどうでしょうかね。
 さて撤退に追い込まれたカエサルですが、この後はポンペイウスを会戦に誘い出すことを考えます。 カエサルは分けた自分の部隊と合流する事は出来ましたが、ポンペイウスも別働隊と合流しました。 その数を比較してみると、カエサル軍歩兵2万2千、騎兵1千。 ポンペイウス軍歩兵4万7千、騎兵7千であったようです。 数字を見るまでもなくカエサルは圧倒的に不利です。 ハンニバルやスキピオは敵対勢力に対して、歩兵力では劣っていましたが、それでも騎兵力では上回り、それを活かすことで勝利を得てきましたが、カエサルは歩兵力、騎兵力ともに劣っていますから、過去の2人の事例に倣うことはできません。 カエサルはまだ誰もしたことのない戦法を考えなければいけませんでした。 ポンペイウス側は安全なドゥラキウムをでてカエサルを追撃します。 これによって両軍はファルサルス平原で向かい合います。 このファルサルス平原は山の多いギリシアの地では珍しく大軍が自由に動ける場所です。 こうしてファルサルスの会戦が始まります。 この戦いはまさしくローマの将来を決定づける世紀の一戦で、これ以後も戦いはありますが、それはもはや戦後処理といってもよいものでした。
 さて戦う前、ポンペイウス陣営では軍議が開催されていました。 その内容はいかにしてカエサルに勝つかではなく、勝利を得た後、どうのように勝利を食い物にするかといったものだったようです。 具体的に言えば、カエサルの持つ最高神祇官の地位に誰が就くかとか、次の執政官に立候補は誰がするかとか、カエサルに味方した元老院議員の資産を奪いどう分けるかとか、こんな感じでもはや勝利は疑うものではなかったようです。
 こんな中で、ポンペイウスのみ話には加わらなかったようです。 彼の頭にはいかにカエサルに勝つかが詰まっていたでしょう。 
 このファルサルスの会戦はカエサルを勝利者と明記するが、それがどうのようになされたか、少し詳しくいきたいと思います。 さて騎兵が多いとなぜ有利なのが。 騎兵最大の長所はその機動力にあることは言うまでもないことでしょう。 そして戦いの場ではこの騎兵の機動力を活かし、まずその突進で敵を突き破り、そしてその後その背後に回り自軍と呼応して挟撃するのが基本的な騎兵の扱い方になります。 戦いの基本は敵をいかに包囲にもっていくかですから、包囲された敵がいかに弱いかはアレキサンダーが証明しています。わかりにくにのであれば自分に置き換えて考えてください。 まず一対一で喧嘩していたとしましょう。 相手はそうですね、自分より弱いものを想像してください。 戦いは有利に進みますが、突然背後から襲われたらどうでしょう。 相手は弱いのだからすぐには負けませんが、それでも前後に意識しながら戦うのですから、きつい事は容易に想像できるでしょう。 その数が何千となればその混乱は非常に大きなものに変わっていきます。 これが包囲殲滅が非常に有効な戦法である所以です。 一度混乱した軍はすぐには元に戻りません。 例えその数が相手より上回っていたとしても、実際戦っている兵士には分かりません。 周り中敵になればさぞかし心細いでしょうね。
 そんなわけで騎兵力はそのまま軍の強さに置き換えられますが、それはもちろん騎兵が騎兵としての力を発揮できた場合です。 だからカエサルはこの騎兵を封じる手に出ました。 普通陣をくむうえで、騎兵は両側に配置するのですが、ポンペイウスは左側に全騎兵を配置し、その指揮をカエサルをもっとも知るラビエヌスに一任しました。 これに対してカエサルの騎兵は1千しかいないのだから、まともにぶつけることはできない。 だからカエサルは騎兵による敵後方襲撃をとりあえず止めます。 そして敵の騎兵をつぶす手を考えました。 まず全軍の中から400人の若者を騎兵とともに行動させます。 彼らは若いから馬の後ろから降りても俊敏に行動できます。 そして騎兵を止めるのに2千の老練兵を使います。 彼らはベテランで、言うならば肝が据わっています。 騎兵の正面に当てようというのだから、この役目は彼らにしか無理でしょう。 戦いは次のように進みました。 まずカエサルの歩兵がポンペイウス軍に向かって突撃します。 両軍の距離は開いていたから、ポンペイウス軍は突撃してくるカエサル軍を見て動きませんでした。待っていれば彼らは疲れて戦うときにはまともに動けないと考えたのです。 しかしカエサル軍は誰に命じられたわけでもないのに中間で止まり、そして息を整えて再び突撃しました。 ぶつかり合うときにはカエサル軍は全軍の息が整えられていました。 こうして戦闘は始まります。 ポンペイウス軍はカエサル軍の猛攻を正面から止めます。 いかにカエサル軍が精鋭揃いとはいえ、数では3倍以上なのだから当然といえば当然ですが。
 そんな中、ポンペイウスから騎兵突撃の命令が出ます。 ラビエヌス率いる騎兵はカエサルの騎兵一千を簡単に通過しました。 これで背後に回れると考えたときに先ほどのベテラン兵のみで構成された2千がこの騎兵の前に立ちふさがりました。 さてここで少し説明がいると思いますが、馬という生き物はもともと気弱で障害物を超そうと思っても、ある程度の助走距離が必要です。 逆に言えばこの助走距離さえなくしてしまえば騎兵はまともに動くこともできません。 カエサルはここに目を付けたのでした。 7千もの騎兵であればその助走距離はそうとう必要になります。 カエサルからその度胸を求められたベテラン兵たちはその期待に完璧に応えます。 騎兵の突撃を止め、そしていったん通過されたカエサルの騎兵と若い兵士4百は足の止まったポンペイウスの騎兵の背後につき、騎兵を包囲します。 騎兵は足が速いので全てを包囲することは不可能ですが、それでもポンペイウスの騎兵を壊滅に追い込みました。 そして騎兵をうち破ったベテラン兵2千と騎兵をポンペイウス軍の左翼にぶつけました。ポンペイウス軍はもともとカエサル軍から攻撃を受けていた上、横、背後からも攻められ、左翼は壊滅していきます。 それでもポンペイウス軍の中央と右翼はまだ陣形を崩さず検討していました。 そんな所にカエサル軍の予備兵力が投入されました。 ローマ軍はもともとハスターリ、プリンチペス、トリアーリの3つに分類されていました。 それぞれの意味は若年、中堅、老練となり、各軍団はこのように作られます。 ちなみにその分け方は軍歴によってです。 戦闘時にはまず、ハスターリが攻め、それを中堅が支える。 そして前二つが崩れても老練が持ちこたえる。 カエサルはその老練のトリアーリを予備兵力として残してあったのでした。
 まずハスターリ、プリンチペスが下がり、トリアーリがポンペイウス軍に突撃します。
 疲れていた所に無傷のベテラン兵達の攻撃です。 これによって中央、右翼が押され、休み再び突撃してきたハスターリ、プリンチペスによって壊滅しました。 ポンペイウス軍はちりじりになった逃げていきました。 こうしてファルサルスの会戦はカエサルの勝利で終わりました。
 こうしてローマの政体を賭けた勝負はカエサルの勝利で幕を閉じました。 この後、ポンペイウスはエジプトへ逃げますが、そこで殺されます。 カエサルもエジプトへ行き、そこで争いに巻き込まれますが、それも戦後処理にすぎませんでした。 ここでクレオパトラとのロマンスがあるのですが、今回はあまり関係ない話ですね。 そしてその後も、シリアやアフリカと反乱勢力を一掃し、カエサルは遂にローマにて終身独裁官に就任します。 こうしてローマに帝政の基礎が築かれました。 
 この後カエサルの手でローマは変わっていきました。 有名な改革といえば暦を代えたことでしょうか。 カエサルとエジプトで知り合った天文学者や数学者がこの暦を実際に作りました。 その彼らは地球が太陽の周囲を一回りするのに365日と6時間と計算しました。これがユリウス暦です。 その後ユリウス暦はローマ世界の暦であり続けます。これが改正されるのは1582年の法王グレゴリウス13世によってで、その理由は天文学の研究によって実際には365日と5時間48分46秒と分かったからです。 これが今でも続いている暦となっているのですが、そうなるまでに1627年間もかかっているのですから、ユリウス暦が当時としては驚異的に正確であったんですね。
 そのカエサルの時が止まるのはBC44年3月15日です。 この日の元老院会議でカエサルは暗殺されました。 この暗殺にかかわったのは60人であったという説があるが、はっきりとは分かっていません。 しかし実行部隊であった14人は分かっています。
 有名なのはマルクス・ブルータスでしょうか。 このマルクス・ブルータスはカエサル生涯の愛人であったセルヴィーリアの息子です。 それが気に入らなかったのか、マルクス・ブルータスはかの戦いでポンペイウスの元で戦っています。 それが助かったのはカエサルがセルヴィーリアに頼まれていたからで、それが兵士にしっかり伝わっていたせいです。 ただカエサルが言った有名な台詞、「 ブルータス、おまえもか 」のブルータスはこのブルータスではなくカエサルの元で戦ったデキウス・ブルータスであったという意見もあります。 このデキウス・ブルータスも暗殺に加わった1人です。 確かにマルクスの方はあまり有能ではなく、カエサルがあまり気にするような人間ではないというのがその根拠です。 一方デキウス・ブルータスはカエサルの元で戦った有能な将校で、非常にカエサルに愛されていました。 カエサルの遺言が公表されたとき、第1相続人が辞退した場合、第2相続人にこのデキウス・ブルータスがしめされており、それを聞いたデキウス・ブルータスが青ざめたなんて話もあります。
そんな感じで暗殺されたカエサルですが、半狂乱の暗殺者に刺された傷は23もあり、この内の一つが致命傷であったとされています。 この時暗殺者側はそのやったことへの恐怖で行動がままならず、カエサルの遺言状が提示され、共和制に戻るチャンスを失いました。 この遺言状で後継者に指名されたのはオクタビアヌスでした。 しかしこの時オクタビアヌスはまだ十代で、誰にも知れれていませんでした。 だからまだカエサルは一線で働く気でいたんですね。 もう15年もがんばれば、オクタビアヌスは30代で、後継者としてふさわしい年齢になってますから。 しかしその時は彼には訪れず、いきなりカエサルの後継者として指名されたのでした。 これに一番ショックを受けたのはアントニウスでしょう。 彼は自分がカエサルの後継者としてふさわしいと自負していたようですから。 しかしカエサルはアントニウスを軍人としては使えても、政治家としては駄目だということを見切っていました。 これからのローマに必要なのは政治家としての能力で、これを備えていたのはオクタビアヌスで、これはローマの歴史が証明しています。しかしオクタビアヌスは軍事的才能は0で、自分でもそれは分かったいたようです。 だからカエサルは彼と同年代の軍事的才能を持つアグリッパという青年を彼につけています。ローマのこの後の歴史は2人が手をつないで進めていきます。 これにアントニウスは反乱を起こし、クレオパトラと組んで戦いをいどみますが、結局負けて、ローマの初代皇帝にオクタビアヌスがつきます。 カエサルは後継者指名でもその天才さを見せつけました。見事としかいいようがありません。 カエサルの期待に応えたオクタビアヌスも立派ですけど。

 長々とカエサルを語ってきましたが、最初に言った「カエサルのすごさを分かってもらう」が果たせたでしょうか。 これを読んでくれた人がカエサルってすごい人だなと思ってくれたら、私としては非常にうれしく思います。 そう思ってくれた方はお願いです。来年の3月15日はカエサルの冥福を祈ってください。 
 ここまで私の独り言につきあってくれた人に感謝します。 もしよければ感想なんかいただけるとうれしいです。 それではまた次の回の時に。 最後になりましたが、また掲載してくれた、てなしもさんに心から感謝します。 

2000年3月18日 Atsushi

 今回の文章は塩野七生著、「 ローマ人の物語Ⅳ ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以前 」「 ローマ人の物語Ⅴ ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以後 」を主に参考にして書きました。 興味を持たれた方はぜひ読んでください。 決して損はしませんよ。

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前回に引き続き、世界史上の英雄の生涯です。かっこいいですカエサル。
文章量はこどものくにのすべての文章コンテンツの中でも最大なほどに多かったのですが、
夢中で最後まで一気に読んでしまいました。
Atsushiさん、是非また原稿を書いて下さいませませ。
(この原稿に関する、ご意見、ご感想等は、 こどものくにの会議室 のほうへお願いしますです~)

はんにばる戦記

古い友人であるAtsushiさんから頂いた、歴史上の人物のお話です。
カルタゴの名将ハンニバルについてです。ありがと~!


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  私の歴史資料館 ( 第1回 )

始めに

 これは私が歴史上に存在した国や個人について、主に人になりますが、 それについて色々としゃべってしまおうというものです。 基本的な形としては、 この人はすごい人なんだよというものになります。
 今回はハンニバルついてです。 ですから彼について興味のない方は 読まない方が賢明でしょう。 でも、歴史の好きな方、彼に興味のある方、 もしくはもう知っていて、私の書いたことにつっこみを入れてやろうという方、 とにかく読もうと思った方、大歓迎です。 そして読んだ感想なんかを もらえればとってもうれしいです。 感想に限らず、それは違うぞという 反論、書いてある事への質問、この人について知りたい、興味がある といったもの、何でもかまいません。 気が向いたらお願いします。
 最後になりましたが、私の文を掲載させてもらえることになったてなしもさんに 心から感謝します。
                                                         1999年10月29日  Atsushi
ハンニバル。 正式な名は、ハンニバル・バルカ。 バルカとはフェニキア語で雷光を意味します。
ちなみに大学受験に使われる世界史用語集を引いてみると頻度は12。 なかなかに高い数字です。
しかし教科書を開いてみると、ハンニバルについて書かれている所はわずか7行。 抜粋してみると’カルタゴの名将ハンニバルのイタリア侵攻のため、何度も危機におちいったが’とありますが、これではハンニバルがどのくらいすごい人物であったかがわかりにくい。 しかし歴史というのは教科書に書かれていない所ほどおもしろいもの。 そうした所を私はしゃべりたいと思います。
 (なお、私が使っている用語集や教科書は1992、3年度版なので今のものとは違っているかもしれません)

 まずはハンニバルがローマ相手に戦った第二次ポエニ戦争前までの歴史を簡単ですが話してみたいと思います。

   ハンニバルは紀元前(以後BCと省略)247年、ハミルカルの長男として生まれた。 彼が生まれた当時の状況としては、ローマとカルタゴの間に位置するシチリア島を巡り、この2カ国が争っていた。 これは島の領有だけでなく、地中海の制海権を巡っての戦いでもあった。 後に世界帝国へなっていくローマもこの時はまだやっとイタリアを統一したばかり。 しかもローマはカルタゴと争うまで海に出たことがなかった。 一方カルタゴはアテネが衰退した今、地中海第一の海運国。 しかも地中海世界最強最大の軍船団を持っていた。 しかしローマは当時の人の予想を裏切って戦争を有利に進めていく。 理由としては色々あるが一番大きな理由はローマが海戦の不利を補った点にあると私は思う。 今回はローマの話ではないので詳しくは語らないが機会があればいつか話したいと思う。 とにかくローマは戦いを有利に進めた。 しかし状況は変化する。 BC247年、つまりハンニバルが生まれた年に彼の父親ハミルカルがシチリア戦線を担当することになったからである。 戦術史上最高の戦術家と言われるハンニバルの父親である。 彼はゲリラ戦により陸、海両方のローマ軍を苦しめた。
 しかしそのハミルカルを支援しなければいけないカルタゴ政府は2つに分かれていた。 カルタゴは通商で有名なフェニキア民族の伝承を継続して、優れた通商民族である。 しかしアフリカに根をおろしていた彼らは後のベェネツィアと違い、通商だけに頼らなくとも農業経営という手段があった。 今現在の北アフリカ一帯とは違い、古代のアフリカは雨にも緑にも恵まれていた。 しかもカルタゴ人の農業生産能力は高かった。つまりカルタゴ政府は通商と農業生産といわば2枚のエースのカードを持っていたのである。 しかしこのために皮肉にも国論は常に2つに割れた。 農業を支持する国内重視派のリーダーはハンノン一門、逆にバルカ一門は通商を支持する対外進出派のリーダーであった。 対外進出派は制海権の維持に敏感である。 国内が2つに割れたこの状態で、ローマ有利のこの状態をひっくり返すの無理と判断したハミルカルは、どうにか戦争前の状態に持っていこうとした。 しかし、カルタゴの派遣した援軍はローマ海軍に海戦によって破れ、これによりカルタゴ政府はローマとの講和に踏み切った。 この時講和をまとめる役目を負わされたのはハミルカルである。 これによってカルタゴは400年の間築き上げてきた、シチリアでの権益を全て失った。 これは地中海の東半分を失ったことを意味する。 これが教科書にも登場する23年も続いた第一次ポエニ戦争である。 この戦争後、ハミルカルは国内重視派の勢力が強い本国を去り、スペインに向かった。 この時ハミルカルは神殿にハンニバルを連れていき、生涯ローマを敵にすることを誓わせた後、スペインへの同行を許した。 この時ハンニバルは9歳である。
 この後ハンニバルは、スペインで成長していく。 そして父が死に、彼の姉の婿であったハシュドゥルバルが殺されると、ハンニバルがスペインの総督になった。 この時はBC221年。 ハンニバルはまだ26歳であった。 実権を握った彼はさっそくローマの同盟都市を攻撃する。 これにローマは当然のごとくカルタゴ政府に抗議を申し入れた。 しかしカルタゴ政府はこの抗議を一笑にふす。 逆に攻撃はそちらからされたと言ったようである。 ローマは見え透いた嘘を嫌い、カルタゴ政府に、戦争か攻撃を引くかの二者択一を迫る。 しかし使者がローマにつく前にこの都市は陥落した。 この事実によりローマはついに宣戦布告をする。 これこそがハンニバルの望むところであった。 これによってローマ人がハンニバル戦争と呼ぶ、第二次ポエニ戦争が始まった。 BC219年の事である。 

   さて歴史はひとまずおいておいて、ハンニバルという人はどんな人だったんだろうか考えてみたいと思います。
 様々な資料から、冷静で自己規制の出来た人だとか、頑固であったとか、女色に溺れなかったとか、鍛え上げられた肉体の持ち主であったとか、逆に残虐な人であったとか、色々と読みとれるようです。 しかし彼の外見についてはまったく現在に伝わってないらしい。 彼が大きかったのか、それとも小さかったのか。 色男であったのか、それとも外見は良くなかったのか。 こういった事が分からないのです。 最近までハンニバルと思われてきた像も、今では反対意見のが優勢らしい。 しかしはっきりしている事があります。 それは紛れもない戦争の天才であったことです。 過去でも現在でも古代世界で5本の指に入る名将と、その評価は非常に高い。 後に説明することになると思いますが、戦史研究上欠かすことが許されないとされている、ハンニバルがローマ軍を壊滅に追い込んだカンネ(もしくはカンエナ)の会戦などは、日本ではどうか知りませんが、ヨーロッパの士官学校では必ず学習するほど有名な会戦です。 
 それでは少し話を変えますが、戦争の天才とはどういった人たちを指すのでしょうか。
 戦史上、天才と言われる人たちは少なからず存在します。 例を挙げるなら、アレキサンドロス(英語読みではアレキサンダー)大王、フランス皇帝ナポレオン、モンゴル帝国のチンギスハーン、日本でなら織田信長、古いところで源義経などではないでしょうか。 ちなみに例に諸葛孔明の名がないことに変と思われる人がいるかもしれませんが、事実を言えば彼は部将ではなく一地方政権の宰相にすぎない人で、実際に兵を指揮したことは私の記憶が正しければ一度もない人です。 それが日本でこれ程有名になったのは三国志演義という正史ではない、いわばファンタジー小説のような本のおかげです。 話がそれたので元に戻します。 
 有名な人は例に挙げた人たちの他にも多々存在しますが、彼らに存在する共通点としては、もちろん戦争に強かったと言う事が一番でしょう。
 戦争とはプロシアの軍人、カール・フォン・クラウゼヴィッツが箸した戦争論によれば、政治の延長上にあるもので、戦争自体が目的ではないとされています。 そして戦争の原型は敵国の防衛力を無力たらしめるのが絶対戦争で、その原型に応じる形が決戦であるとされています。 そして戦争には二つの要素があります。 それが戦略と戦術です。 簡単に概略すれば戦略とは戦場以外の場所で戦いを有利に進めるために練る方策のことで、敵国の人的資源、工業資源、経済力、国際関係、自然環境にまで考えを及ばさねばなりません。 逆に戦術とは戦場で戦いを有利に進めるための方策のことです。 戦争においてどちらがより大きいウエイトが占められるかは、もちろん戦略の方です。 例えば日本が生んだ天才、奇才と言ってもいいと思いますが、織田信長。 彼は生涯のほとんどの戦いを、戦う前に勝敗を決しています。 その方法は、敵よりも遙かに多くの鉄砲を揃え、敵に数倍する大軍を召集し、それを、自分が望む戦場で、敵に叩きつけるといったものです。 いずれも戦勝のため必要条件ですが、それを確実に実行するために条件を整える作業が戦略と呼ばれるものです。 つまり戦略がしっかりしていれば戦いに勝ったようなものですが、一概にそうと言えないところに戦争の奥深さがあります。  そしてそうしたところに戦争の天才と呼ばれる所以があるのです。 卓越した戦略を駆使して、敵より多くの兵力を揃え、自分が望む戦場で戦闘に突入したのにもかかわらず、敗北した例は戦史上でいくつか存在します。 そしてそうなった多くの場合は、勝利者側にまわった者がそれまでの常識とされていた戦術を無視して、全く新しい方法を持って戦闘を行った場合が多いのです。
 意外に思われるかもしれませんが、戦争の技術とは、この世の中でもっとも保守的なものだと言われています。 少し考えてみれば分かると思いますが、一度確立した戦術は確立した以上、高い確率で勝利を得てきたことになります。 そうなればその戦術は天才的な戦術家が現れて、実際にその戦術を破ってみせるまで絶対のものとして君臨します。 それはそうです。 わざわざ有効と思われるものを使わず負けていたのでは話になりません。 ましてや賭けるものは人間の命に国の命運なのですから。 
 ではどんな周期で戦術は変わってきたのでしょうか。
 戦術の変化は人口の変化、工業技術の変化にも密接に関係していますが、基本的にはやはり人間であり、天才と呼ばれる人たちによって替えられます。 天才とは同じものを見て、凡人には気づかなかったものに気づく人たちのことです。  ですから変化する周期は非常に遅いものです。 戦争の才能は人間の持つ才能の中でもっとも稀有で、もっとも発揮されにくいものです。 戦争の天才とは、一時代に一人いればいい方で、全く現れないことのが普通なのです。 考えてみてください。 例え才能を持っていたとしても、常に世の中で戦争が起きている訳じゃありません。 例え起きていたとしてもその人が指揮する立場にいるとは限らない。 しかもやっかいなことに戦争の技術とは習得に非常にやっかいな技術なのです。 歴史上、特に近代以降は多くの国家が軍学校を設立して優秀な将校の育成に努めましたが、軍事技術とは本質的に教育で身に付くものではありません。 むしろ才能が全てといってもいいかもしれません。 ですからもしかしたらこれを読んでるあなたが、世が世なら英雄と呼ばれる人になっていたかもしれませんね。 私自身の場合はそんな才能は持っていないと思いますけど。
 この国にはこんな有名な話がありますね。 チンギス・ハーンと源義経は同一人物であると。 話としてはなかなかおもしろいものですし、確かに同時代に騎兵の天才がほぼ同じに現れることも希であるため信じたくなりますが、これは明らかにファンタジーの域はでませんね。  チンギス・ハーンは生まれた年ははっきりとしてないのですが、彼の父親も母親もはっきりしてますし、それに二人とも騎兵の天才ですがその種類が違うんですね。 チンギス・ハーンが行ったのは騎兵の集団戦法で日本のような国土では生まれるものではないし、仮にあったとしても役には立たないものです。 義経が行ったのは戦場までの騎兵による高速移動で、戦場では昔ながらの、やあやあ我こそは・・・なんてやってたんですね。 それでも騎馬の移動は堂々とゆっくりするものだ、なんて時代に馬を早足で駆けさせた義経は時代の破壊者であり、紛れもない天才ですね。 
 長々と語ってしまいましたが、ではハンニバルはどんな戦いを行ったか話したいと思います。
彼の戦いのやり方は彼自身が語っているように、基本的にアレクサンドロス大王の戦術を参考にしたようです。 ちなみにアレクサンドロス大王の戦術とは騎兵の運用のやり方にあるようです。 戦争の主役はあくまで歩兵、それも重装歩兵です。 それはアレクサンドロス大王の時代でも変わらないし、ハンニバルの時代でも変わりません。 しかし、アレクサンドロス大王はあくまで伝令や追撃に使われていた騎兵を、騎兵の持つ機動力に目を付け、その機動力を駆使して軍を有機的に結合させた。 それまでは歩兵は歩兵、騎兵は騎兵同士戦っていた。 これでは結局勝負を決めるのは数になってしまう。 そこでアレクサンドロス大王は騎兵の運用を従来のやり方から変えたのです。 騎兵に歩兵をぶつけたり、またその逆も。
つまりハンニバルが学んだのはこの騎兵の有機的活用にあったのです。 しかし優れた弟子は師匠のやり方に必ず何かを付け加えていく。 アレクサンドロス大王はだまし討ちはしなかったが、ハンニバルはやりました。 つまり戦争に勝つには何でもやるという姿勢があったのです。
 先ほど戦争には戦略と戦術の二つの要素があることをいいましたが、ハンニバルはどうであったかを話したいと思います。 戦術家としての彼はほぼ満点だと私は思います。 彼がアルプスを越え、ローマに来てから小さな戦闘を含めて、彼自身が指揮を行ったときは一度もローマに負けていないのです。
ちなみに彼がローマに来てから退去するまでの期間は彼が29歳から44歳までの間、つまり15年間あります。 敵国で補給もろくにない状態で、これだけでも彼のすごさは伝わってきます。 特に両軍がぶつかり合う会戦においてはローマは徹底的にやられます。 ローマはハンニバルに勝てる人材がいないことを自ら認め、ハンニバルに対して会戦を挑まない持久戦にでました。 ハンニバルに会戦で勝つのは後の天才スピキオを待たなくてはいけません。 ローマ人がハンニバル戦争と呼ぶ第2次ポエニ戦争においてローマの受けた被害は執政官クラス10名以上、10万人以上の戦死者になり、このほとんどがハンニバルの軍隊に受けたものです。 ちなみに執政官クラスとはローマの戦略単位である2個軍団15000を率いる資格がある者です。 ローマは最高権力者自ら戦場にでていく義務があるため死者が多いのは当たり前だが、それにしても10名以上はすごい。 ローマは市民集会において選挙で執政官を選ぶ。 現在のどこかの国と違い、ほぼ優秀な人物が選ばれます。 それがここまで戦死するとはローマの被害は相当なものだと言えると思います。 戦死者の方も相当すごいですね。
 先ほど挙げたヨーロッパの士官学校で必ず学習するカンネの会戦などは古代人の記録が正しければ7万ものローマ兵が戦死したのです。 これは戦術の芸術とも言えるもので、簡単に話せば中央でローマの誇る歩兵の突撃をくい止めている間に、両翼に配置された騎兵がローマ騎兵を壊滅させ、その後中央でローマ歩兵を止めていた兵が左右に分かれ後ろに配置されていたハンニバル軍の歩兵がローマ軍を攻撃。 左右に分かれた歩兵もそれがれがローマ軍の左右に攻撃を仕掛ける。 そして最後にローマ騎兵を壊走させた騎兵がローマ軍の後ろに攻撃を仕掛ける。
これでまるで絵に描いたようにローマ軍はハンニバル軍に囲まれたのです。 ここからは戦闘ではなく虐殺であったようです。 8万人以上繰り出し、生き残ったのは捕虜になった1万人と逃げ出した5千人あまり。ハンニバル軍の被害は6千人くらいだったそうだから、野球で言えばまさしく完全試合で、戦史上でもこれ程一方的な戦闘は類をみない。 ハンニバルはもともと包囲殲滅戦が得意なのだが、これ程みごとに決まったのはこれが最後だったようです。 ローマにとってもこれ程の敗北は、これが最初で最後になります。
では何故これ程まで一方的に、ローマが負けたのか。 それはもちろん戦場においてハンニバルの戦術の見事さもありますが、軍隊の構成にも問題があるのです。 ローマ軍はハンニバル軍よりも騎兵の量が少なく,その兵士の全体数からの比率もずっと少ないのです。 このカンネの会戦の両軍の構成はローマ軍歩兵8万、騎兵7千2百、ハンニバル軍は歩兵4万、騎兵1万というふうになっています。 数だけ見ればローマの優勢は明らかですが騎兵の数に差があります。 しかもハンニバル軍の騎兵は当時地中海最強といわれたアフリカのヌミディア騎兵。 それにガリア騎兵も参加していました。 ローマの人たちも騎兵には当然注目していました。 ハンニバルが何度も身をもって教えてくれたのですから。 しかしすぐには補強できませんでした。 なぜなら騎馬技術とは修得にとても時間がかかります。 そうではないと思われる人もいるかもしれませんが、ちゃんと理由があります。 当時はまだ鐙がなかったのです。 鐙とは馬に乗っているときに足を乗せる輪のようなものです。 これによって人は馬の上でも踏ん張って剣を振ったり出来るのです。 鐙がなかった当時、馬を乗るのに足で馬の腹を挟んで乗っていたので、とても修得に困難なのは分かってもらえると思います。 ですから子供の頃から練習でもしてなければとても馬になんか乗れなく、ローマでは貴族の子弟のみが可能な技術でした。 しかも当時地中海で馬の産地といえば、ガリアとアフリカ。 つまりハンニバルによって二つとも押さえられていたのですね。 ローマが騎兵を増やせないのはこうした理由があったのです。 ちなみに鐙が開発されたのは中世に入ってから。 鐙の開発が、華やかな中世騎士物語を作ったと言えるでしょう。
 それにしてもハンニバルの戦争の強さは信じられないもので、当時でもその後でもローマ人はハンニバルのことを悪魔のごとく呪っていました。 しかし文章を残したローマの知識人達は、ハンニバルの事を嫌ってはいても、彼の能力を認めない者はいませんでした。 ここはローマ人らしいのですが、ハンニバルはそれほどローマ人の心に残る存在だったのでしょう。 
 一度ハンニバルはローマの首都の城壁に迫ったことがあります。もちろんこれはデモンストレーションで、ハンニバルはすぐにローマを落とせるとは思ってませんでした。 しかし、これによって会戦に乗ってこないローマ軍を、誘い出そうとしたのです。 結果はうまくいきませんでしたが。 しかしこれ以後、ローマでは子供がダダこねたときに、いい子にしてないと戸口にハンニバルが来ますよと脅したそうです。 日本で言う鬼みたいですね。 とにかく戦術においてハンニバルは天才の名に恥じないものでした。
 では戦略ではどうだのでしょうか。 結果から言えばいいとは言えません。 何せハンニバルはローマを落とせなかったのですから。 しかし凡庸ではありません。 ハンニバルは常からローマに勝つにはローマで戦うしかないと思っていたそうです。 第一次ポエニ戦争はシチリア島が舞台でしたから、ローマの土地そのものは少しも戦火を浴びていません。 しかしローマに直接攻め込むには当時の状況から考えてとても難しいのです。 ハンニバルがいるスペインからローマを目指すにはそのまま行ったのではローマの同盟都市をいくつも攻略しなければいけない。 それでは第一次ポエニ戦争と同じ結果になってしまう。 では海はどうか。 当時の制海権は完全にローマが握っていた。 残るは北からしかない。 ローマは北のガリアをまだ制圧は出来ていなかったのです。 このためにハンニバルはアルプス越えという前代未聞の行動にでました。 そしてこれによってハンニバルはついにローマを攻める所までこれたのです。 しかしローマで戦うだけではローマに勝つことは出来ません。 ローマに勝つには、ローマとその同盟都市を分裂させる必要があります。当時のローマとその同盟都市が動員できる最大兵力は、70万近くであったそうです。 もちろん各人生活がありますから、全員が参加は無理ですけど、それでも5万そこそこのハンニバルにとっては、十分驚異的な数です。 だからハンニバルは戦場でとらえた捕虜で、ローマ市民は殺すか奴隷にするかしましたが、同盟都市の兵士は無傷で帰しました。 こうしてハンニバルは自分の敵はローマだけとアピールしていきました。 その結果、一つ二つの同盟都市はハンニバルに従うようになりましたが、ハンニバルの期待する雪崩現象は起きませんでした。 ローマとその同盟都市の関係は非常に強固で、ハンニバルの目算は甘かったのです。 つまり戦略に穴があったといえるでしょう。 当時のローマは後の歴史家が語る、理想といえる国家体制の一つを築いていました。 これが同盟都市を分裂の追い込まなかった一番の原因でしょう。 どんなものか詳しく書くと長くなりますから、ここは割愛させてもらいます。 
 ハンニバルは次々と勝利を収め、それを戦略に連動させていきましたが、最終的にはうまくいきませんでした。 結局、天才スピキオがカルタゴの本拠地アフリカを攻め、この敗戦でカルタゴは条約を結びハンニバルを呼び寄せざるをえなくなり、帰還命令を出しました。 これでハンニバルは15年間戦い続けたローマを去ります。 そして歴史上でも滅多に存在しない、優れた名将同士の直接対決であるアフリカのザマの会戦で、ハンニバルはスピキオに負けます。 ハンニバルがアレクサンドロス大王の弟子であるなら、スピキオはハンニバルの弟子でした。 スピキオがザマの会戦で使った戦術は、ハンニバルが生み出したものと言っていいモノでした。 しかもハンニバルは、この戦いで負けはしましたが、それは騎兵力の不足といった問題があったのです。 この時、ヌミディア騎兵は、スピキオの味方をしていたのです。 ハンニバルにはこの騎兵の不足した状態で勝のは困難だと分かっていたのでしょう。 その証拠にハンニバルはスピキオに戦う前に、講和の申し込みを入れ、断られているのです。 それでもハンニバルは戦う以上最大限の布陣をくみました。 それは名将の名に恥じないもので、自分の精鋭部隊を最後尾に配置しました。 つまり傭兵によって戦い仕掛け、ローマ軍が弱ったところを自分の精鋭部隊でとどめを刺そうとしたのです。 この考えはまだこの時代に存在していない予備兵力という考え方で、戦術に関してはやはり天才でした。 結局ザマで負けたことで第二次ポエニ戦争は、カルタゴの敗戦という形で終了します。   
 ハンニバルの敗因はどういったところにあったのでしょうか。 カルタゴという強大な国家にハンニバルという稀代の名将を要して勝てなかった。 ローマがすごいと言えばその通りだが、やはりカルタゴ側は挙国一致体制がとれなかったところが大きいように私は思います。 ローマは苦しくても最後まで国が一つになって戦いました。 一方カルタゴは常に国論が割れ、ハンニバルへの援護も徹底を欠きました。 ハンニバルへの補給で成功したのは、2回ほどであったようです。 ハンニバルはハンニバルで、勝手に戦っていたと思います。 やはりローマに勝つには、ハンニバルはまず政府の実権を握るべきだったと私は思いますね。 その上でローマに戦いを挑めば、違う歴史が存在したかもしれません。 
 ではハンニバルは、歴史に何ももたらさなかったのでしょうか。
 それはないと私は思います。 ローマはハンニバルと戦うことで戦争のやり方を覚えました。 そして戦い続けたことで兵士は戦いになれ、ひどく強い軍隊を形成できるようになったのです。 それがローマを地中海の覇者にしました。 そしてローマはこの後、ハンニバル戦争による危機感管理体制として、もともと助言機関でしかなかった元老院が実権を持ち、うまくいったため、後の改革はひどく保守的なモノとなり、ローマの迷走を生み出しました。 そしてそれを直すため、歴史家が嫌う、帝政ローマに移行していく。 つまりハンニバルがもたらした、ローマの歴史への影響力は、とても大きいと私は思います。
 ハンニバルは第二次ポエニ戦争後、カルタゴ政府の建て直しを計ります。 しかし、ハンニバルの政策は正しいのですが、強引なやり方を嫌う反ハンニバル派はローマにハンニバルはシリアと内通しているとして訴えました。 結果、ハンニバルは祖国を脱出し、シリアに亡命します。 この時51歳。 その後ハンニバルは亡命を繰り返し、最終的にはローマに捕まりそうになって毒をあおり、自殺しました。 稀代の戦術家は、64歳でその生涯を閉じました。 生涯ローマにとって敵対姿勢をとり、そしてそれを崩すことはなかった。 父親との誓いを最後まで守ったと私は思いますね。


 ハンニバル。 私的なエピソードはほとんど残さなかったが、2つのエピソードを紹介したいと思います。
ハンニバルとスピキオは会談をしたことがある。 この時スピキオは質問を投げかけた。
「 あなたは我々の時代でもっとも優れた部将は誰だとお考えですか? 」
ハンニバルは即座に答えた。
「 マケドニア王のアレクサンドロス。 小規模の軍勢しか率いられない身で、大軍を動員したペルシア軍を破っただけでなく、人間の考え得る境界を遙かに越えた地方まで征服した業績は、偉大としか評しようがない 」
スピキオは再びたずねる。
「 ならば、二番目に優れた部将は? 」
ハンニバルは迷わずに答える。
「 エピロスの王ピュロス。 まず戦術家として一流だ 」
ちなみにピュロスは優れた戦術家ですが、ローマに負けています。
スピキオはさらにたずねる。
「 それならば三番目に優れた部将は誰だとお考えですか? 」
ハンニバルは即答する。
「 問題なくこの私自身 」
スキピオはこれには思わず微笑する。
「 もしあなたが私にザマで勝っていたとしたら? 」
ハンニバルは当然というように答えた。
「 それならば私の順位はアレクサンドロス大王を越えて、一番目にくる 」
アレクサンドロス大王を越えるかどうかは別として、確かに戦術家としてはスキピオよりもハンニバルの方が上だと私も思う。 スキピオが使った戦術はハンニバルが生み出したものだからです。 もっともスキピオの才能があって初めて使えるのですが。 しかし、戦略家、政治家としてはスピキオの方が明らかに上でしょう。 これは歴史が証明しています。

 もう一つのエピソードを紹介します。 これはリヴィウスの著作の中の一カ所です。


 暑さも寒さも、彼は無言で耐えた。 兵士と変わらない内容の食事も、時間が来たからというのではなく、空腹を覚えればとった。 眠りも同様だった。彼が一人で処理しなければならない問題は絶えることはなかったので、休息をとるよりもそれを片づける事が、常に優先した。 その彼には夜や昼の区別さえもなかった。眠りも休息も、柔らかい寝床と静寂を意味しなかった。 兵士達にとっては、樹木が影をつくる地面に直に、兵士用のマントに身をくるんだだけで眠るハンニバルは見慣れた光景になっていた。 兵士達は、そばを通るときは、武器の音だけはしないように注意した。
 これだけでも少しはハンニバルの人間性に迫れると思う。 ハンニバルの軍隊はもともと傭兵がほとんどの、各民族の混成軍隊であった。 それなのにハンニバルを見限った兵士はほとんどいなかったという。

 ハンニバル。 一般的にはただ戦争の上手かった、ローマの敵というイメージがある。 もちろんそれは事実ですが、そのほかにも色々とある人だと私は思います。 何より私は彼を孤高でかっこいい男だと思います。 この私の駄文につきあってくれた人が、ほんの少しでも彼の魅力を感じてくれたなら、私はとてもうれしく思います。 

   最後に、ここまで読んでくれた方に心から感謝します。 そして次の機会があれば、またよろしくお願いします。

                                                            1999年11月14日     Atsushi

( なお、この文章は、塩野七生著 ローマ人の物語2 ハンニバル戦記を主に参考にして書いてあります。とても良い本ですから、興味を持った方は是非読んでみてください。)

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世界史上の英雄の生涯、憧れますね。

中学や高校で習う世界史の授業が、いかに面白い部分をすっ飛ばして行われているか、よく分かります(笑)

こういう面白いお話をしていただけると、勉強になるし、何より楽しいです。

Atsushiさん、ありがとうございます。よかったら「第二回」もよろしくお願いしま~す♪

(この原稿に関する、ご意見、ご感想等は、こどものくにの会議室のほうへお願いしますです~)

アキレス腱固め

格闘技に大変造詣の深いコカールさんに頂いた、ロシアの国技のお話です。
おねだりして書いていただきました。感謝!

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1サンボとは
 「サンボ」という単語を聞いていかなるモノであるかすぐに連想できる人は少ないでしょう。サンボ(SAMBO)とは「武器なき自己防衛」という意味のロシア語を略したものであり、そこからわかるように格闘技なのです。
 サンボの誕生は旧ソ連時代であり、多民族国家であるソ連が民族統合をはかるために、国内に数多く存在する民族格闘技の利点を統合し誕生したものなのです。
 そしていかなる格闘技であるかというと「柔道とレスリングを合体させたようなもの」と自分はいつも説明しています。簡単に説明するならば、柔道のような投げ技を使い相手を倒し、押さえ込んだり、関節技を仕掛けたりします。レスリングという単語をいれた理由は寝技が行われる時間が柔道よりも長く、すぐに「立て」といわれない点があるからです。
 もし初めてサンボをご覧になる機会があったとします、そのときはきっと「柔道と何処が違うの」という感想をもたれることでしょう。正直いいまして柔道に酷似しています。柔道が強ければサンボも強いでしょうが、ここではサンボ独自の魅力を少しでも紹介していくつもりです。
※ サンボの歴史に興味をもたれた方は、ベースボールマガジン社から出版されている、「増補版・これがサンボだ!」を入手が楽なことをかんがえてお勧めします。


2ルール説明
 サンボのルールを説明しますが、柔道のルールを思い描いていただければだいたい間違いはないと思います。

① 階級について
 格闘技ゆえに体重別に試合が行われます。年齢でも20歳以下のエスポワールクラスと20歳以上のシニアクラスにわかれています。

② 試合時間およびマット
 エスポワールは5分、シニアは6分となっています。
 試合場となるマットの規定を簡単に説明すると、直径9mの円の内側の全円周に幅1mの帯びを縁取りしたものの上で試合を行います。

③ サンボ競技の服装
 上半身は薄い柔道着のようなものを着ます。サンボ着は赤と青の2色あり、自分が試合をするときのコーナーの色に合わせたものを着用します。下半身も赤か青のスパッツとされています。足はサンボシューズかレスリングシューズを着用しなければいけません、素足は不可とされています。

 ※サンボシューズとは
 靴というより足袋に近いものです、くるぶしの少し上まで布があり、ひも靴のような形をしています。初めて見たときには「コレの何処がシューズなんだ」と思わず叫びたくなるようなものでした。

④試合の勝負判定
 ≪一本勝ち≫
●自分の態勢を崩さずに相手をきれいになげたときなのですが、投げたほうが両足で立った状態でなくてはなりません。ヒザなどがついていた場合は一本にはなりません。
● 相手の足、腕の関節を取ったとき。
 以上の場合一本となり試合は終了します。また、試合中において、両者のポイントに12ポイントの差がでたとき(テクニカル一本勝ち)、その試合は一本と同じ扱いとなり終了します。

 ≪4ポイント≫
● 相手をきれいに投げたが、自分の態勢が崩れているとき。(投げたときマットに手やヒザをついたりすること。例えるなら、巴投げや横捨て身等)
●投げ技から押さえ込みに入り、20秒間押さえ込むとき。
 押さえ込みの場合、柔道と違い押さえ込んでくる相手の体に足をからめていても、胸と胸 を密着させると押さえ込みとなります。

 ≪2ポイント≫
●態勢を崩さずに投げ、相手が尻もちをついたり、胸・腹からおちる。 
●押さえ込み10秒。 

 ≪1ポイント≫
●投げた人の態勢が崩れ、相手が尻、胸・腹から落ちるとき。
 試合時間内に一本勝ちがない場合はポイントが高い方が判定勝となります。同点の場合は点の高いポイントを数多く獲得したものが勝ちとなり、それも同じ時は最後にポイントを獲得した方が勝ちとなります。


3行事
 日本サンボ連盟なるものが存在しており、大会は定期的に開催されております。参加者も毎年増えていますが、地味な競技ゆえに観客はほとんどなく、会場には選手・関係者ぐらいしかいません。日本での大会はほとんど東京で行われています。

≪全日本選手権≫
 毎年6月の後半ぐらいに開催されています。この大会での優勝者が世界選手権のキップを手に入れます。

≪関東選抜選手権大会≫
 毎年11月ぐらいに開催されます。関東居住者に限られています。

≪全日本学生選手権大会≫
 毎年これも11月に開催されますが、上記2大会と比べるとかなりレベルが低い大会です。

≪フレッシュマンズ・カップ≫
 毎年3月に開催されています。文字どうり新人のための大会ですが、「サンボ」の初心者の大会なのでなかには柔道5段の人など、とんでもない人が参加するときもあります。

≪世界選手権大会≫
 96年は日本で開催されていました。

≪アジア選手権大会≫
 なぜかロシアが参加しています(いわゆる極東地域に在住の選手のみの参加らしいですが)。

≪トライアルマッチ≫
 道場どうしの交流戦のようなもので、トーナメントではなく相手を決めて一人2、3試合行います。

≪初心者講習会≫
 年に2,3回開かれています、初心者にサンボのルール・技を説明し、より多くの人達にサンボを紹介するために行われています。無料でおこなわれています。東京で行われていますが新潟などから来てくれる方もいました。

  ※大会などが行われるときの会場設定、後片付けなどは大会の参加者でおこなわれます、このときは初心者だろうがチャンピオンだろうが関係なしに全員でなされています。この情景を初めて見たときは、とても新鮮なかんじがしました、みんなで大会を成功させていこう、マイナーな競技ではあるがこれから広めていこう、という意気込みの現れではないでしょうか。


4サンボ技とは

 ≪立ち技≫
 柔道と比べると立ち技においては、組み手の幅が広いといわれています。帯より上は何処を掴んでも、何秒掴んでも反則にはならないのです。次に関節技において足関節が認められていますので直接、足関節に入る態勢にもっていける投げ技が開発されている部分も独自のものかと思われます。他に帯をつかんでの攻撃もサンボ特有の投げ技につながっていきます。
 ロシア人などは日本人と比べると同じ階級でもパワーの違いがけた違いだそうで、それゆえ豪快な投げ技(グレコロマ―ンのような投げ技)を使ったりしてくるようです。日本人が投げ技の体制に入っても、そのケタ違いのパワーで返されたりするそうです。

 ≪寝技≫
 サンボでは絞め技は反則です、それゆえ亀の態勢は有効な防御方法のひとつされています。したがって練習においてはいかに亀の態勢から、関節技や押さえ込みにはいるかが主なメニューのひとつとなっており、亀の態勢から関節技へ移行するセオリーはかなり習いました。あと寝技において絞め技の危険がないことから、不利な態勢になると、すぐにうつ伏せになります、ゆえに攻めるときは如何にうまく相手の上に乗るかが非常に重要なことなのではないでしょうか。


5関節技体験記
 サンボをはじめる人の大部分は関節技に興味がある人でしょう、もちろん私もそうです、それゆえこの章においては少し熱を入れて書きます。
 正直にいうならば、関節技を文章で表現することは不可能に近いと思われます、それゆえ多少知識のある人を対象としていくつもりですが、全く知らない人にも読んでもらいたいので、「痛み」を中心テーマにしてきます、どんなかんじでどれほどの痛みがあるのかを表現していきます。ちなみにサンボでは、絞め技・ヒールホールド・足首を捻る技は反則となっています。

 《アキレス腱固め》
① どんな技か
 一般的な説明をすると、手首の硬い骨の部分で相手のアキレス腱を圧迫する技であり、その際、圧迫させることに夢中になり相手の体に自分の足をからませて動きを封じ込めることを忘れてしまいがちになりますが、コレをしないと相手が暴れると簡単にポイントがずれてしまい不充分なものとなってしまいます。
 ある本によれば、サンボで足関節が存在する理由のひとつに広大なシベリアの大地においては歩けないということは死を意味すものであるからだとされています。
② どんな痛みか
 痛みには2種類あります。ひとつはアキレス腱よりやや上の部分を圧迫するものであり、筋肉が潰されるような痛みがはしります。もう一つは足の甲を痛めるものです、自分の手首を相手の踵のすぐ上で圧迫しやや捻るようにして絞るやり方です。このやり方での痛みは、足首を捻られた時に感じるものと似ています。足首を捻ることは反則なのですが、こうした場合の微妙な捻りは判別不可能なのでやむ終えないものとなっておます。ちなみに耐えていると足の甲のあたりから「バキ、ベキベキ」というような骨の音が鳴ります、そうなると痛める場所はアキレス腱というより甲の骨となります。甲を痛めると治りが遅いので、なるべく我慢はやめようかと思います。
③おまけ 
 アキレスを極めるコツとしては忍耐が重要なものとなります。怪力の持ち主か実力者意外では、自分が技をかければ大抵の場合はかけ返されます、それゆえ我慢大会になります。「もう、ダメだ。」と思ったら負け、痛くても、苦しくても我慢したほうが勝ちとなることもあります。
 それから痛みに慣れるということが重要なのです。かけられた瞬間に「これなら大丈夫だ」と思えば、切り替えしたりできるのですが大丈夫の範囲を知っておかないと技をかけられた瞬間に驚いて、「まいった」をしてしまいます。要するに慣れなんですが。

  《ヒザ十字固め》
①どんな技か
 アキレス腱固めとともにサンボを代表する関節技です、単純にいえば、自分の股に相手の足を挟みこんで伸ばして極めるものです。挟む部分としてはヒザのすぐ上のあたりとされています。ヒザ十字において重要なことは、「股の絞め」であり、挟んだだけで相手が痛がるくらいでなければきまりません。足を伸ばすことはたいして重要なことではないのですが、あせっているとついつい、そちらの方に気が向いてしまいがちです。
②どんな痛みか
 やはり、足が「挟まれている」というような痛みがはしりますが、ある程度どのような痛みかを知っていれば即座に「まいった」をするような技ではないと思えます。股のクラッチを緩めればそれなりに耐えることが出来ますが、その場合ヒザ十字をかけている方はその後アキレス腱固めに移行するのが手順となっており我慢していれば安心というわけではありません。

 《ヒザ固め》  
①どんな技か
 もっとも単純なかけ方としては、自分の手首の硬い骨の部分を相手のふくらはぎと太腿の間に挟み両方の筋肉を潰すという方法です、正座をしている足のふくらはぎと太腿の間に手首をこじ入れるような感じとなります。
 この技の入り方は非常に数多く存在しています。手首の変わりに自分の足首を挟みこんだり、拳で直接ふくらはぎを「グリグリ」と痛めつけたりもします。
②どんな痛みか 
 この技は自分で自分にかけることができるのでおためしになってはいかがでしょうか。実際これをかけられると筋肉が潰される猛烈な痛みがはしりますが、骨折・捻挫などの大きな怪我につながる心配はまずありません、2,3日歩くのに不自由するくらいなので耐えられるだけ耐えて脱出方法を探すことができます。しかしながら、耐えているときは大変なものです息を止めて全力疾走しているようなものです。

 《クロス・ヒールホールド》
① どんな技か
 これこそサンボならではの技といえるものですが、どのようにして説明したら良いのやら困るところです、とにかく無理を承知で簡単に説明します。相手の足を交差させ相手の足のスネの硬い部分でアキレス腱を圧迫するという技です、それゆえ相手がアキレスをかけてきた時にこちらの足を固定するために足を交差させクラッチしている時に返し技としてもつかえます。
 もっと詳しくしく説明したいのですが文章力不足により不可能なのでここまでとさせてもらいます。ちなみに、これは正真正銘のアキレス腱固めなのですが、「リングス」という格闘技団体が命名してから日本ではこのように呼ばれています。
② どんな痛みか
 痛みの感覚はアキレス腱固めの筋肉が潰されるような痛さのモノと同じですが自分の足で自分のアキレスを圧迫していることから、最初のうちはどの部分が痛いのかよくわかりません
がとにかく痛いのです。自分の経験からいうと、アキレス腱固めに使う力より少ない力でより激しい痛みを与えることができると思われます。極めるまでが複雑なので慣れないと、かけようとしている間に相手に普通のアキレスをきめられてしまうことがよくありますが、慣れた人がこの技をを使うと恐ろしいことになります。よくこの技にたいして「なぜ、わざわざ足を重ねるの?普通にアキレスかければいいではないか」という声を聞きますが、前述のように破壊力が数段違うことと、両足を捕らえているので逃げづらいという点があるのです。

  《腕ひしぎ逆十字固め》
 この技は柔道などでおなじみの関節技でありサンボ特有の技ではありませんが、もっとも有名なものであるので説明します。
① どんな技か
 相手に対して十字のかたちになります。自分の両足で相手の顔・胴を固定し股で相手の腕を挟みこみ、肘の可動範囲以上に腕を伸ばして主に肘を破壊します。
 相手が腕をクラッチして防御した場合、これを切るのは非常に苦労します、道着を掴んでのクラッチは素手のよりもはるかに切りづらいのです。クラッチは「スパァッ」と切るというより、じわじわと攻めて「ズボッ」とワインのコルク栓を抜くような感じで切る方が有効です。
 クラッチを切るという作業は物凄く大変なものです。サンボを始める前に想像していたものより100倍大変でした。たいして力のない普通のひとは瞬発力より持久力が大切なのではないでしょうか。フルパワーを持続できる持久力なので恐ろしいくらいの体力と精神力が必要なようです。
② どんな痛みか
 この技は耐えられません。背筋を使って腕一本を折るようなかたちなのでヘタすれば大変なことになる危険な技であると思われます。痛みがはしる前に「まいった」をするほうが利巧なのではないでしょうか。

《トド攻撃…》
 おまけです、もちろんサンボ独自の技ではありません。現役時代の前田日明が対戦相手の上に乗っかり呼吸をさせないという嫌がらせをしているのを観て、糸井重里氏が命名しました。
 コレは最高に苦しいです、自分より重い人がミゾオチなどを中心として体重をかけてきようものなら、苦しくて苦しくて、ロクに息もできません。そして苦しんでいる間に関節を簡単に取られてしまうのです。ヘタに関節技を覚えるより相手への乗り方、押さえ込みを研究するほうが、寝技では上達するのがはやいのではないでしょうか。


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読後、サンボや関節技に興味が湧いている方もいらっしゃるのではないでしょうか。

でも、見よう見まねの関節技は大変危険ですので、「試してみよう」なんて思ってはいけませんよ。

どうしても「やってみたい」という方は、会議室等でコカールさんに連絡を取って、直接教えていただいて下さい(笑)

コカールさん、面白いお話をありがとうございました!

もっと上手に編集できれば良かったんですが、すみません、てなしもはそういう事が上手く出来ないんです(^^;

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