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光と闇の境界線

「天井嘗め」というのは、住人の知らない間に家に入り込み、天井に染みや陰を作る妖怪です。現在ではマイナーな妖怪ですし、皆さんほとんどの方がご存じないと思います。
ぴょんぴょんと飛び上がって、その長い舌で天井を嘗め、暗い染みを作りますが、なぜかその姿を住民に見られることはありません。
江戸時代の妖怪紳士録「画図百器徒然袋」、その中の「天井嘗め」のページには、うろこやえらのびっしり生えた老人のような姿をしたものが天井に舌をのばしている絵が、以下のような一文を添えられて掲載されています。

天井の高は灯(ともしび)くらうして冬さむしと言えども、これ家さくの故にもあらず。まったく此怪(くわい)のなすわざにて、ぞつとするなるべしと、夢のうちにおもひぬ。

この文の意味は、徒然草に「天井を高く作るのは、冬は寒くなるし、明りも届かなくなるので部屋が暗くなる。(家を作るのは夏ではなく、冬を基準にすべきである。)」とあるのを受けて、「それは家の設計の所為ではなく、この妖怪がいるからだ」と反論しているというものです。
つまり、部屋の明りが天井の隅まで届かないのは、この妖怪が闇を作っているからであると。

ここで、そんなアホなと思ってはいけません。試しに、あなたのいる部屋の天井を見上げてみて下さい。電灯の明りが届かずに、隅の方がぼんやりと暗く染みのようになっていませんか?もし部屋の電気を点けていないのだとしたら、パソコンモニターの淡い光の他はあなたは闇に包まれていて、天井どころか足元すらおぼつかないでしょう。
さて、なんで電灯やモニターの明りが部屋の隅まで届かないか、あなたは説明出来ますか?大抵の人は、「光が弱いから届かない」とか「光が部屋の中の空気によって減少するから届かない」くらいしか思い付かないのではないでしょうか。僕はそうです。「光は粒子と波の性質を同時に持ち、物質によって遮られる」というような、中学生の頃にならう科学の基礎知識でだいたい説明をつけるでしょう。
しかし、冷静に考えてみれば、本当に光の性質について良く知っているわけでは無いですし、そもそも「光ってなんだ?」という問いに科学的に答えられる人はなかなかいません。まず普通は、わかったような気になっているだけです。
では、まったく科学的知識を持たない人がこの問題を考えると、どうなるでしょう。
ロウソクに火を点けます。ぼやっと周りが明るくなりますが、部屋全体を照らすわけではありません。手で遮ればその陰は暗くなりますから、光はロウソクから真っ直ぐ伸びているということには、すぐ気が付けます。では、なにも遮るものが無いのに光が弱まってしまうのは、どういうわけでしょう。とても難しい問題です。地上には空気が水のように満ちていて、それがだんだんと光を弱めているなんて、思い付きようもありません。わかりません。でも、その事実は目の前にあります。わからないから、恐いです。
そして、人が恐れを抱いたところに、妖怪は現れます。

床に置いたロウソクの明りが、天井まで届かない。それは、「天井嘗め」が天井や部屋の隅の方に、闇や染みを作っているからなのです。天井は人の住む全ての部屋の中にあるにもかかわらず、人がそこに行くことはできません。天井は、家の中の異界なのです。
結局のところ理解出来ない光の性質の、理解出来ないという未知ゆえの恐ろしさ。その人としての感情までを内包した、「天井嘗め」という妖怪の存在は、実に機能的な説明機構です。

時代が現代に至って、エジソンの発明などの結果、明りの技術は飛躍的に発展し、人は家の中どころか街中から闇を消し去りつつあります。人は、いまだに闇が恐いのです。恐い物を克服しようとせず、遠くに追いやることで見ないようにしています。
それでも、闇は僕らの家の中にも、僕らの体の中にも、深海にも、宇宙にも、海辺にも、裏山にも、川辺にも、どこにでも依然として存在しています。そこにあるのに、無いことにしていたって、いつか矛盾が出てきます。しかし、海を恐れ、山を恐れ、闇を恐れることでそれらと対話し、理解してきた先人の知恵は、すでに失われつつあるのです。
本来、闇に潜む恐ろしいものの話は、隠居した老人が、就労前の子供たちに語ることで受け継がれてきた、大切なこども文化の一つですが、今の日本には語る老人も、話を聞く子供もほとんどいなくなっています。だから僕は、「こども文化国家の設立」というこのHPの趣旨に乗っ取って、皆さんに自分の知る限りの「妖怪の話」を紹介していきたいと思います。

それでは又、次回の講義で。