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「キャンディ・キャンディ」を読んだことがありますか。

優れた作品にであった時、僕はとても謙虚な気持ちになります。その作品世界に己のすべてを投げ出して、自分の価値観のすべてをその作品内に投影し、そして自分の心をその世界に住まわせるようになります。
僕が「キャンディ・キャンディ」の文庫版(全六巻、中公文庫コミック版刊)を手にしたのは、わずか8時間前です。友人に借りたものの、時間が無くてすぐにページを開くことはできず、きちんと読みはじめたのが2時間前です。読み終わって、すぐにこの更新を行っています。

心が震えてしまってどうしようも無くなるようなシーンに触れた時、僕はページをめくる手を止め、うつむいて目を閉じ、自分の中で溢れているものに体を支配させます。体のあちこちが小さく震えて、それから大抵は、手近にある紙に手を伸ばしてその時の自分の気持ちを書き残そうとします。上手な文章を工夫している余裕なんてありませんから、短い言葉を、特徴的な書体で書き連ねます。変に頭を使った文章を残すより、そうやって勢いで書いた形跡のある物の方が、後で見返した時、その文字の崩れ具合のお陰で、その時の心ののびのびしたカタチが再現できることが多いからです。

キャンディを読んでいて、二回ほど僕は自分の心の震えにそうやって身を任せることがありました。
僕は言葉で生きている人間ですから、その時の気持ちを言葉で表すべく、いくつもの言葉や文章が頭に浮かんできました。見当はずれな物やよく聞くような言い回しも、沢山浮かんできました。それでもめげずに言葉を吹き出し続けていると、ひょいとキラキラ輝くような素晴らしい言葉が飛び出してきたりします。それを捕まえておいて、僕は次の自分の創作にその言葉を使うのです。僕にとって、優れた作品を鑑賞することは、優れた創造を目指すことと直接に繋がっているのです。
僕の場合、感動を紡ぐ作業にはことのほか時間がかかるので、その時間が経つうちに、輝きが薄れてしまう言葉もあります。そしてもちろん、いつまでも輝き続けてくれる言葉もあります。輝いている言葉は、その言葉が輝くために必要な要素までも引き連れていてくれますから、自然に、その周りの文章も輝かせてくれます。本当に優れた輝きを持つ言葉は、そのたった一言で作品全体を輝かせてくれたりもします。とにかく、僕の場合そういった輝く言葉のほとんどは、誰かの創作物を鑑賞することで引き出されるのです。

ごく希に、僕は「作品に愛された」という印象を持つことがあります。キャンディは残念ながらそこまで僕に微笑んではくれませんでしたが、ほんとうにいくつかの希な作品から、心震える言葉をいくらでも取り出せるという幸運に出会えることがあったりします。それは、その作者よりも、自分はその作品を理解した、と思える時です。

きっと、キャンディは多くの人を愛したマンガなんだと思います。あなたは、キャンディに愛されたことがある人でしょうか。まだ出会っていないというのなら、古い少女マンガである、なんて偏見を抱かないで、まずは本屋さんに出かけた折にでもながめて見てください。あなたを愛してくれるマンガが、そこにあるかもしれません。
創作を愛す人は、また創作に愛されやすい人であるはずですから。

「最狂超(スーパー)プロレスファン列伝」は人に奨められない。

このマンガ、ご存知の方にはもはや説明の必要はございませんでしょう。世紀末の日本のマンガ文化が生んだ奇跡の名著です。
このマンガを売るために、大袈裟なプロモーションは必要とされません。プロレス魂を持つ人間ならば、何かのきっかけで引き寄せられ、必ず手に取る一冊です。
以前に単行本化された際に、一度すべて読んでいたのですが、今回出版社が変わって復刻され、それをまた知人に借りたので、再び熱中して読みました。

プロレスに熱を上げる男達の狂態を、その熱さもおかしみも悲哀もひっくるめて詰込んで、その純度たるや富士山の地下水ほどに高まっているこのマンガが、プロレスファン以外に理解されないのは当然です。ゆえに、このマンガは、人に奨めるべきでないと言い切ります。プロレスの面白さを説明するマンガではないので、プロレスファンでない人が読んでも楽しめはしないでしょうし、これを楽しめる人は、自然に自分からこの作品にたどり着いているはずです。それだけの重力がこの作品にはあります。

長くは語りません。
優れた作品の前に、謙虚に沈黙できる幸福を、僕は満喫しようと思います。

「キン肉マン」の中には、語られるべき熱い戦いが確かに存在する。

週間少年ジャンプに連載された「キン肉マン」の最後の戦いは、キン肉星の王位をかけた、キン肉マン対キン肉マンスーパーフェニックスの激闘でした。
では、その一つ前の、今日僕がここで語ろうとしているある戦いが、誰と、誰による、どんな戦いだったか、憶えてみえる方がいらっしゃいますか?

と、気張って始めてみましたが、じつは今手元にキン肉マンのコミックスが無いので、記憶に間違いがあるかもしれないことを、先に謝っておきます。(ひょっとしたら、最後のいっこ前の戦いってネプチューンマンVSオメガマンだったような気がしてきまして・・・)
ご容赦をいただいた上で、ここに高らかに宣言いたします。てなしもが考える、ベストバウト・オブ・「キン肉マン」は、連載中ラスト2に描かれた戦い、マンモスマンVSロビンマスクです。

では、順を追って説明いたしましょう。
僕の印象としまして、マンモスマンは、作品中最強の敵超人として描かれていたように思います。
キン肉マンの多くのライバルの中でも、強さ、という点では象徴的存在であったバッファローマンを、正面から戦って破っることができたのは、ほんの数人です。キン肉マン、悪魔将軍、ネプチューンマン・・・・・・しかしその中でも、マンモスマンほど圧倒的な力の差を見せて勝った超人はいませんでした。
パワーにおいてバッファローマンを上回り、残忍さにおいて悪魔超人顔負けの技を使いこなし、ずるい知恵においてもかなりの策士でした。それを念頭において、改めて、「キン肉マン」をまとめて読み返して見てください。マンモスマンが登場する王位争奪戦開始までのエピソードは、まるですべてマンモスマンの強さを表現するためにあったかのような印象を受けるはずです。王位争奪戦に登場した敵超人たちの強さのインフレも、すべてマンモスマンが基点になっています。

そんなマンモスマンに、キン肉マン軍最後の刺客として送り込まれたのが、ロビンマスクでした。初登場は三巻。キン肉マンの親友であり、終生のライバルテリーマンの次に登場した、エリート貴族という設定の強力な超人でした。一時は、放浪の身にまでなってキン肉マンを付狙う復讐鬼となっていたこともありましたが、悪魔超人と戦いはじめたころには、キン肉マン軍団の参謀役として、最も頼れる仲間の一人になっていました。
それまでのライバルであるテリーマンと、ロビンマスクが決定的に違っていたところは、いくつもあります。私生活や私情をなかなか見せないクールなプロフェッショナルであったこと、「前回の超人オリンピックチャンピオン」という”権威”を持っていたこと、格好良い鎧を着ていたこと、そして、「タワーブリッジ」という明確な必殺技を持っていたことなどです。
後にキン肉バスターやキン肉ドライバー、パロスペシャル、改良阿修羅バスターなど多くのすさまじい必殺技が乱れ飛ぶようになるこの作品の中で、まともに登場した最初の必殺技です。そして、作中最後まで、だれもこの技を破ることはできませんでした。マンモスマンでさえも。それはまさにパーフェクトホールドでした。
しかし、その割にロビンマスクは、強さという点ではあまり印象の良くない超人ではないでしょうか。なにせ、最初の悪魔超人編ではアトランティスに敗れ、悪魔騎士編ではジャンクマンに辛勝、続くタッグトーナメントでは準優勝チーム・ヘルミッショネルズに当たって一回戦負け。どれも実のある戦いでしたが、結果はイマイチでした。そんなロビンが燃え上がるのは、王位継承編の一回戦、キン肉マンチームの大将に座っての、敵方の大将キン肉マンマリポーサとの一騎打ちです。技巧派同士の繰り出す多彩な技の好勝負でしたが、アロアノの杖という凶器をマリポーサから奪い、逆に利用してロビンが勝利を収めました。古いプロレス風に言うなら、「凶器による反則勝ち」といったところでしょうか。冗談は置いておきまして、数々の名勝負が生まれた王位継承編の中でも、王位継承候補が王位継承候補以外の超人に敗れた戦いは、なんとこの一戦だけです。
続く二回戦では、キン肉マンと組んで、キン肉マンゼブラ・パルテノン組とのタッグマッチをします。ここでも、ロビンは敵大将に絡み、見事キン肉マン軍勝利のアシストをしてみせます。
ジャンクマン戦のころから高齢超人などと呼ばれていたロビンマスクの才能は、連載終盤に至ってついに、大物喰いという形で発現したのです。
そして彼は、ついに最後の大物、マンモスマンとの戦いに挑むことになります。

ちょっと話が脇にそれますが、こうして考えてみると、テリーマンは不甲斐ないですよねえ。彼の最後の戦いってなんでしたっけ?キング・ザ・100トンとのシーソーマッチの後って、何かありましたっけ。度忘れしてしまって思い出せないです。あ、そういえば、後でラーメンマンに秒殺された充電超人のモーターマンに、ボコボコにされていたような・・・。出来ることなら最終戦の前の露払い、やはり終生のライバルに締めてほしかったように思います。結局、彼はキン肉マンの最高のタッグパートナーとしてしか描かれませんでした。あとは、「そういえば聞いたことがある」「知っているのかテリーマン」というやり取りで御馴染みの、敵の設定の解説役と、くつひもが切れて仲間の敗北を予知することくらい・・・。まったく不甲斐ない。

話を戻します。
王位争奪編最後の決戦、キン肉マン軍対スーパーフェニックス軍の戦いは、「超人予言書」という恐ろしい本の影響下で行われたものでした。
その書物には、すべての時代のありとあらゆる超人のことが記されていて、もし、あるページが失われた場合、そのページに記されていた超人本人も、その存在が消滅するという、とんでもない能力を持った本です。そして、最後の戦いの参加者は、その予言書の中の自分のページを戦いに賭けなければならなかったのです。
最後の戦いの中でも、この書物のページの扱いに関しては、どの超人もとても気を使いました。いつでも火にほうり込めるようになっている予言書が風に煽られ、炎にあぶられる度に、体には激痛が走り、ページの一部が失われると、体の一部が失われたのですから。
しかし、ロビンは違いました。
徹底的な心理戦に勝ち、千載一遇のチャンスをつかんだ彼は、マンモスマンを空中で完全なタワーブリッジの体制に捕らえます。このまま地上に降り立てばタワーブリッジは完成です。ロンドンの跳ね橋のごとく、マンモスマンの背骨は真っ二つになることでしょう。しかし、なんとロビンの足下には、自分の予言書のページを炎の上で支えているたった一本の紐があったのです。このまま落下すれば、それを切断してしまう。周りから、必死でそれをロビンに知らせる声が飛びます。常に理知的で、クールで、やさしかった、その時の、ロビンの言葉です。

「男の勝負に、そんなものが関係あるかぁー!!」

気合もろとも、彼とマンモスマンの体はいともたやすくその紐を引き千切り、予言書を火にくべられ、地獄の苦痛に苦しみながら、彼は人生最後のタワーブリッジでマンモスマンを仕留めたのです。
この一瞬、このシーンを描くために、キン肉マンというマンガがあったのだと、僕は思っています。
その後の、キン肉マン対スーパーフェニックスは、すばらしい戦いではありましたが、決してこの戦いほどのものではありませんでした。


「キン肉マン」というのは、僕くらいの年齢の男子にとって、特別なマンガです。小学校時分に、とにかく、夢中になって読みふけりました。このマンガは、不思議なことに、今読み返してみると、粗ばかりが目立ってしまって、しかもその作品全体の粗さみたいなものを指摘するだけでも、相当面白い内容になってしまいます。
そういう方向としましては、やまぐちじゅんさんという同人作家さんが書かれた「キン肉ボン」という傑作同人誌がありますので、興味のある方は探してみください。商業誌にも企画をそのままコピーされたほど、構成、センスともに抜群の、僕らの世代ならば大笑いできること間違い無しの名著です。ちなみに、商業誌版はあきらかにデッドコピーで、やまぐちさんの著書の半分も面白くありませんでした。
同じ方向を目指していたのでは、あの名著に勝てるとは思えなかったので、思い切って、キン肉マンを賛美する方向でこの文章を書いてみました。商業ベースで、キン肉マン賛美の本もいくつか出ていますが、どれも、心底納得させてくれるものではなく、まったく、子供だましのような内容でした。
今回の内容が、キン肉マンの”良さ”をどこまで表現できているのが、ちょっと自信が無いんですが、もし反響があれば、ラーメンマンの話なんかをまた書いてみたいと思います。掲示板などへの感想、お待ちしております。

「赤ずきんチャチャ」の完全なる世界。

「赤ずきんチャチャ」の世界は、極論すればすべての登場人物がチャチャの事を愛しているところから始まっています。どんなに訳の分からないバケモノが暴れまわっても、チャチャを「邪魔物!」と罵る恋のライバルが現れても、作品全体からあふれ出る愛はいささかの陰りも見せません。
それは登場人物達のお互いの呼び方の気安さを見るだけでも分かるというものです。
チャチャの登場人物達は、それぞれお互いを様々な名前で呼びあいます。
主要三キャラだけを見ても、主人公のチャチャは、愛犬のリーヤとセラビー師匠とマリンからは「チャチャ」、しいねちゃんとお鈴ちゃんからは「チャチャさん」、ドロシーからは「チャー子」と呼ばれ、つづいてリーヤはお鈴ちゃんからは「リーヤさん」、マリンからは「リーヤ君」、他の全ての人からは「リーヤ」と呼び捨てにされ、その中でもドロシーからは「犬」と、ひどい呼び方をされます。
そしてしいねちゃんは、セラビー師匠やうらら学園の校長先生、はては魔王に至るまで、全ての人から「しいねちゃん」と呼ばれます。自己紹介からして、「僕のことはしいねちゃんと呼んで下さい」と、自分の師匠の敵であるはずのチャチャに笑顔で言ってのけるほんわかぶりです。

僕が初めて「赤ずきんチャチャ」を知ったのも、この「呼び方」がきっかけでした。マンガより先にTV版です。ある時、TVの番組覧を何となく眺めていると、アニメ「赤ずきんチャチャ」の短い内容説明の中にあった、「ドロシーちゃん」という文字が目に入ってきました。まあ、童話チックな女の子の名前だなあと思ったわけですが、どうにもその後ろに「ちゃん」が付いているのが気にかかります。
その時の文面を見る限り、どうもそのドロシーというのは敵らしい。敵なのに、「ちゃん付け」で呼ばれている。なんとなく、チャチャ特有のほんわかした空気を、そこで感じたのでした。たまたまその日は時間があったので、そのアニメを見てみました。
それはとても丁寧に作られた、ほんわか、ギャグアニメでした。全般に、登場人物達はただ私欲のためだけに行動しますし、他人の迷惑も顧みません。その殺伐とした空気と、ほんわかが同居するという、類希なるアニメでした。しかも、物語の筋自体が面白い。あっという間の30分でした。途中のCMでその原作コミックの存在を知り、番組終了後すぐに、僕は本屋に自転車を飛ばしました。

アニメは1年ほどの放映期間を終えて打ち切られましたが、原作のマンガは99年12月現在、連載が続いています。
アニメがやっていたころに比べて、登場人物がさらに増えました。超能力者で不幸の塊、現時点で実質上の主役になってしまっている、ほっぺのなるとが素敵なポピー君、しいねちゃんを溺愛するしいねちゃんの両親、姉上激ラブのお鈴ちゃんの弟、ポピー君に一目ぼれのマリンの妹、依頼心が異様に強いやっこちゃんの弟、初登場からいきなりセラビー以上の危険人物に成り上がったチャチャの妹、セラビーの師匠でもあるチャチャの母、ポピー君に異常な執着を見せるロボットの市松君、登場人物中もっとも大人な精神構造をしていると思われるものの、一番の遊び人でもある魔王の平八、そしてセラビーの”父”にして痴呆症をわずらっている謎の美少女リザードさん。
増えたメンバーのほとんどは、誰かの家族です。全ての登場人物は、誰かを溺愛しており、それは輪のように繋がって、チャチャという一点に集約します。その輪を壊そうとする存在には、登場人物達の全力の排除行動が待っています。

何者も、このあまりに盤石な、完全なる愛の世界を乱すことは出来ません。その居心地の良さを楽しむために、僕は少々の恥ずかしさをものともせずに、ピンク色の表紙の少女向け、リボンコミックスを買い続けるのです。

LOCK THE SUPERMAN

緑の髪の永遠の少年ロックの物語は、名のある出版社から刊行されているコミックス以外にも、ビデオアニメやLPレコード、そして同人誌版と呼ばれるものまで多くの媒体によって語られています。
その中でも比較的手に入れやすいのは、普通の書店で手に入るビブロス社版の現在も連載中の内容をまとめたコミックスや、以前少年画報社から出版されていたものを再編集した文庫版、後はスコラ社から刊行されている愛蔵版などでしょうか。

雑誌での連載という形式をとっているにも関わらず、超人ロックの物語はちょうどコミックス1冊、ないし前後編のような形式での2~3冊で一つのエピソードが完結するように出来ています。また、「超人ロックとは何者か」や「この世界の設定は」といったことが丁寧に語られる独立したエピソードはどこにもありません。さらに、超人ロックには設定上の「始まり」は存在しないので、ぶっちゃけた話どこから読みはじめても間違いではありません。
慣れるまで、超人ロックというのは読みにくいマンガです。登場人物は自分の知っていることしか喋りませんし、また、自分の立場でしかものを見ず、独断的な間違った判断などもどんどんしてしまいますので、読者は混乱します。読者の視点のキャラクターというものがほとんど登場しないのです。
しかし、ひとたび物語の骨格がつかめてくると、そういった登場人物たちの姿が、大きな歴史の流れの一部に繋がっていることが解ってきて、かえってその生き生きとした言動に引き込まれるようになります。
綿密にくみ上げられた骨太のストーリーがバックにあるため、超人ロックは何度も繰り返して読むことが出来、その度に新たな発見があったりして、いつまでも楽しむことが出来ます。
そういった楽しみを逃さないように、僕が超人ロックを読む時に心がけているいくつかのコツを、最近(00年2月現在)ビブロス社から刊行されたばかりの「メヌエット」を例にとりながらここにあげます。

まず、冒頭の数ページを読みながら、その物語が年表上のいつ頃の話なのかを把握します。
大まかに、初期の連邦なのか、連邦末期なのか、帝国初期なのか、帝国中期なのか、帝国末期なのか、新連邦初期なのか、新連邦中期(つまり最新の設定)なのか、ということくらいをチェックします。
まあ、新刊の場合だと大抵は最新の時代設定の話ですし、文庫版なんかの場合は、年表順に刊行されているので混乱する事はないのですが、たまに、とんでもない時代の設定である場合があるので、注意しましょう。例えば「メヌエット」は、いきなり帝国初期の時代設定の話で僕は驚かされました。
このようにすでに描かれている時代が舞台の場合は、以前にその時代が描かれた時に登場したキャラクターが再び登場することがあります。「メヌエット」には、帝国の第3代皇帝として実質的に帝国の基礎を築いた名君、女帝トレスが冒頭から登場します。少年画報社版の16巻あたりで登場した時には花も恥じらう美少女でしたが、今回はすっかり老女になってしまっており、そろそろ退位を考えています。しかし父ナガト帝譲りのその頭の切れは相変わらずで、10年ほど前から彼女の存在を知っている僕は、ちょうど懐かしい友人に再会したような気分になります。

時代、そして舞台になる場所を大体把握したら、次は主人公のロックが今回はどんな姿に化けているのかをチェックします。
超人ロックの世界では、高度な力を持ったエスパーは他人の外見を「マトリクス」というデータに置き換えることによって、自分に写し取ることが出来ます。ロックは大抵の場合、物語の序盤ではその姿を見せません。しかし、誰かのマトリクスを使ってすでに物語に登場していたりするのです。
この、「誰がロックか」というのは、話によってはそれ自体がそのエピソードの主題になっている事があり、なかなか判明しないことが多いです。ロック自身のマトリクスも長い物語の間には何度か奪われているため、ロックの姿をしているからといって本当にその人物がロックであるとは限りません。
「メヌエット」の場合は、はじめからロックが登場します。ストーリー自体が、帝国初期の跡継ぎ問題に付随する血縁や権力争いといったかなり複雑なテーマのため、ロックには物語上での複雑な役割は与えられなかったのでしょう。

そしてストーリーを楽しみます。
物語の主人公はロックではない場合が多いです。ロックは銀河最強のエスパーである上に、有数の高度な技術を持ったコンピューターハッカーであり、他に類を見ないほどの苦難を乗り越えてきた冒険家であり、一流のレーザー銃の使い手であり、専門家顔負けの破壊工作員であり、自分の体を生かしきった戦いの出来る格闘家であり、銀河トップレベルの企業を切り盛りできる商才を持ち、クーデター指導者の経験もある上、ついでに5つの星系を統治する大公であったこともあるくらいで、こんな有能な彼が中心にいると物語があっという間に終わってしまうのです。
そんな彼が、どんな事件と出会い、多くの登場人物たちとどんな関係を持って、最後にその力をどのような判断で使ったのかという、ドラマを楽しみます。

「メヌエット」では、帝国初期の名君トレス帝の退位に関わるドラマと、後の帝国の崩壊の時代にも名を残すオーリック家とマイノック家、そして帝国中期あたりには当たり前に使われるようになる「若返りの技術」の誕生についての物語が語られます。
初代皇帝ナガトの娘トレスが帝位につくまでの事件や、若返りの技術が最初はある一人のエスパーの特殊能力でナガト帝にのみ使われていたこと、そして今回のラストに登場するカール・ダーム帝が後に不思議な存在になっていくという、帝国の初期から末期までの数百年間に点在していたいくつかもの重要なエピソードを、「メヌエット」は繋ぎあわせる役目を持った物語でした。
謎の多かった銀河帝国史の一部に、やっと光が当たったのです。銀河帝国の成立のエピソードが描かれたのはおそらく15年ほども前になりますから、まさに現代に残る数少ない「大河マンガ」と呼ぶべき作品と言えるでしょう。

十年以上前からの謎がやっと解かれるこの快感のような体験を、もっと多くの方に味わってもらいたいと思うのです。これからもこのHPでは超人ロックの紹介を続けていきたいと思います。

連邦と帝国

作品内には、人類統一政府が2つ登場します。正確には3つですが、名前は2つです。
まず、人類が地球にしか住んでいなかったころの国家連合体の延長線上にあると思われる「銀河連邦」が存在しました。
次に、宇宙船技術の発達と、1発で惑星を破壊する力を持ったジオイド弾の発明によって引き起こされた「汎銀河戦争」の中から、ナガト帝とスーパーコンピュータ「ライガー1」によって打ち立てられた「銀河帝国」が現れます。
そして、長く続いた帝国の支配の腐敗の中から芽吹いた活動団体「SOE」を前身とし、「ライガー1」と惑星コンピュータ「ドラム」との壮絶な相打ちによって秩序が失われてしまった宇宙に新しい秩序をもたらすための機関としての「銀河連邦」が生まれました。

もちろんどの組織も、実際には完全なる人類統一政府ではなく、友好関係があるにしろ同時代に傘下ではない自治体が存在していたりもしました。超人ロックの世界でも、人類はそう簡単には統一政府を作ることが出来なかったようです。
しかしながら、この作品を大河歴史マンガと捉えるのならば、その根底としての仮想人類史としてこの「連邦→帝国→連邦」という流れは押さえておくのが妥当であると思われます。
この大きな流れを認識すればこそ、ロックという一個人がどれほど大きく歴史に干渉したのかという視点が生まれ、そしてそのダイナミズムを僕らは楽しむことが出来るのです。
ロックは、どうやらノンポリらしく、「連邦を守るため」とか「帝国を守るため」というような戦いはしませんでした。彼の行動の多くは、連邦に勤める友人の依頼によってのものであったり、多くの人間の命を救うためのものであったり、目の前で一人の人間が殺されたことによる怒りによってのものだったりしました。
しかし、結果として彼は第一次銀河連邦の崩壊を見届け、銀河帝国の設立に結果的に手を貸し、帝国の崩壊の時にも、その現場にいました。そういった彼自身がかかわってしまった歴史的事件も沢山ありましたし、彼がかかわった人物の子孫が、後に大きな歴史的活動を行ったという事象もあります。
基本的にこの作品はコミックス1冊分で一つの物語が完結するように作られていますが、その背後には1000年以上におよぶ年表が横たわり、一つの人類史を描いているのです。

時にスーパーヒーローであり、時に狂言回しであり、時に脇役であるロック・ザ・スーパーマンは、この作品の主人公でありながら、作品の描いている人類史の観察者であるという側面を持っています。
いつか彼の旅に終わりが来るのでしょうか。そして、ロックとは、何者なのでしょうか。
その答えを探すのが、超人ロック研究の真の目的です。しかし、失礼かもしれませんが、それは作者である聖悠樹でもわからないことなのではないかと、僕には思えてなりません。

銀河を駆けろ!

超人ロックって、まだどこかで連載されたりしているんでしょうか?
最初から随分と弱気ですが、これは僕はマンガになっている超人ロックをすべて読んでいるわけではないという自信の無さに起因しています。基本的には少年画報社から出ていた38巻までのコミックスと、その後に発売されたいくつかのコミックス、それと、少年画報社版より前のコミックスが2冊ほど手元にあるだけです。
それぞれが、どんな雑誌に連載されていたのかもよく知りませんし、少年画報社版は37巻の「神童」が抜けています。しかも、その欠けたところを今現在精力的に探しているわけでもありません。こんな腑抜けた僕の書くコーナーですから、いたるところに、記載のミスや事実の誤認、無知ゆえの誤った考えなどが現れると思いますが、そういうものに気が付かれたら、どうか寛大な心で会議室やメールなどでご指摘いただけますよう、よろしくお願いします。

僕が「超人ロック」に出会ったのは小学校時分です。夏休みに、避暑に訪れた山荘で、たまたま少年画報社版がずらっと揃って置いて有るのに遭遇し、雨天が重なったこともあって山登りにも行かず、二日ほどかかけて一気に20巻代後半まで読みました。小学生の僕はほとんど初めて触れた本格的SF世界に興奮し、滞在が終わってその山荘を出る直前までむさぼり読んでいました。
街に戻ってから、本屋にたまたまあった38巻を買い、それだけを何度も繰り返し読みました。1年ほど後に、また本屋で7巻と8巻を偶然見つけ、1度だけ読んだ記憶を手繰りながら、この2冊で語られている惑星ラフノールの物語をこれまた何度も読み返しました。

春になって、新しく出来た中学の友人が、なんと15巻まであっさりと譲ってくれました。前に読んだ記憶がほとんど薄れ掛けていた僕は、この時にあらためて、ロードレオンやヤマキ長官を魅力的なキャラクターとして認識し、惑星ロンウォールの独立指導者リビングストン将軍に感動し、サイバー達の運命に涙しました。
それ以降は書店や古本屋を巡り、ひたすら自分の持っていない巻を集めることに没頭したのですが、こういったコミックスの流れにとらわれない読み方をしたお陰か、僕は超人ロックを一つの大河歴史読み物として認識して、コミックスを買う行為は、まるで年表に空いた謎の空白を解明するための歴史学者の研究行為であるかのようになっていったのです。

そして、超人ロック歴史研究家てなしもの研究者としての自意識を決定付けるイベントがおこりました。
あれは中学3年の夏だったでしょうか。長野県長野市にある、全国的に有名なお寺「善光寺」。その表通りにあった古びた本屋に僕はふらりと立ち寄りました。いつもの癖で、超人ロックのコミックスがありそうな棚を覗いていると、何とそこには、古本ではない新品の、まだ僕の持っていない超人ロックが、なんと8冊も並んでいたのです。涎の出そうな宝の山でした。しかし、その時僕の財布には4冊分を買うお金しか無く、「まあ、こんなにここにあるんだから、またどこかで見つかるだろう」と高をくくって若い方の巻を4冊だけ手にとり、レジへ向かったのです。(ああ、今思い返してもなんとも惜しいです。)
次に長野を訪れたのは1年後でした。その本屋をやっと見つけだし、本棚を覗いていましたが、もちろん買い逃した4冊は残っていませんでした。あの後も、あちこちの本屋を回りましたが、結局新しい巻は全然手に入っていなかったので、1年前にここに8冊もあった事を不思議に思い、店主にそのことをたずねてみました。すると、驚くような答えが返ってきました。
なんとこの本屋さんは、超人ロックを新刊で仕入れた最後の店だったのです。お客さんから「全巻欲しい」という注文を受け、全巻2セットを版元に問い合わせたところ、もう既に原盤が残っていなくて在庫も無いと言われてしまったものの、なんとその版元が全国の取り引きのある本屋さんに問い合わせて、各地の店頭に並んでいたものまですべて引き上げ、全巻セットを2つそろえてこの店に送ってくれたのだというのです。つまり、僕が1年前にこの店で見た8冊は、少年画報社版超人ロック新品の、最後の8冊だったわけです。
いうなれば、あの時の僕は少年画報社版コミックスの、介錯の立会人だったわけです。

ある歴史の瞬間に立ち会ってしまった人間が、その生き証人として生きることに宿命を感じてしまうことがありますが、僕もまさにその心境でした。
結局、ロックはしぶとくもいまだ出版社間をテレポートしながら新しい神話を紡ぎ続けているようですが、僕は一度彼の死を看取ったものとして、未熟の身なれど、これからも彼の後を追いかけて行こうと誓っているのです。

血の召還

 年齢を重ねて参りますと、月日の流れというのは早く感じるようになるものです。
 いやー、あっという間でしたね、この四ヶ月ほども。このくらい早いと、その間にいちいち何があったかなども思い出せなくなってしまいます、はい。
 あ、ワンフェスは行きました。事前に「読み解け」でもお伝えしていた通り、FSS関係のでっかい展示がありまして、お目当てだった超絶技巧のガレージキット群や、無数のFSSキャラに扮したキレイなコスプレのお兄さん、お姉さん達に見蕩れてしまいました。ちなみに、FSSの展示の入り口にあったでっかい「DANCE(コミックス一巻の表紙絵)」の前で、午後の間中ずうっと飛翔するラキシスと梵天のようなナイトオブゴールドをぼんやり見上げていたアホっぽいメガネ君がてなしもでした。入り口近くで通行の邪魔になっていたので、会場に行かれたあなたにもひょっとしたら御迷惑をおかけしていたかもしれません。ゴメンナサイ。
 さて、えー……。
 先月号では、剣聖カイエンとムグミカ王女がボスやんの手にかかって殺され、流れ出た二人の血液が交じり合ったところで突如「血の召還」が行われて、ほむらの女皇帝・ナインが現われたんでしたね。
 あー……。
 そう、何かが引っかかると思っていたんですが、やっと思い当たりました。僕、先月号の「読み解け」やってませんね。いかんいかん。
 あれ……?
 その前の月も、やってないです? そ、その前も?
 お、おかしい、この四ヶ月の記憶が、記憶が。僕はどうしてしまったんだ。
 (でも永野先生と一月中旬にご一緒させていただいたPSOでの冒険はるんるんと思い出せたりする)

 とか言いながら、例によりまして見開き単位で、まるで何事も無かったかのように今月分の読み解きに参ります。


表紙

 いつも通り彩色されたイラストで、深緑のプラスティックスタイルスーツに身を包んだファティマ・霧姫の立ち姿です。
 その隣には霧姫のマスターであるビオレート・トライトン属するフィルモア帝国の、主力MHと主な騎士の名が簡単に説明されています。
 え、ファントムって三騎あるの?
 しかも、「次期主力MHと噂され」ているそうです。サイレンR型というダミーの型番まで用意されており、しかもその型番が本来割り振られているのはやっぱり新開発の最新型サイレンなんだそうです。従来のサイレンとは異なって、非常にスマートな装甲形状をしており、それを駆る新設の皇帝警護騎士団・白グループの団長はフィルモアの誇る天位騎士(にして未だ本編未登場)のジャンシー・ガラー。ガラーのファティマ・シンドラはDrダイアモンドの作なんですって。いやーもう、ノイエシルチスの黒グループ筆頭はペテルギウス・ズーワットでパートナーはファティマ・ナロン、その使用MHはサイレンFGとか、例によりまして聞いた事無い名前が出まくってます。

 こうやって、FSSでは表紙だけで猛烈な勢いの設定を公開することがちょくちょくあります。
 その内容は大抵、近い回の連載の中でも消化されて特に別記する必要が無くなってしまうので、コミックスに収録されないことがほとんどです。

 さらには、遊星傭兵騎士団の紅騎士としてハスハ奪回作戦のシーンに登場した「ミス・マドラ」の名と、「お笑い組の剣聖」という、間違い無く慧茄のことを指していると思われる人物のことまでも記載されています。同誌のワンフェスレポート記事の中で作者本人の「WFに寄せて」という寄稿がありまして、その中で何気なく「カイエンってどうなるんですか~??」「あ、死んだ死んだ」というえげつない質疑応答が載ってたりするので、やはり、先月号のあっけないと言ってしまっていいだろうあのやりとりで、我らがダークナイト、シルバーナイト、南京虫にして最強の伊達男は亡くなられてしまったようです。となると、その時代の最強の騎士を示す称号である「剣聖」というのは別の誰かに渡るわけで、それがどのような手続きによるものかはわかりませんが、先代の剣聖である慧茄の元へ三度戻ったということなのでしょう。


 ととと。
 まだ始まったばかりですが、ここまで書いてきて、もう時間がなくなってしまいました。えっへん。(威張ることでは無い)
 今月号の本編は、大暴れの「あの方」に関する考察をメインに、ハスハ陥落というリアルな事態と、神話と人類史の融合という幻想的な物語の同時進行という状況を通して、またも「FSSとは何か」みたいなことを読み解いていきたいと思います。
 また、ニ、三日中にお会いしましょう。

二つ!

 今や数あるWEB上FSS連載レポートでも最も更新が遅いと評判のこのコーナー、今月は初期コンセプト通りのお届けです。
 来年二月に開催される次回の「ワンダーフェスティバル」におきまして、我らがFSS関係の展示が主要ガレージキットメーカー数社の協力の元、大々的に行われるということは先月分の更新で書きましたが(書いてない)、模型雑誌は毎月欠かさず手にとってFSS関係の造形物の写真だけチェックしてまた本棚に戻す、という程度の造形ファンとしましても、イベントそのもののシンボルキャラクターに我らがファティマ・アウクソーが使用されるというほどの盛り上げが行われるとなれば、是非会場に行って色々見て歩きたいと思っております。
 ガレージキットというのは、一言で言うと高級な模型のことです。腕に自信のある製作者が自宅の車庫(ガレージ)なんかでほんの数体の作品を制作し、大人でも躊躇うような値段の付いたそれを、よいと思った人が買う。その売り手と買い手がわんさと集う国内最大級のイベントが「ワンダーフェスティバル」なのだそうです、たぶん。行ったこと無いのであやふやでスミマセン。
 精密に造られた立体のMHキットは、FSSの作中で言われているようにまさしく芸術品のような美しさです。同じMHが題材でも造り手さんが違うとまたあちこちに違いが感じられたり、一つ一つのパーツの形は同じなのに組みあがり品からそれぞれに異なる印象を受けたりする体験は、実際にMHを目にした時にもこういう感覚を受けたりするのかもと思わせてくれます。
 ガレージキットメーカーのショールームでやたら姿勢を低くして、まるでお姉さんの下着を覗きこんでいるかのような仕草でMHキットのショーケースを陶然と眺めている男がいたら、それは低視点からのMH観を満喫しているてなしもかもしれません。以前から名古屋の大須と東京の秋葉原のVOLKSショールームによく出没してます。

 さて、今月分の内容ですが、これも先月分の更新で書きましたように先月は連載がありませんでしたので(書いてないってば)、先々月分の続き、開戦直前のフィルモア側の描写から始まります。
 今回の内容は、二つ、です。FSSファンだけの至福の二つです。


表紙

 手前に立つファティマ・アトラスと、奥にシルエットで描かれた細身のMHです。
 細身のMHは、手首のあたりなんかカフスボタンみたいに見える形状になってまして、後頭部から何本も伸びるおそらくカウンターウエイトのシルエットがちょうど長髪のようですから、なんとなくお洒落さんな印象です。
 その手の上には、女性のファティマっぽいシルエットが立っています。
 えーっと……。
 どなたかこちらの方々のことを御存知でしたら教えてください。その、毎度毎度のことではあるんですけど、いったい作者はまだどれだけのデザインを隠し持っているのでしょうか。
 両肩の形状だけ見ると、アクティブバインダーを外したオージェ・アスルキュルにも似てるような気もします。


最初の見開き

 今月は「見開き」ばっかりなのでやはり見開き単位で見て参ります。
 フィルモア軍の後方に展開する空中要塞。そこから数騎のMHベルゲ・サイレンが投下されます。欄外に説明がありまして、戦場で動けなくなったMHの回収や騎士の救助を専門に行うのだそうです。
 FSSの一巻の一番最初のエピソードで、黒騎士を討ち取ったミラージュ騎士カーレル・クリサリスが帰還用に要請していたベルゲ・ミラージュというのがありましたが、やはりMHも騎士も国家の有限の財産ですから、大きな国でもこういう専門部隊を使ってリサイクルするわけです。「ベルゲ・マグロウ」とか「ベルゲ・アマロン」とかもあるのかなあ。
 しかしこれも装甲形状が他のサイレンとは全く異なるデザインです。関節部は大きく開いていて動きが良さそうですし、背中にはでっかい背負子、手にはアイスホッケーのスティックのような引っ掛け棒。一騎で破損サイレンの二三騎は運んでいけそうです。

 左のページに入りまして、アルカナサイレン・はぁとのブルーノ・カンツィアンが、クリスティンにまずは自軍の中翼に入るように直言します。最初の正面突入は、重装甲のアルカナサイレンが適任というのは、道理と思われます。
 この時ブルーノは「先鋒は私と トライトンが はねます!」という、少々変わった言い回しを使いました。最初に読んだ時は気が付かなかったのですが、後の展開を読むとなるほど納得です。突入の戦法はこの時点で決定されていたわけです。
 それをクリスティンは、微笑みすら口元に湛えて拒否します。

「我が命はこの時のために 生かされてきたのでは ありませぬか?」

 戦場に立つ者の一人一人には、その時そこに居る理由というものがそれぞれにあります。
 クリスティンはフィルモアの前に立ちはだかる敵を倒す、ただそれだけの為にこれまで生かされてきた少女です。作者の言葉ですが、「一人殺したら犯罪者、一万人殺せば英雄」と言われるように、クリスティンは幼い頃に一人の人間を殺してしまったがために、将来、つまり戦場に立っている今、敵を無数に殺さねばならぬ十字架を背負っています。
 そこにはまた、こんな恐ろしい宿命であるとはいえ、自分の生きてきた意味、自分という存在の理由、答え、そういったものにめぐり合えた人間の、高揚感すら漂っています。
 そしてこのシーンのクリスティンの耳には、くっきりと描かれた、まさしく「十字架」のイヤリングが下がっているのです。


二つ目の見開き

 あの日、泣いていた少女と、同じものが描かれています。
 今もあの日と同じ罪と悲しみを胸に、少女は、自分が最前線で戦う理由を配下に告げます。クリスティンはこれほどに美しく成長しました。ファティマの人工的な美しさとは異なる、生命感に満ちたその姿。豪奢に広がるブロンド。手にはフィルモアの紋の入った、娘への恩赦を請い自刃して果てた父の刀。右肩に時の剣聖から受けた天位の証の傷痕。自ら望んで殺戮マシーンとなった、いや、これからそれになろうとしている、あまりにも人間的な美しさです。
 トライトンはその意を受け、指示を託します。作中時間で三十二年前(僕らの感覚だと八~十年前くらいと推測)のあの日、クリスティンを守るために動いた騎士の一人であり、トライトンはこの少女がこの十字架を背負うことを宣言したその場に立ち会っていました。
 ブルーノも口を瞑ります。こちらだってクリスティンの父、バーバリーズの介錯を務めた男です。
 そしてクリスティンは、宿命を受け取った証として、いや、宿命を遂行するために与えられたフィルモア皇帝専用MHV・サイレンのコクピットに身を沈めながら、パートナーのファティマ、町の名を呼びます。
 町は自分のマスターの意を総て汲んでいます。
 初陣ならばファティマの戦況判断に騎士は従い、ファティマが退けと言ったらどんなに有利と思っても下がらなければならないのが当たり前のところを、町は決して下がらない、プログラム補正が不可能なところまで破損しても、片腕を失っても戦いつづけるとクリスティンに宣言します。

「おまかせあれ…… この日を 待っておりました! マスター……」

 ファティマが高揚感を表情に現す場面というのは、今までのFSSの中でもちょっと憶えがありません。主の本懐を遂げさせんとする歴戦のファティマの、なんとも言えない表情です。
 ああ、だめだ。皆さん、コミックス十巻の最初のエピソードをお読み返し下さい。ここでどんなに文章を工夫しても、今の僕にはこの騎士とファティマの内面を書ききれません。
 この冷たく燃える微笑に、クリスティンは答えて騎士団への指示を叫びます。


三つ目の見開き

 舞うような姿のV・サイレンを手前、クリスティンの「前進!!」と共に、フィルモア軍のサイレンが一斉に踏み出す見開きです。
 無数の重装甲MHの動き出した音が一つにまとまって、「ズゴン」という巨大な書き文字に表現されています。


四つ目の見開き

 迎え撃つメヨーヨ軍が、クラーケンベール大帝騎乗のMH姫沁金剛の指揮の元、こちらも一斉に全MH前進です!
 先陣を切るのはパイドル卿の駆るスペシャルチューンのMHアシュラテンプル。両肩が巨大に膨れ上がっています。


五つ目の見開き

 さらにフィルモア側の見開き!
 進攻するサイレン軍団の先頭から、クリスティンのV・サイレンが「突撃!!」の指示を叫びながら、地面に大爆発を起こしたような砂煙を立てて超加速で前方に、ブルーノが先に言っていた通りに、はねます!


六つ目の見開き

 今度は見開きで上下二段!

「音速突撃!! ハイランダーに 続け!!」

 総てのサイレンが、クリスティンに続いて超加速で飛び出します!
 さあそれを受けて、メヨーヨ軍も突撃、真正面から迎え撃つ!


最後の見開き

 両軍超高速の激突!
 大地と大気を一つに融かす衝撃波に、あたりの地面が捲り上がっていく様子が遠景から描かれて、これにて今回も次号に続くと相成りました。


まとめ

 「音速突撃」ですよ。
 たたみかけるような見開きのラッシュで描かれたこの戦闘法、つまり、MHの機動力にものを言わせて衝撃波を発生させながら敵陣に飛び込み、粉砕するという攻撃です。
 これ、素人考えですけど、多分、FSSという作品の中のMH戦、それも大規模な集団戦でないとありえない戦い方です。
 たとえば、歩兵や戦車は音速では動けません。艦船もしかり。戦闘機は相手の攻撃を受け止めるという意味での陣を組みません。SFの世界を想定しても、宇宙空間でこんな格闘戦を前提とした戦法は成立しません。
 MHという兵器の性能があるからこそ成立する、これはリアルにシュミレートされたその運用法です。
 つまり、FSSの読者だけがこの痺れるような格好よさを楽しめるのです。

 「数年越しで語られてきた悲劇を背負った剣の達人のブロンド美少女が戦場で己の宿命に向かい合って立つエピソード」と、「音速突撃」の二つ。
 どちらもFSS以外ではちょっとやそっとのことでは読めないでしょう。
 これだけのものを僕らに見せつけて、なおFSSは続いていきます。

 ああまったく、なんて面白いマンガなんだ!

 あ、そうだ。
 永野護先生、奥様、結婚十周年おめでとうございます。心よりお祝い申し上げます。

晴れ上がった青空の下で

 もう午前3時ですよ。
 あと6時間もすると、本屋さんが開いて月刊ニュータイプ11月号が購入できてしまいます。あかん、急ごう。
 と、急いでいるからというわけではないのですが、今回は見開きページごとの読み解きでは無く、描かれている各要素ごとについて、いろいろ考えてみるという書き方をしてみます。そのほうが今月は解り易そうです。


表紙

 フィルモアとメヨーヨの紋章が白地の誌面からはみ出す大きさで描かれています。これから両軍が大戦闘です。


両軍の紹介ページ

 見開きで、右ページにフィルモア軍、左ページにメヨーヨ軍の紹介がなされています。
 フィルモア側は大将の皇帝代理騎士(ハイランダー)クリスティン・ビィと、彼女御付の皇帝警護騎士であるビオレート・トライトン、ブルーノ・カンツァインという三名の騎士、そして三種のMHサイレンが紹介されています。
 対するメヨーヨは大帝クラーケンベールと彼のファティマ・アンドロメーダ、そしてこちらも三種のMHアシュラ・テンプル……いや、クラーケンベールのMH姫沁金剛の解説文を読むと、

「主力MHであるアシュラ・テンプルをチューンアップしたものと思われがちだが、その設計は根幹から異なり、アシュラ・テンプルよりも若干小柄である。その性能は不明」

とのこと。
 その上、メヨーヨ軍が揃って搭乗しているMHアシュラ・テンプルDDは、今回が初登場の量産型。以前にイラー・ザ・ビショップが駆っていたものと同型の騎体をアグファ・パイドルが使っていますが、ドラゴントゥースが取り外され、これもすでに別物。となれば、これから大暴れする中に、僕らの知っているアシュラ・テンプルは居ないという事ですね。
 両陣営のMHのカラーリングは、フィルモアが青系メヨーヨが赤系でその対称性が美しいです。


まずメヨーヨ

 クラーケンベールが超ニッコニコです。
 前回でこそ、星団最強の軍隊の最精鋭部隊といきなり鉢合わせてビックリ、参謀のアグファと顔を引きつらせて冷や汗なんかかいていた大帝ですが、前回のセリフにあった通りこれぞ「願ってもない」相手と、ゴキゲンで広報部隊に前線への展開を指示します。さらには戦闘会話以外を受信可能なオープンに、とまで大決定。星団中のTV観戦者に大サービスです。
 それから、星団中の注目するこのハスハ動乱の、このタイミングでここにやってきたフィルモアの判断を敵であるにもかかわらず褒めちぎります。
 まず前回のクリスティンの名乗りを受けて、あらためて彼女を名指ししてこちらも名乗りました。これでTVを見ている人達に、今回戦う両軍の「顔」が伝えられます。次に、「うまいっ!」とか「見事なタイミング」とか「他の国家がいまごろじだんだを踏んでるぞ」などと、解りやすく持ち上げます。
 こうやって誉めておけば、この後それに勝ったメヨーヨの株も跳ねあがるというわけです。
 元からフィルモアの騎士団といえば星団で最も強いとされているわけで、それに勝つだけでも十分に高評価が得られるわけですが、今回は指揮官がハイランダーであるとはいえこれまで全く無名だった新人の少女騎士クリスティンですから、クラーケンベールはまずそこに「素晴らしく有能である」と最初のレッテルを貼ることで、わざわざフィルモアの威信を保ちつづけます。
 口でいくら言ったところで、実際に相手が強くなるわけではありませんから、これは言えば言っただけ得です。
 そして、勝てば「あのフィルモアに」ということになりますし、よしんば不覚を取っても「あのフィルモアが相手だったなら」と、傷つく名誉は最小限で済みます。
 戦上手です。
 往年のプロレスラー・アントニオ猪木が大勝負の前になると必ず「今日は体調が絶不調だ」「スランプだ」などととインタビューに答えていたのが思い出されます。

 そしてもちろん、クラーケンベールは負けるつもりなんてさらさらありません。


受けてフィルモア

 こっちはメヨーヨ軍の絶賛アピールに対応する余裕すら無い状態です。
 騎士達は皆、緊張しまくった表情でトライトンの言葉を聞いています。まず彼等は、フィルモア帝国の最強騎士団員であるというプレッシャーと戦っているかのように思えます。過去の栄光は、そのまま、負けてはいけないという重圧です。額に揃って巻かれたフィルモア紋のハチマキが、気合を入れているという効果以上に、それを象徴しているかのようです。まさに決死。
 それぞれに小規模な内戦派兵などでの戦闘経験はあるものの、これほどの規模の集団戦闘を経験しているのは構成員の中でブルーノたった一人。なにより、大将のクリスティンは初陣なのです。
 戦の勝敗というのは戦場で決するものですが、戦前には必ず勝てるように準備をするものですし、戦が終わったら、勝ったら勝ったなりの、負けたら負けたその理由を追求します。この度の戦、もしフィルモアが負けてしまったならば……戦場での実情はどうあれ、敗因は、間違い無く初陣の大将であると星団中から思われることでしょう。そのためのクラーケンベールのアピールであります。

 そういう空気を解っているトライトンが、これから起こる戦の中で最も重要な事を、あらためて全軍に告げます。


そしてファティマ

「この戦… 貴公ら騎士が最も頼るべきは……」

「ファティマたちだ!」

 MHを操縦するためだけに産まれ、戦の中でのみ死んでいく生体コンピューター。殺戮の妖精・ファティマ。
 MHのファティマルームにそれぞれ鎮座する、五体のファティマが描かれています。全て異なるデザインのプラスティック・スタイル・スーツに身を包んでいます。緊張している騎士達とは性質の異なる張り詰めた空気。
 凛凛しさと、美しさです。
 彼女たちはこれから起こることを、恐れてはいません。いや、戦うのは嫌だ、恐い、なんて声や表情に出して言えるファティマは星団史上でもクローソーくらいではあるんですが……。
 ひょっとしたら、彼女たちの中には、これから起こる戦争が嫌で嫌でしょうがないと思っている者があるかもしれません。しかしその感情は、彼女たちがファティマとして産まれた以上は、無いものとして処理されてしまいます。

 このシーンに限ったことではなく、FSSという作品の描く数多いテーマの内でも最大のものの一つは、ファティマという存在の悲劇とその救済です。悲しみの糸は、これから約1000年後のAKDフロートテンプル内で、まさしくクローソーが断つその時まで、紡がれていきます。

 しかしまた、このシーンの彼女たちの美しさは、その悲劇性だけが要因ではありません。
 彼女たちは、騎士から頼られています。彼女たちのMH操作補助、情報処理、戦況判断、指示、そういったものの頑張り次第で、愛する自分の騎士は命を永らえ、戦功を上げられるのです。これは集団戦ですから、自分の頑張り次第ではまわりで戦っている親しい仲間たちも助けることが出来ます。戦に不慣れな騎士たちにとって、経験を積んだファティマたちの判断こそが、最も信頼すべき次の一手になります。
 コミックス7巻に収録されているエピソードで、ボロボロの中古MHアパッチを駆る騎士アーレン・ブラフォードを、大好きなソープのMHと戦うというジレンマに激しく嘔吐させられながら、それでも懸命にサポートしつつ、ファティマ・京は心で叫びました。

「主に星を取らさず何がファティマか!」

 戦う彼女たちの誇りと気高さを、何者も否定することは出来ません。気高さとは、自らを省みず人の為に尽くす者を賞して贈られる言葉です。
 かのクローソーが、過去に自分の意思でただ一度MHを操縦して敵を打ち倒したのも、コーラスを守るためだったのです。

まとめ

 いつ、いかなる場面でも、仲間を救おうとする行為を「正義」と呼びます。(これの対概念は「不義」といって、人の道から外れた行為という意味です。「悪」の対概念は「善」です)
 正義という言葉は、特に政治の舞台などでは胡散臭い使われ方をされることが往々にしてありますが、僕は上記の意味以外で使われるこの言葉に出会った時はそうとう用心することにしています。あ、英語の「justice」は「公平」が適当な訳だと、英語は不得意ながらも僕は思います。justiceだけど不義なことというのは、ちょくちょく世の中にあるのではないでしょうか。
 今回のFSSを改めて読み返しながら、また現在この世界で起こっている痛ましい事態を思い、こんなことを考えていました。

 FSSという作品と出会って12年。他の多くの作品や、出来事、人物との出会いと同じように、この作品からも、僕は様々な影響を受けています。

 FSSの世界において、魔法は超帝国の遺伝子技術の果てに産まれたものであり、巨大ロボットは超高出力のエンジンを積んでいるという設定の元に、僕らの了解する物理的にもウソ無く稼動します。遺伝子技術も、ハイパワーエンジンも、僕らの知っている科学の先に想定できるものであって、限りなく飛躍に近い発想ではあっても、僕らの常識と地続きで繋がっているものです。
 魔法=不思議な力、巨大ロボット=超エネルギー動力という説明だけで、書き手が満足してしまうこともできるのに、それをしていないFSSという作品の凄さ、作者のこだわりの価値、そういうものに気がつけたのは、つい最近のことです。
 これは、目的のある作品世界を構築するためには、とても重要なことなんだと思うのです。
 「FSSはSFではない」と作者も明言していますが、あえて有名なSFの常套句にこの作品をあてはめてみます。

「SFで、使って良いウソはたった一つである」

 これはSFというジャンルに限らず、ある作品の完成度を計る上で一つの目安になるものだろうと僕は思っています。(もちろん、これに当てはまらず、かつ、完成度が高い作品は無数にありますよ!)
 FSSは唯一つ、「遥か未来の出来事である」という以外のウソは、原則として使われていません。「神様」役の登場人物以外の仕掛けは、すべてこの一つのウソに集約されて、作者の想像力の産物として説明がつきます。さらに言うなら、そうやってきちんと構築されている世界があるからこそ、その許容範囲を超える能力を持った存在が「神様」役をこなせるわけです。世界の構築が確り出来ていない物語では、登場する神様役もそれなりなものになりがちです。
 だからこの作品では、人の悲しみは、悲しみとして正しく描けるし、喜びも描かれるし、怒りも、楽しみも存分にそこに描くことが出来るのでしょうし、またさらに、それを超越する神様も描けます。効果がループして、積層し、僕らにより深く訴えてきます。

 はじめは、「わぁロボットかっこいい!」でした。次に「お話面白い!」で、それから「コンコード可愛い」「ソープ様美人~(?)」という具合に、僕はFSSという作品を楽しむようになりました。
 それから何年かおきに、生活の中で何かを学び、あらためてFSSを読むと、それはすでにそこに描かれていた、それがやっとわかった、そういう体験を何度もしています。

 この一ヶ月、やはり、FSSというのは優れたエンタテインメントで、楽しむために読むものですから、アメリカのテロ事件でショックを受けた僕はページを開く気になれず、全く触ることが無かったのですが、こうして開いてみると、そこにはすでに「人(ファティマももちろん含む)の悲しみ」が、これでもか、これでもかと描かれていたのでした。
 お話の展開として、この先はしばらく悲しみの要素を含んだ場面が続くように予想されます。FSSが優れた作品だからこそ、それを読むことを辛いと感じてしまう気持ちが、心に現れるかもしれません。
 これはもちろん、FSSや、他の戦争的場面を描く全ての作品のせいではありません!
 しかし、それを受け取る側に、楽しめない人がいるという現実は、やはりそこにあるでしょう。


 FSSに描かれているドラマの中でも、最も美しい場面の一つが思い起こされます。
 コミックスの9巻、星団初めてのファティマシリーズ・4ファッティスの一人、インタシティがハルペルとして老衰死を賜る場面です。
 彼女を慕う多くの人々に囲まれ、彼女の悲劇と栄光を共に駆け抜けたMHエンプレスとMHビブロスに見守られ、彼女は息を引き取ります。
 これは戦いによらず天に召された唯一のファティマの記録ではないでしょうか。
 人なればこそ、このような最期も訪れて然るべき。

 それでは数時間後に、「読み解け今月のFSS11月号」でお会いしましょう。
 ただいま、朝の8時です。

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