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大した事ではないけれど

このHPで、いつも僕の好きな話題に付き合っていただいて、ありがとうございます。
いつもマンガや映画やアニメの話なんかを、頭に浮かぶままに更新させていただいております。このHPが存在することの思想的基盤である「こどものくに」の実現のために、本来ならばもっと近道の方法があるのかもしれませんが、僕としては、汗水たらして主張する重苦しい「思想」ではなく、僕も含めた、誰の負担にもならないようなちょっとしたアイデアというスタンスでこの考えを広めていくために、そして僕自信が気楽に続けて行けるように、自分の得意な話題ばかりで構成させていただいています。
マンガやアニメやゲームや、その他多くの面白いもの達について、自分なりのスタンスで語って行って、一カタマリの「てなしもデータベース」を作ること、それが、このHPの現在の具体的な目標です。
今はまだ雑文の寄せ集めでしかありませんが、この先、次第にテキストが蓄積されていくことで、次第に統計立てられた僕の物の考え方というものが浮かび上がって来ると思います。
それによって、この時代に生きた一人のオタクの参考資料として、このHPのデータが後の時代の誰かに役立ててもらえるかもしれませんし、今現在、なにか面白いものが無いかと探している人に対しての、ちょっとしたガイドブックになるかもしれません。

先日、1日で200人もの方がこのHPを訪れてくれたことがありました。まあ、再びここを訪れてくれた方はあまりいないのだと思いますが、それでもそれだけの人に、こどものくにという言葉を見ていただくことはできました。
一度目に入った情報は、その人の脳内に沈殿し、決して消えることは無いといいます。人間の脳は、デジタルデータに換算しておよそ一兆バイトほどの記憶容量があるらしいのですが、その中のほんの数バイトに記録されたこの言葉が、いつの日か異なる角度からの情報でまた蘇り、意外なところから社会の一端に現れることがあるかもしれません。

僕はそう考えるだけで、このHPを始めてよかったなあと、すでに考えてしまえるのです。

言葉について

現時点で、インターネットを使ってコミュニケーションをとろうとする場合、そのほとんどは文字を使ったものになります。
画像付きのインターネットTVやマイクを使った通信は、まだそんなに一般化していませんし、文字による意志の疎通というのは、多少の不自由があろうともそこそこに高度なコミュニケーションも可能にするため、今日多くの人にそう問題無く受け入れられています。
すでに人類は手紙という、文字を使ったコミュニケーションを昔から使っていましたので、簡単に受け入れられたという側面もあるでしょう。

「文字」というのは我々が使っている道具の名前ですが、「言葉」というのは、「人から発せられた、何らかの意志のこもったもの」であります。
たとえば、目の前にいる人のちょっとした含み笑いの仕種なんかも、僕は「言葉」と考えてしまっていいと思っています。(こういうものを指して「非言語コミュニケーション」なんて呼ぶことがありますが、今回はこの名前は適当ではありません。もう少し大きな問題を扱っているからです。)

さて、我々はインターネットで、文字を使って言葉のやり取りをしているわけですが、これに関して、イロイロ思い付いたので、ここでお話したいと思います。
掲示板なんかに書き込む時に、ある文章のほんの一個所の助詞が間違っているだけで、読んだ人をすごく不快にさせてしまうような意味に変わってしまうことって、まれにありますよね。自分の打った文章でも、接続詞が間違ってることに気が付いたりして、アップする直前に慌てて書き直す、なんてことがあると思います。
そんな時に、ふと手を止めて考えてみたんです。これを、修正しないままでアップしたらどうなるだろうかって。それどころか、その気になれば文章に使われている文字なんてどうにでも書き換えることが出来ますから、もっと、ヘンなことを書いてアップしてみたらどうなるだろうって。
そもそも最初にその文章をキーボードで入力したのは、なにか伝えたい事があったからなわけですが、自分の「伝えたい」という意志に関係無く、しょうも無い文章をアップしてしまうことは、労なく簡単に出来るわけです。
自分の中に、どれほど伝えたい意志があったとしても、画面上に表示される文字に、その意志を伝える「言葉」としての機能が備わっていないと、意志は向こうには伝わらないわけです。

実際のチャットなどでは、ちょっとした打ち間違い程度では問題はなかなか発生しません。人には、言葉の流れ、「文脈」というものを読み取る力があるからです。文脈に沿うように、相手の発言の意思を汲みとろうと受け手の気持ちが働きます。
これは、文字を通じて言葉のやり取りをし、お互いに意思の疎通がなされているから出来るわけです。これが、直接人に会っている状態では、お互いの表情や、身振り手振り、会話の間などの「言葉」によってさらに補完されます。(「間」は、ネットでも使われることが有りますが、通信状況の問題や急の用事などが絡んだ時にそれが上手く伝わらないため、あまり有効な「言葉」としては機能しません。)
ある程度「言葉」が限定されてしまっているネットという状況下で、お互いの意思を連続的に汲み取ろうとすると、これは、お互いに心を開き合わないといけません。ここに、不思議な出来事がおこります。面と向かっていてもなかなか人の意思というのは分からないものですが、ネット知り合った人というのは、妙に仲良くなれます。これは、お互いがすでに相手に心を開いているからでは無いでしょうか?
よく、新聞などでは「インターネットでの希薄な人間関係」なんて言葉を見ますが、そんな希薄なんて言われるものに心を捉えられるというのも変な話でしょう。お互いに、「言葉」が少ない状況下で、より上手に意志の疎通をするために、お互いの心を開き合える、それがインターネットの人間関係なんだと思うんです。掲示板なんかに初めて書き込んだ時や、チャットに初めて参加した時の楽しさというのは、自分の心が開いていく気持ちよさなんだと思うんです。
だから、インターネットで傷つけられると、傷は簡単に心の深いところに届いてしまうのではないでしょうか。ただ、さっき述べたように「文字」と「意志」は直接繋がってはいませんから、その人がどんなに優しい考えでいたとしても、書き込まれる文章がひどく荒々しいものになってしまうこともありえます。だからこそ、人を傷付けてしまわないように、書き込みには細心の注意を払うことが必要ですが、文章を読む時に、自分が傷ついてしまいそうだったら、あえて相手の意志を読もうとせず、心を閉ざすことも必要です。
あなたの心が深いところまで傷つかなければ、あなたはまた、優しい言葉を人にかけてあげることが出来るはずだからです。

インターネットは、人がお互いをより理解しあえる素晴らしい道具であり、人類が獲得した新たな能力なんだと思います。人は古来より、様々な方法で自分の「言葉」を他の人に伝えてきました。新しいものを怖がり、「悪いものだ」と騒ぎ立てるのは人間の癖ですが、これを上手く使えない人というのは、じきに人類失格になってしまうかもしれませんね。

バベルの塔再び

前にここでお話した「バベルの塔」について、少々その続きを。

一年ほど前に、僕の実家のマンションはまるごと地元のケーブルTVに加入しました。お陰で、一日中アニメや格闘技を堪能出来るようになったのですが、別にマンションに住む人達みんながそれを観たかったわけは無く、高い工事費まで出し合ってそんな事をした理由は、最近、TVの映りが悪くなったから、というものでした。
同じような理由でこの数年の間にケーブルTVやCSに加入された方も、結構いらっしゃるのではないでしょうか。特に、都市部では高層建造物などの電波障害がひどく、そうせざるをえない場合も多いと聞きます。
我が家の場合、ケーブル放送への加入が決まった時点では、TVの画像の入りが悪い理由は不明でした。特に深くも考えずに、そういうものなのかな、と受止めていました。僕の住むマンションは、同じ地上10階建てのマンションが群れのように立ち並ぶ地域の一角にあり、その中でも早い時期に立てられたものだったので、うちのマンションは高い、という自覚がありまして、他の建物のせいでうちに電波障害が起きるという発想が無かったのです。
ところが最近になって、どうやらその犯人が分かってきました。やはり高層建造物。はるか南東の地に並んで二本そびえたつ、名古屋駅新ビル、通称「タワーズ」です。あの双子が、名古屋のTV塔の電波を反射して、その干渉で僕らの住む地域全体に被害が出ていたようなのです。
名古屋駅までの線路はほぼ真っ直ぐ。家のすぐ近くの駅から電車に乗って30分ほどかかりますから、それほど近いというわけではではありません。そんなに影響があるとも思えなかったのですが、電波関係に詳しい友人に聞いてみると、あながちデタラメという感じもしません。

さてさて、ことの真贋は置いておきまして、世界で最も多くの人に読まれている本である聖書には、奢り昂ぶった人々が神に近づこうとして建てた高い塔の話が出てきます。醜く肥大した欲望をさらけ出す人々に対して、神はどうしたか。まず雷を落として塔を砕き、そして神は、人々の言葉を乱しました。それまで言葉の通じ合っていた人々はお互いに意志の疎通が出来なくなり、その後、人々はそれぞれ別の場所に暮らすようになったとか。この事件が、世界各国に異なる言葉がある由来なのだと、聖書には書かれています。
僕は一部の聖書絶対主義者ではないので、もちろん「聖書は現代の電波撹乱の状況を予言していたのだ」なんて思っているわけではありません。ただやはり、この現代社会との奇妙な符合には、興味をひかれます。
聖書が描いていたのは、人類の愚行についてです。悲しいことに、愚かな行為というのは、当事者にはなかなか分かりません。人類が大きな塔を建てまくっているこの世紀末の光景、そして電波という「言葉」を乱された我々の姿。自分で自分の手をツネり、「痛いなあ」と怒っている感覚。
もし、どこか高いところから見ている人がいたら、さぞや滑稽でしょうね。「ああ、昔と同じ事をしておる」なんて笑われている気がします。

乱暴な言葉の功

はじめに断っておきますが、これは、非常に不謹慎なこの「愚かな大衆」という言葉の存在にも、僕はそれなりに意味を見出しているという話です。

言葉というのは、発生した瞬間に、二つの対象をもっています。言葉の発し手と、言葉の受け手です。僕は、「愚かな大衆」という言葉に対して、まず自分が受け手であると考えます。極端な被害妄想ですが、「誰か偉い立場にいる頭の悪い人が、自分のことを愚かな大衆の一人としか見ていない」と、考えてみます。
そうすると、自分の自尊心がむくむくと膨らんできて、なにかしてやろうという気になってきます。人の気を引くこと、人の役に立つこと、人には出来ないこと。悪いことをしてもしょうがないですから、人に誉められることをしようと思います。
そして、何かをするには自分の能力が足りないということに気が付いて、勉強をはじめます。誰から見ても「愚か」と思われないように、思い込みで物を判断しないようにしたり、一つの物事を様々な角度から考えられるように訓練したりします。
ある程度勉強が進むと、だんだんと自分に自信がついてきます。他の人と違う意見が言えるようになったり、他の人が気が付かないことにいち早く気が付けるようになったりします。
すると、増長が始まります。この増長こそ、長い人類の歴史の中で多くの災いを引き起こした、人間の悪徳です。さてここで、もう一度「愚かな大衆」という言葉を、今度は送り手の立場で蘇らせてみます。
するとあら不思議、この増長が引き潮のように引いていくではありませんか。いつのまにか自分が、「愚かな大衆」という言葉を平気で使うような、「偉い立場にいる頭の悪い人」になっていたことに、気が付かせてくれるのです。

人は、その一人一人がそれぞれの顔と考えを持ち、「大衆」と一くくりに出来るものなんてこの世に存在しません。たとえ多くの人の中に良くない考え方をする人がいても、そのすぐ隣にいるのは賢者かもしれないのです。
世間にいる人一人一人の顔が見えなくなり、「大衆」と感じるようになってしまったら、それは、危険信号です。それは、「無い物が見える人」になりつつあるということなのですから。

「愚かな大衆」という、不謹慎で、ありえない言葉は、その不謹慎な響きとはうらはらに、人の向上心を活性化させ、そして醜い自我の肥大を抑制する働きがあるんだなあなんて、ある夏の日に、考えてみました。

バベルの塔

バベルの塔

僕の住む愛知県春日井市からは、天を突く二つの塔が見えます。
小牧の「ザ・シーン」と名古屋駅の「タワーズ」です。
先日、新宿の都庁も見てきました。「大きな塔」つながりでいくと、浜松の「アクトシティ」、新・東京タワーなんて構想もありましたね。

世界で一番読まれた本の中に、奢り昂ぶった人間が神に近づこうと建てた塔の話がありますが、現代日本とのこの一致は、決してその本を読んだお金持ちが実行した結果ではありますまい。
様々な経済的思惑を持って建てられた塔たちは、しかし、聖書に書かれた愚かな人々の行いに似ていて、人の業の恐ろしさを感じてしまいます。

皆さんも、自分の住んでいる町から見える建物を、見まわしてみて下さいな。
人の作った物を見て物思うのも、また一興です。

死について

道を歩いている時に、車道の自動車が突然飛び込んできて、跳ねられて死んでしまうってことがありますよね。
もし僕が明日そうなったとすると、僕からのメールとか、会議室への書き込みとか、HPの更新とかが止るわけです。
そうなると、これを読んで下さってる皆さんは真実を知りませんから、「てなしものやつ、最近さぼってるなあ」とか「とんびさん、最近書き込みに来ませんねえ」とか「源は新作書く気無いのかな」とか思われるわけです。
それでも僕は現れませんから、次第に皆さんに忘れられて行くわけです。

自分が不慮の事故に遭ってしまうことを想像すると、そういう事が恐くなります。「死んだり病気になったりは突然やって来るから、いつも身を落ち着かせて、出家出来る時に出家してしまいましょう」と「徒然草」に書いてありますけれど、僕は欲が深いのかそんな事をする気にもなれません。
それで、このHPを作った理由の一つは、「死後も残るものを作っておきたい」ということだったのかな、と思うのです。
もともとは「こどものくに」の思想を世に知らしめたい、という目的のために始めたのですが、いざやってみると、とにかく自分の頭の中にあるものを一つでも多く皆さんに見てもらいたい、という欲求が湧いてきます。
もちろん、遺書なんかにするつもりは毛頭ありませんし、皆さんに楽しんでもらえるようにこれからもガンガン内容を膨らませていきます。
ただ、もし僕に何かがあった時でも、僕の銀行口座にプロバイダーに支払うお金が残っているうちは、このHPが僕の分身としてネットの世界に残り続けるわけです。
・・・・・・何だか話が「攻殻機動隊」みたいになってきました。

この話題は、「押井守の話」の中の「『攻殻機動隊』を読み解く」の方で、のちのち展開することにしましょう。
(もう少し内容が充実してきたら、共通の話題がある時には、異なるコーナー間をどんどんリンクで繋げて行く予定です。異なる話題を繋げて、そのシナジー効果によって面白味を増すのが狙いです。)

本題

僕らはこれから何をしていくのだろう?
 2003年2月現在、このサイトの主催「てなしも」は26歳です。
 この歳までそれなりに健康に生きてこられたので、これから先も普通に生きてゆけば80歳か90歳くらいまでは生きられるでしょう。
 20世紀のうちに大人になり、21世紀をまるまる生きていく計算になります。21世紀におこる、良いことも、悪いことも、総てを体験していくことが出来そうです。
 22世紀はたぶん、見られないでしょう。

 21世紀なんて、ほっといても体験できるんです。だから、100年先の22世紀の話をしましょう。

 100年後の世界で、僕はこの国が「こどものくに」であって欲しいと思っています。
 今、日本から世界に向けて、アニメやマンガやTVゲームによって、高濃度に圧縮された「日本文化」が発信されています。
 それに触れた子供達は、箸でご飯を食べ、瓦屋根の家屋に住み、家の中では靴を脱いで畳の上を歩く主人公達の世界を受け入れています。
 いずれ彼らは成長し、世界を知り、気づきます。それは「日本」なんだと。
 この国はその時、彼らが訪れてみたい世界で一番の国になっているはずです。それが「こどものくに」です。

 社会の構成単位の最小のものは家族です。家族の中でも子供は大切にされます。
 日本では、子供を基準にして家族間の呼び名が変わるというおもしろい決まりがあります。名前で呼び合っていた新婚夫婦が、子供ができる事で「おとうさん」「おかあさん」になり、第二子ができると第一子は「おにいちゃん」「おねえちゃん」になります。子供が結婚してさらにその子供が産まれると、最初の夫婦は「おじいさん」「おばあさん」になります。
 世界には現在、約三千種の言語がありますが、このように呼び名が変わるのは今わかっているうちでは日本語文化圏だけだそうです。

 日本には、子供のための文化がたくさんあります。無理に欧米のメインカルチャー/サブカルチャー文化に合わせようとせず、日本の文化を自然に伸ばしていけばいいのです。
 子供のためのメディアを創り、それが乗せられるハードやネットワークを生産、整備し、子供のためのインフラを構築する。
 地球全体が情報化していく中で、世界中の子供は、大人になるまでに一度この国を訪れたいと思い、そうやって訪れた子供達が大人になった時、また自分の子供をこの国へ連れて行きたいと思う。そんな国にしていったらいいと思います。
 子供のために何かをしてあげること、それは大人の仕事です。
 21世紀を大人として体験する僕は、この世紀をそうやって過ごしていきたいと思っています。


 この考えを面白いと思ってもらえたら嬉しいです。
 ご意見、ご感想などなどがありましたら、こどものくにの会議室のほうにでもお知らせいただけるとありがたく思います。

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