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状況次第ですけどね

戦争に勝ちました。激しい消耗戦の末であっても、戦闘行為が全く無い無血開城だったとしても、勝ちは勝ちです。ちなみに、最上の勝ち方は、相手がそれが戦争であったことに気が付かないままに、勝つ事です。近代の、戦闘行為を伴わない情報戦なんかでは、よくこういう事があります。負けた側は、それが戦争であったことに気が付いていないのです。

勝った直後から、今度は戦後処理という段階が始まります。まず気を付けなければならないのは、敵を完全に死滅させたので無い限りは、勝ったからといって相手に対して好きなことが出来るわけでは無いということです。
相手は負けたわけですが、生きている限り、戦後も生き続けようとしますし、いろいろな要求も出してきますし、不平不満も言います。もちろん、勝った側にはそれらを総て跳ね除ける「権利」はありますが、ただ勝者の論理を押し付けるのは、あまり上手い統治法とは言えません。不満を溜め込んだ敗者は、いつかまた軍備を整えて、戦争をしようとするかもしれません。そうならないように、相手が再び戦争を行えないように仕組みを整えるか、いつか戦争を吹っかけて来ても絶対にこちらが勝てるように仕掛けを打っておく必要があります。
つまり戦後処理というのは、次の戦争に勝つための準備の段階なのです。戦争の終わりは、次の戦争の始まりなのです。

上手な統治の話ですが、まず、負けた側からこちらに対する敵対心を取り除くことからはじまります。なにかこちらの圧倒的な物を見せるという方法でもいいですし、優しく丁寧に相手を扱うのでもいいでしょう。他者の警戒を解くというのはなかなかに難しいことですが、戦争を仕掛ける前からこの段階のことを計算しておくと、事がスムーズに運べるでしょう。例えば、こちらは豊かで幸せであると戦前からアピールしておく。または、もともと敵意は無く、友好的ですよというポーズをとっておく。さらに、相手がそれが戦争であったことに気が付いていないようならば、この段階はかなり上手く行くはずです。

警戒心を解いたら、向こうに分かり易い言葉で、「教育」をはじめます。優しく優しく、相手の牙を丸めていきます。最終的に、こちらを味方だと思わせることが出来たら、成功と言えるでしょう。この段階のコツは、相手に入る情報を制限し、考え方や感情を操作することです。先の先まで見据えて、ゆくゆくは自分の側に最大の理が出るように、かといってうわべは向こうを思いやっているように見せながら、教育を施します。この作業には極端な二面性が必要なことが多いので、個人レベルでこの作業を行う場合、大変な精神疲労を覚悟して下さい。国家レベルならば、組織の力で行えるので、それほどの精神負担は無いでしょう。

この段階で注意すべき所は、「教育」が完了していない複数の人間に、組織や閥を作らせてはならないということです。彼らは、内部で盛り上がって、こちらの思いも寄らないような方法や考えで、厄介な行動を起こしはじめるかもしれません。また、お互いで情報交換や意見交換をしているうちに、自分達がされている偏った教育に気が付くかもしれません。かといって、特定人物の隔離や、露骨な情報規制は、こちらに対する警戒心をおこさせてしまうので、やらない方がよいでしょう。一番良いのは、彼らが自分の意志で選んでいるつもりで手に取る情報が、すでにこちらの教育による選択基準で選んだものになっている、というようにすることです。そのためには、戦後処理の一番初めに、相手の趣味や興味を調査し、それに沿った「教育」を検討する必要があります。これは、大変骨が折れる作業ですが、労力を払う価値のあることです。

「戦後処理」を上手に行えば、相手はもう、こちらに敵意を持つことはありません。ある程度以上に教育が済んだ相手に対しては、それ以降、常に戦わずして勝つ事が出来るようになります。このように戦闘がおこらない状態を、人は「平和」と呼びます。(本当は「平和と戦争」というのは対概念では無く、戦闘無き戦争という状況は平和な時代にも常にあるのですが)
人類の普遍の夢が「恒久平和」であるならば、今の時代の人類がなし得る方法としては、この状態がもっともそれに近いものであると言えるでしょう。


昨日、今日と、僕は、随分おぞましいものを書いている気がします。一応、戦争というものを効率よくこなすための「技術」について書いているつもりなので、思想とか、宗教といった話には触れませんでした。つまり、「ハサミの使い方」みたいな話をしているつもりなんですが、どうにも、自分の中に奇妙な感情が湧いてきてしまいます。
今回、最近自分の身の回りに起こっていることや、この国の歴史に取材をしてこのページを書いたんですが、この「雑記15・16」を通して、僕は、地球上から戦争というものが無くならない理由が、ぼんやりと見えてきた気がします。

ちなみに、うちにはDCが二台あります。両方とも29800円で買いました。

戦乱が起こると、戦闘術の研究が盛んになります。
日本の近代の夜明け、幕末の時代は、激しい内乱の時代でもあり、渦中の若者たちは、ある者は高名な師について厳しく身を律し、ある者は自己流を貫いて、己の抜刀術に磨きをかけたのでした。
こういった技術が広まっていくうちに、一人、また一人とその道の”天才”と呼ぶしかないような者が現れます。とにかく強い。徒党を組んで襲い掛かっても、ものともせずに皆、なで斬りにしてしまう。しかし、なんとかその天才を斬らねばならない、斬らなければ、時代が変らない、という事態が、そのころには少なからずありました。
すると、またある種の天才によって、「天才を斬る方法」というものが何通りも編み出されます。どれほど修行をしても天才には到底及ばない剣客たちが、それでも天才を斬り殺す方法というものを体得します。そのうちの一つに、「初太刀で殺す」というものがありました。
いきなり襲い掛かって、その一刀めに、文字どおり命を懸けるという、とんでもなく乱暴な方法です。それを避けられたら当然その刺客は返り討ちに遭うわけですが、それを恐れて斬りかかれないような者は、役に立たないとみなされるような時代でした。
もちろん、先制攻撃は近代戦闘においても非常に重要です。最初の一撃で決定的なダメージを与えられれば、その時点で勝負は決します。しかし、それを耐えられてしまうと、手痛い反撃を受けることになります。

セガのドリームキャスト(以下DC)は、ソニーのプレイステーション(以下PS)とのゲーム機競争に一度は敗北したセガが、PSには無い新機能を満載して市場に送り出した、新世代のゲーム機です。
新しいケーム機を出す、という行為に関しては、いろいろと意見があるところですが、まあ、それは今回の論旨から外れるので置いておきまして、とにかくセガはこのDCで家庭用ゲーム市場の巻き返しを図っています。相手は、現時点で国際標準家庭用ゲーム機であるPSと、その後継機プレイステーション2(以下PS2)です。
後発の強みで、DCの性能はPSを大きく引き離しています。PSではできなかったいろいろな遊びが、DCでは出来るようになっています。ところが、2000年3月発売予定のPS2は、さらにDCを遥かに越えた高性能ゲーム機であると発表されています。
情報戦の発達した現代では、先に動いた方は徹底的に研究され、それに対しての必勝法を練られます。じゃんけんのように、後出しの方がなにかにつけて有利なのです。相手がチョキを出しているのが明らかなのですから、確実にグーを出してきます。先に動いた側が相手に勝つためには、幕末の人斬りのごとく、初太刀で勝負を付けて、相手がグーを出す前に勝っている状況を作らねばならないのです。

そして、DCは、その戦法をとってはじめから販売戦略が練られていると、発売当初から僕は感じていました。本体の発売直後から、かつてない良質のゲームソフトが揃えられ、その後も毎月、目玉といえる強力なソフトが連続で発売され、インターネットを使ったサービスも満点です。
いくつかのつまずきもありましたが、結果として家庭用ゲーム機としてはPSや過去の任天堂の傑作ゲーム機スーパーファミコンを遥かに上回るペースで本体は売れています。
しかし、PS2を戦わずして殺してしまうだけのシェアには、到底及んでいません。
セガは、間違いなく本気で、家庭用ゲーム機の覇権を狙っています。そして、いくつかの要素で、それは不可能でないと言えます。その最大のものはDCの発売時期で、発売日からそろそろ1年が経とうとしているわけですが、DC最大の敵PS2が市場に登場するまでには、まだ、あと約半年の猶予があります。この時間的優位の効果は巨大です。つまり、DCの初太刀は、まだ生きているのです。そしてPS2という実物の刃が市場に出て来るまでに、もう一度ゲーム業界最大のかき入れ時である、年末商戦を迎えられるのです。
PS2が出て来るまでの間に、DCをどこまで普及させられるか。どれだけ、DCでしか楽しめない遊びを提示出来るか。ゲーム業界のシェア戦争は、まだこれから半年の間に大きく変る可能性を残していると、僕は考えています。

今日は、「DCはもうだめだ」なんて最近特に声高に言う人がいるので、そんな事はないよ、と自分なりの分析を述べさせていただきました。

場合に寄るんですけどね

いきなりですが、戦争を行う場合には、いくつかの段階があります。

「こいつと戦争をするぞ」という気持ちになっても、いきなり襲い掛かったり、宣戦布告をしてはいけません。
まずは、相手との交渉の席を設けます。この場合も、敵意万々で近づくようなことをしてはいけません。この段階では、相手に、こちらの戦争の意志を気取られない方が良いです。笑顔の一つも作れれば上出来です。その席で、相手から譲歩を引き出すための交渉を行います。戦争をすることによって結果的に奪う予定のもの、その数倍の要求を吹っかけるとよいでしょう。最低でも、奪う予定のものそのままを欲しいと要求すべきです。これは、相手を怒らせるための要求、などという生易しいものではありません。この段階はすでに戦争です。この段階で戦争を終了出来るように、まずは全力を尽くすべきものです。
もし、ここで、相手がその要求を飲んだら、用意した矛は素直に納めましょう。あなたは戦闘無き戦争に勝ったのです。

相手が要求を飲まなかった場合、今度は開戦のタイミングを伺います。状況次第では、相手が要求を断った瞬間にナイフを突き付けるのが最善である場合もありますので、交渉中から緊張感を失ってはなりません。
この段階では、とにかく相手の虚をつくことが大切です。センスとスピードが重要です。そういう意味では、すでに戦術の才能が必要な段階であると言えます。

戦争は、相手があってはじめて成り立つものですから、相手をよく知ることが大切です。開戦前に、相手の情報を出来るだけ集める必要があります。孫子曰く、「敵を知り己を知れば百戦して危うからず」です。交渉の席での、相手の対応やこちらからの呼びかけに対する反応などを、細部に渡るまで観察することも無意味ではないでしょう。
また、自分の情報を出来るだけ相手に漏らさないようにすることは、相手のことを知る以上に重要なことです。この時、相手にこちらのコントロールしている虚偽の情報を流せれば、それは強力な武器になりますから、意図的に流すことも考えるとよいでしょう。

それから、開戦前に、戦争が終了する段階を想定しておく必要もあります。相手を、どのような状況に持ち込めたら勝ちなのかということです。自国の領土から追い出せたら勝ちなのか、相手をこの世から消してしまうことが目的なのか、はっきり自覚しておく必要があります。
戦争状態というのは、その母体に大きな消耗を強いるので、自分がどれだけ戦えるのかということを計算しておかなければならないのです。無限定に戦いを続ければ、その消耗は絶大なものになってしまうでしょう。
戦争とは、始めた時から、その終わらせ方を模索するものなのです。


今回述べている内容は、国家間の戦争のみでなく、例えば、インターネット社会での掲示板を利用した「フレーム戦争」と呼ばれるものにも同様に当てはまるようにも考えています。
これを読んでいるあなたが、ちょっとした喧嘩程度のものではなく、「戦争」をしなければならなくなった時、上手にそれを行う手助けになれば、と思います。この続きも、自分なりに研究をしながらだんだんと書いていく予定です。

北信濃の旅

10月8日

春日井を夕方に出発。中央道をひた走り、長野へ。途中、駒ヶ岳SAでラーメン、姨捨SAで天ぷらソバを食べました。
姨捨SAは、長野インターのすぐ手前にあり、山から善光寺平を一望できる抜群のロケーションです。中央道を使って長野方面へ行かれる場合は、是非一度立ち寄ってみて下さい。特に、夜は素晴らしい夜景が見渡せることでしょう。
名物、どんぶりを覆うような大きなかき揚げの乗った天ぷらソバは、見た目以上に味がよく、ソバ処信濃の入り口にふさわしい一杯です。
JR長野駅前に、この旅行中の宿を定めて、初日は就寝。


10月9日

朝より、戸隠へ向けて出発。長野市街から「七曲がり」と呼ばれる、極端に蛇行しながら一気に1km以上も標高の上がる山道を通って行くと、その途中には、実が色づきはじめたばかりの林檎の木が沢山ありました。
まだ青い実ばかりの木もあるなかで、所々に赤い実のある様は、初秋の信濃を象徴する景色のように思われました。山々は、紅葉にはまだ1週間は早い、といった風情でしたが、いち早く色づく山ブドウの濃い赤と、林檎と同じ赤に塗られた林檎農家の屋根の色が、点々と山を彩っていました。
昼頃に戸隠に着いて、戸隠神社中社の参道にずらりと並ぶ戸隠ソバのお店の一つ、岩戸屋さんに入りました。あちこちのソバ屋の看板に「元祖」だの「本家」だのという字が躍っていますが、本当の元祖戸隠ソバは、この岩戸屋さんなんです。
元祖というだけではなく、ソバ通の間でも、ソバの味は一番、と言われているお店なんだそうです。ただし、今ではそんな事は無いのですが、一昔前までは、ソバつゆの味が甘すぎてソバの味が活かしきれていないと言われていたそうで、通はお好みのソバつゆを持参していたとか。
盛り一杯700円、天ぷらつけて1400円と、町角の立ち食いソバ屋に比べると良心的とは言い難いお値段に思われますが、ところがこっちは盛りが良心的で、立ち食いソバ屋の盛りソバの、倍はあろうかという大ざるが目の前に出てきます。長野の食べ物屋さんは、盛りがよくないと繁盛しないなんて言われているんです。もちろん、天ぷらも揚げたて!美味しそうだけどこんなに食べきれないよなんて思いながらも、一度箸をつければつるりつるりと食が進み、息継ぎをしたかどうかも思い出せないような勢いで、気がつけば目の前には空のざるがあった、という塩梅です。
膨れたお腹をさすっていると、後ろの席の新客さんから、「ざる大盛り!」と威勢の良い声が。老舗なのに、店員さんの愛想も良く、また来たくなるお店です。ちなみに、向かいの、「元祖!」とでっかく看板を出しているお店には、お昼時だというのに一人もお客さんが入っていませんでした。御愁傷様。

戸隠神社中社の前を横切り、僕の大好きな戸隠神社奥社へ。信濃の一番奥にある神社、ということは、本州の一番奥の神社ということでもあります。鬱蒼と茂る日本の原生林の奥に、突然現れる石畳の道。樹齢1000年を越えるような杉の巨木がびっしりと並んで左右を守るまっすぐな回廊を、2kmほど歩いていくと、それほど大きくはないお社がありました。祭神はタジカラオノ神。天照の岩戸隠れの折に、天の岩戸を押し開けた、強力の神様です。
今回は、時間の都合でそこまでは行きませんでしたが、その入り口で日本の”奥”の清浄な空気をたっぷり吸ってきました。
続いて向かったのは野尻湖。石器時代に、ナウマン象の狩りが行われたことで有名な湖です。幼い頃に一度来た事があったのですが、よく憶えていないための再来訪です。
ところが、意外につまらなかった。まだ気温の高い初秋の野尻湖は、レジャースポーツや観光客がひしめいており、期待していた博物館は、巨大なナウマン象やオオツノジカの骨は見られたものの、わりと低年齢向きに作られた展示という雰囲気。まあ、展示よりも、現在進行形で発掘作業が進められている学術的な場所なわけですから、こういうのもしょうがないかなと思いました。

その頃には、道々採っていた北信濃のこの季節の名物キノコ、「ジコボウ」が結構な量になっていました。同行のキノコ採りの名人(父)曰く、「今年は、よっぽど湿った、沢のふちのような所じゃないと生えとらんわ」だそうです。ここに生えてなきゃ日本中どこにも生えない、と言えるほどの穴場でも、思ったより採れないんだとか。これから採りに行かれる方は、参考にして下さい。
ジコボウは、信州唐松の根元に生えるキノコで、南信濃では、また違う名前で呼ばれます。本当の名前は「ハナイグチ」。松茸と類の近いキノコです。煮干しで取った出汁をベースにキノコ汁にすると、ぷうんと唐松の香りがして、信州人は秋になるとこれを探しにこぞって山に入るとか。確かに、道々キノコ採りと思われる駐車車両をやたらと見かけました。
長野市に住む祖父の家に持ち込んで、保存がきくように、一度茹でてから冷凍にしてもらいました。そのまま、夕食はみんなで中野へ向かい、今回の旅行のお目当ての一つ、福田屋へ。すき焼き、焼き肉、ちょっとした洋食なんかも食べられるバラエティー豊かなお店ですが、名物は、何といってもソースカツ重。普段は、卵でとじてある物しかカツどんと認めない僕ですが、このお店のソースカツ重は別格です。ご飯を敷き詰めたお重に、ジャガイモとピーマンのフライ、そしてソースに浸されたとんかつが乗っているだけ、というとてもシンプルな物ですが、これが、なんとも言えず柔らかくて美味しくて、絶品なのです。
お店の名前は、最近「すき焼き」さんと変ったみたいですが、地元ではまだまだ福田屋で知られています。信州中野にお立ち寄りの際は、一度お試しを。
長野市に帰ってきて、宿の部屋で急にデジタルデータが恋しくなり、持っていったワンダースワンをしばらく遊び、心安らかに就寝。僕のダメ度も、すっかり板に付いてきました。


続きは、明日の更新で。

北信濃の旅(続き)

10月10日

爽快な、長野の三日目の朝です。昨日の成果、具沢山のジコボウ汁を朝ご飯にたっぷりといただいてから、父の生まれた町、真田に向かって出発しました。
父方の実家はもうそこには無いのですが、うちの一族(そんな大した物じゃございやせんが)の本家はまだ真田町にあるので、その家の門の前まで行ってみました。もう何代も離れてしまっているので、今更ご挨拶もしませんでしたが、自分の由来の一端に触れて、不思議な気持ちでした。
戦国時代、武田一族の家臣の武将として活躍した、真田氏の神社があるというので、そこにも参拝。数年前に大改修を行ったそうで、気合の入った大きな神社でしたが、まわりにある小さな祠や木々なんかは古い社の風情を残していて、なかなか楽しめました。
他にも、その辺りには戦国時代に由来する神社仏閣がいくつもあり、それぞれの土産物屋のオバちゃんなんかに縁起の説明を聞きながら、ふらふらとまわりました。

上田市に出て、今日のお目当ての福招亭へ。行列の出来る、中華料理のお店です。その日も、詰め込んでも12人程しか入れない小さな店内から続く行列が、小道の曲がり角まで続いていました。
名物は、ヤキソバ。ソースは使われず、野菜たっぷりのあんが、炒められた麺の上にかけられて出てきます。お好みで、カラシを酢で解いたものを適量振り掛け、麺にあんを絡めてわっしわっしと食べます。香ばしい麺の味わいは、月並みな表現ですが、一度食べたらヤミツキです。金糸卵で表面を覆われたチャーハンも、一度食べたら二度注文せずにはいられないというほどの美味しさで、それら二つを合わせて食べられるチャーハンヤキソバセット(1050円)が、僕のオススメです。
行列が嫌いな父が、このお店だけは並んででも食べたがるという逸品です。上田に行かれた時には、行列の塩梅を見ながら、どうぞお立ち寄りください。

食後に、上田城跡を見学。城門が改修されたばかりとかで、なるほどヒノキの香り漂う、ぴかぴかの門がそこにありました。
城郭の中には、上田市の博物館と、上田出身の芸術家山本鼎の美術館も併設されており、城門内の資料館と合わせて、300円の一つのチケットで三つともまわれてなかなか良心的です。昨日の塩尻湖の資料館はあれっぽっちで500円も・・・。(←まだ根に持っている)
色々なものが展示されていたのですが、現物を眺めてみると、やはり”真剣”の迫力というのは凄いものがあるなあと感じました。真田幸村の佩刀だったという太刀の鈍い輝きは、今でも目に焼き付いて離れません。あとは、小さな細工物なんかも面白かったです。
また、地元の民俗学者が編纂したという、郷土の昔話の小冊子を買うことが出来ました。地元の民話に、その学者の解釈が丁寧に加えられたもので、一読大変に面白く、なかなかの掘り出し物でした。
この日は、志賀高原にも行きました。紅葉にもまだ早いといったシーズンだったため、人出もそれほど無く、のんびりと初秋の高原を楽しむことができました。この日も、途中で、ジコボウを採集出来たので、この分は調理せず、そのまま冷凍して春日井に持ち帰り、同じ信州出身の方にさしあげることにしました。

長野市に戻って、夕食へ。十万石という名前の、長野中心のうどんのフランチャイズ店へ入りました。このお店は、ほうとうを食べさせてくれるので、祖母や父のお気に入りなのです。
運ばれてきたほうとうや、名物の十万石うどんは、信州風の合わせ味噌仕立ての、確かに美味しいものでした。しかしながら、いくらそうするのが長野の流儀とはいっても、そのあまりの盛りのよさに僕は閉口してしまいました。一人一人の目の前に、中サイズのナベが運ばれて来るのです。蓋はされておらず、摺り切り一杯の所まで並々と汁が満たされており、小鉢に取って食べるようになっています。麺も具もおびただしい量で、食べても食べても減りません。あれは、誇張無しに三人前はあったと思います。
これで、650円とか、高くても1000円とかなんですから、まったく文句の付けようも無いんですけどね。
後から来た斜め後ろの御家族連れが、うどんの大盛りを頼んでいたんですけど、運ばれてきた実物を見て、そちらのお父さんもお母さんもびっくりしていた様子でした。汁が零れそうになっている鍋に、うどんが山を作っていたんですから。あれは到底食べきれたとは思えません。
もちろん、僕も食べ残しました。


10月11日

5時30分に起きて、まずは早朝の善光寺へ。まだ6時前だというのに、お年寄りを中心に、大学生風の若い人もちらほらと、かなりの人出です。売店も、いくつか開いています。朝の光の中にそびえる善光寺はなかなかの見物ですが、僕らのお目当てはその見学ではありません。
6時15分ぴったりに、寺門の目の前の宿坊から、数人のお坊さんがやってきます。朝のお勤めに向かわれる、善光寺の貫首さんだと思われる人(実はよく知らないんです)と、その貫首さんに大きな朱色の傘を差し掛ける、これまた位の高そうなお坊さんと、その前を歩く露払いのようなお坊さんです。僕らは、そのお坊さん達がゆっくり歩いてみえる道の脇に、ひざまづいて待ちます。貫首さんは、手に持った数珠で、すずめの子のように並んだ僕らの頭にちょん、ちょん、と、短く、しかしとても丁寧に、触っていってくれます。優しいお顔をしたお坊さんが、これまた優しく触っていってくれて、なんだかとてもありがたい気持ちになります。僕は五歳までこの善光寺の近くに住んでいて、幼い頃この境内でよく遊びましたから、こういう事を有り難がる気持ちが強いのかも知れません。
お坊さん達が本堂に入って、やがて厳かに読経が始まります。その妙音をうかがいながら、本堂をぐるっと一回りし、それから、朝ご飯にはまだ早いので、近くにある、とある有名なスポットに行きました。
皆さん、知らない方はいらっしゃらないと思うんですが、「夕焼け小焼けで日が暮れて~」という童謡、その中に登場する「山のお寺の鐘が鳴る」の一節に歌われているその鐘、と言われているものが、長野市内のとある場所にあるのです。
かの歌の作詞をされた方が、幼い頃にこの地に住んでみえたそうで、この地で、夕方に鳴る鐘といえば、その鐘なのです。行ってみると、そこには「夕焼け小焼けの鐘」と記された立て札があり、歌詞を刻み込んだ石碑も建てられていました。朝なので、とりあえず一打ち、とはいきませんでしたが、おそらく今でもその付近の子供たちは、この音を頼りに夕遊びをやめ、お家に帰るのでしょう。

帰りの道は、ちょっとした渋滞に巻き込まれてしまって、なかなかに苦労をしました。
途中、塩尻から木曽路に入る入り口付近の、「食堂SA」という、なんとも身も蓋もない名前のドライブインに入ったのですが、ここの食事がメニューも豊富なら味もばっちりで、870円(ちょっと高い)の焼き肉定食を美味しくいただきました。その道路を使う人には人気のお店なんだそうで、お客もひっきりなしに出入りし、活気のある良い定食屋さんでした。自動車でしか来られないような場所にあるのに、一人で来た長距離ドライバーらしき人達がみんなビールを飲んでいたのは、まあ、御愛敬ですね。
その後、中山道の宿場の一つ、奈良井宿でも休憩を取り、そこで旅の記念に、振るとからからと音の鳴るブリキの金魚を購入しました。(僕は、旅行をする度に「音の鳴る玩具」を記念に買うのです)

そこからも、渋滞で塞がった大きな道をひいこら進んだり、近道に挑戦したり、旅慣れたふうのジープについていってショートカットに大成功したりしながら、何とか我が家に辿り着いたのでした。

10月5日の日記

早朝、まだ日の昇る前に目が覚める。前夜9時から眠っていれば当然かもしれない。
とりあえずPCのスイッチを入れ、メールとあちこちのお世話になっている会議室をチェック。自分のHPを見ると、今日も3~40ものカウントが記録されていて、毎日のことながら頭が下がる思いになる。10人くらいなら毎日覗いてくれそうな酔狂な(そしてありがたい)方に心当たりもあるけれど、他にどんな方が覗いてくれているんだろう?
あちらこちらとネットを散策しているうちに親が起きてきて、食卓で朝食を取る。今日は大学の恩師に会いに行こうと思うと、何となく親に話す。
父親が会社に出かけ、母の洗濯の合間を縫って軽くシャワーを浴び、父の本棚の前に立つ。HPの企画、「読書週間」用の、今日読む本を物色する。集英社の古い世界文学全集から、カフカを手に取ってみる。うん、たしか「変身」というのは短い話だったはずだ。知名度もあるし、今日はこれでいこう。
カバンにカフカと、二日前に企画でちょっと読んでみてまだ読みかけの「巷説百物語」を突っ込んで、家を出る。見上げると、傘がいるかな、と思うような薄曇りだった。
まず、駅前の銀行へ行く。先月末に払わなければいけなかった国民健康保険税を払い忘れていたのだ。ところが、その銀行が朝から随分混んでいて、思ったより時間を取られた。大学の二時限目に間に合うように行って、ゼミのディベートに参加しようと思っていたのだが、これでは間に合わない。興をそがれて、とりあえずそのまま駅前の本屋に入った。めぼしい本も無くぶらぶらしているうちに、大学の就職課を覗いてみることを思い立つ。午後にもゼミはあるから、それから参加すればいいだろう。

電車を待つ駅のベンチで、カフカをぺらぺらとめくり、そこには他にもいくつかの短編が収録されていたが、やっぱり「変身」を読みはじめる。
「ある朝、なにか気がかりな夢から目を醒ますと、グレゴール・ザムザは自分が一匹の巨大な虫になっているのを発見した。」
有名な書き出しが目に入ってくる。電車の中でも読む。途中、地下鉄に乗り換える際、これからも何度かこの路線を使う予定があるので、オトクな回数券を買うことにする。ところが、何を惚けていたのか、自動券売機で全然オトクではない一番回数の少ないものを買ってしまう。ゲンナリしつつ、その券を使って地下鉄に乗る。「変身」を読みふける。大学最寄りの、終点の駅で降りる。午前中の中途半端な時間なのに何故か大学行きのバス停に長い列が出来ていたので、駅前の広場に行く。ベンチに座ろうと思っていたら、総てに「ペンキ塗り立て」の張り紙があって溜息。
ふと見ると、駅前のマクドナルドに「牛鍋パン」の文字が踊っている。TVCMもしているものだ。そのCMを見た時から、吉牛道(よしぎゅうどう:吉野屋の牛丼を哲学する道。他店のニセ牛丼も研究対象になる)を歩むものとしては、無視出来ない商品だと思っていたので、店に入ってそれを注文する。食べるそばから中身が向こう側に落ちていく、欠陥商品だった。また、肉の味付けが甘く、吉野屋の牛丼とは全く方向性の違うものだった。一緒に挟まれている半熟卵と合わせて頬張るとすき焼きのような旨みが口いっぱいに広がるが、こうなるとまわりを包んでいるパンの味がうっとおしく思えた。別々に食べた方が旨いんじゃなかろうか?別にするんなら、パンよりご飯で食べたいなあ。ご飯で食べるなら、吉野屋の味付けがいいなあ。という具合に、吉牛道の信奉者の思考は推移していく。

バス停もすっかり空いていた。数分バスを待つうちに、「変身」を読了。バスに乗って、今度は「巷説百物語」の続きを読み出す。「舞首」の話だった。大学についても、歩きながら読みふける。ゼミの教室の前まで来たが、途中から入るのもなんなので、そのままドアの前で立ち読みを続ける。
鐘が鳴るのとほぼ時を同じくして「舞首」を読了。教室から出てみえた教授に頭を下げると、教授は部屋に僕を呼んで下さった。今年の四年生は、僕らの年よりさらに苦戦しているそうだ。そして、僕に大学院への道を奨めて下さった。大学院に入って、そこで二年を過して卒業すれば、またある種の「新卒」扱いをされるだろうという話だった。昼食の時間を押して様々なお話をして下さり、僕はあらためて教授に感謝しながら退室した。すぐに、大学院事務室へ向かい、二月募集の分の大学院生募集要綱をもらった。

大学内の本屋で三国志の副読本が目に付いて、しばし立ち読み。案外つまらなかったので、オビの力は商品にとって偉大であるということを改めて感じる。そうこうしているうちに昼休みが終わって、学生もまばらになったので、大学の就職課へ行く。
職員さんに自分が今春の既卒者で、一度就職したもののもう辞めてきた者である事を告げると、親切に対応してくれて、部屋の一番奥に通された。忙しそうな就職課長さんが、僕の相手をして下さった。こちらの希望などをしばらく話すと、手中の名刺の束の中から一枚を取り出し、すぐに電話で「さっきの話なんですが、おとなしい感じの子が、今、目の前にいるんです」と話しはじめられた。電話はすぐに終わり、パンフレットと一緒に、とある企業を紹介して下さった。
「すぐに連絡を取りなさい」とのことで、帰ったら今日中に電話をしようと誓う。さらに、もう一つ紹介していただいて、僕は就職課を退室した。課長さんは、ちょくちょく顔を出しなさいね、と何度も頭を下げる僕におっしゃった。

午後のゼミに出る予定を取りやめ、教授の部屋にもう一度挨拶に行ってから、さっきの企業の前まですぐに行ってみることにした。
大学のバス停に立ち、また「巷説百物語」を開く。今度は「芝右衛門狸」だ。まったく持って京極夏彦の妖怪小説は面白い。読んでいるうちに、バスから地下鉄に乗り換えた後、学生時代の癖で、いつもの乗換駅で地下鉄から出てしまっていた。路線図を確認し、改めて回数券を使って改札を通った。地下鉄の乗り換えなどを行いながら、「芝右衛門狸」を読みふける。途中で読み終わったお陰か、乗り越しなどすることなく目的の駅に着けた。
駅から歩いて数分、紹介していただいた会社の自社ビルを発見する。会社の隣の家になにやら古めかしい立て札があって、読んでみると、その家は尾張徳川御用達の茶釜を作っていたという鋳物師なのだそうだ。会社より、この家の方をまじまじと観察してしまう。

時計の針を見て、よーいどん。会社の前から、家までどのくらい時間がかかるのか、計るのだ。
急ぐ必要はないので、のんびりと歩き、地下鉄の中でまたもや「巷説百物語」を開く。今度は「塩の長司」という話。読みながら、いろいろ乗り継いでいるうちに、地元の駅に着いた。ちょうど「塩の長司」も読み終わった。ちなみに、今日買ったオトクじゃない地下鉄の回数券は、一日でもうほとんど使い切ってしまった。
家に帰り着くと、時間はあの会社の前から45分経っていた。電車の乗り継ぎのタイミングがやたら良かったことも鑑みて、小一時間と記憶する。結局今日は、雨に降られなくて助かった。
母が、僕に電話があったと告げた。前に勤めていた会社からだ。といっても、もう辞めてから半年近くも経っている。何事かと問い合わせると、当時、社宅ということで会社名義ながら、僕が自分で家主の口座に振り込んでいたアパートの家賃が、なんだか振り込まれていないという話だった。
もしやと思い、その会社にいた頃常に携帯していたカバンの中を漁ると、なんとその振り込みをした時の利用明細票が出てきた。面倒がってカバンの整理をしていなかったのが、この場合は良かったということになる。ものぐさも、たまには役に立つものである。これは証拠になると、すぐにコンビニのFAXサービスで送った。

その会社への就職時にも、働いている時も、やめる時にもお世話になった事務の女性の、あの頃と変わらないとびきり元気な声を懐かしく思いながら、就職課で紹介をいただいてきた二つの企業に電話を入れ、うち一つの会社への面接を取り付けた。まあ、真っ当な社会人へは一歩前進したと言えるだろう。
今日はいろいろあったので、日記を書くことを思い立った。書いている途中で夕食になった。好物のうなぎだったので、嬉しかった。しかし、毎食後に飲む筋弛緩剤が効いてきて、今、とても眠い。
これから、「変身」の読書感想文を書くのだが、果たして意識が持つだろうか?この突発日記を皆さんがご覧になる頃には、それも判明している事だろう。

蜘蛛の糸

不勉強の身ながらも、「こういう事が出来たら、きっと理想的だよね」というような話をさせていただきます。

特許というのは、技術的な新発見や、旧来無かったような何かのアイデアを特許庁に申請することで、「あなたが最初にそれを思い付いたので、そのアイデアを使う権利はあなたにあります」と、人に認めてもらうことですよね。
そうすることで、そのアイデアを獲得するまでにその発案者が費やした時間や労力が報われ、場合によっては、後からそのアイデアを使いたいと言ってきた人に対して、お金を取ってその権利の一部を貸し与え、一財産作ることも出来るそうです。
先に特許を取った者の権利というのは絶大らしく、後発の、あきらかに同じようなことをやっている人に対して、「それは私が先に考えたアイデアだから、勝手に使ってはいけません」とそのアイデアの使用を停止させることも出来るそうです。
では、二者のアイデアが、どちらが先かわからないような状態に陥っていたり、もしくは、ある特許にかなり似ているけれども、同じアイデアと言い切れるかどうか難しいといった場合はどうなるのか。しかも、その判定によっては将来にわたる多大な利益が左右されたり、既得権益が犯されてしまうような場合は。
この部分がどんどん膨らんでいくことで、結局、泥沼のような訴訟合戦になってしまうことが、ちょくちょくあるようです。

芥川竜之介の「蜘蛛の糸」で、主人公のカン陀多は、自分の後から蜘蛛の糸を登って来る地獄の罪人の群れをみて、このままではこの細い蜘蛛の糸が切れてしまうと、群がる無数の罪人たちを一喝した途端、糸が切れて再び地獄へと真っ逆さまに落ちていきました。
せっかくの救いを無に帰してしまうという、勿体無い話ですが、この小説の優れているところは、読んだ人のほとんどは、カン陀多の心理が理解出来てしまうところです。自分が掴まっているだけでも切れてしまわないのが不思議なくらいの細い蜘蛛の糸。自分にもたらされたそのか細い幸運を、何の努力も無しに亡者達が甘受する。そんなことが、あってたまるか。
ここで、「どうぞ皆さん、一緒に登りましょう」と言える人の心理の方が、不可解というものでしょう。そして、人はその業を背負って、地獄の底へ落ちていくのです。

蜘蛛の糸が切れないという保証はありません。特許を認定されたアイデアも、いつ、どんな新しいアイデアが現れることで無意味になってしまうかわかりません。しかしながら、僕らは、蜘蛛の糸を登り切れなかったカン陀多の惨めさも同時に理解しています。
「切れてしまうかもしれないけれど、一緒に登りましょう」と語り掛けることは、人間には不可能なのか。もし不可能だというのならば、その一点こそ、人間が新たに獲得しなければならない「勇気」ではないのか。

などと思っておりましたら、ちょっと目にした雑誌記事によりますと、現在の特許というのは、強力な権益ではなく、「私が先に考えたものだから、敬意くらいは払ってよね」といった程度の意味あいのものがほとんどになっているとか。
「あなたの考えたそのアイデアを使って、私はこういう事をしたい」
「どうぞ、僕の考えたものであるということさえ明記してくれるなら、存分にお使い下さい」
いやはや、世界は、僕なんかの思考の範囲内より、よっぽど先進的であったらしいです。

今回のような一人よがりにならないためにも、現代社会に生活する人類が、いかなる道徳を持って生活しているのかを、ちゃあんと勉強し続けなければならないという、よい教訓になりました。

よく見て素直に考えること

今年は大雨や地震、台風など、大きな災害のニュースが多く、連日TVではその報道がなされています。
このHPを覗いてみえる方々の中にも、なにか被害を受けたという方がいらっしゃるかもしれません。そう考えると、あなたが今、この文章を読んで下さっているということを、誰かに感謝したくなります。
TV画面にうつる、倒壊した建物や決壊した川の濁流、竜巻に転がされた車、そして地滑りを起こした山肌などを見るにつけて、自然の力の恐ろしさをあらためて感じます。
人は昔から、荒ぶる自然と折り合いをつけることで生きてきました。現代の僕らは、科学の力で何でも出来るような気になっていますが、ひとたび地球全体規模の活発な火山活動でも起ころうものなら、なす術も無く人は滅びの危機に立たされることでしょう。
これは、環境保護の問題なんてもの以前の、私達を取り巻く現実の話です。
基本的に、人は謙虚でいなければならないはずです。しかしながら、そう謙虚で居続けることも出来ないのが人間です。
数日前、災害報道の中で、僕も含めた誰もが陥ってしまいそうな、こんなエピソードに出会いました。

TVでは、高速道路を飲み込んで破壊していく激しい地滑りの瞬間が、生々しく放送されていました。
翌日の新聞でも、その場面はでかでかと取り上げられ、そこには数人の有識者のコメントが添えられていました。曰く、この土砂災害は、樹木の伐採、植林等の丁寧な山の整備を怠ったために起こった人災でもある、と。
この「有識者の発言」は、一見、奢りたかぶる人類に警鐘を鳴らす正しい意見のように思えますが、実は、事実から外れたものでした。この発言こそが、人が謙虚でない、今の風潮の象徴なのです。
どういう事かというと、地滑りの時にその山肌に生えていた樹木は、よく見ると半分以上が、広葉樹だったのです。人の手によって植林された山の場合、植えられるのは普通は針葉樹です。針葉樹は根をあまり深く張らないので、丁寧な伐採作業を行って山を整備しておかないと、山の保水力を落としてしまうことになるわけですが、広葉樹が多い山というのは、もともと人の手があまり入っていない山であると考えられます。
そして、あの地滑りの映像で本当に注意すべきだったのは、えぐれた山肌の部分です。普通、山の土というのは表面を数十センチほどの厚さで覆っていて、その下には、大きな岩のごろごろしている層があるものなんです。その岩のところまでしっかりと根を張ることで、木々は土と自分のからだを支えます。ところが、地滑りをした山は、えぐれた下の部分もほとんど土の層でした。ここから推測出来るのは、地滑りの直前、この山の表面の土は事前の大雨で、泥のようになった層を作っていたのではないかということです。土砂止めの排水機構が上手く機能せず、水分をたっぷり含んで重い一つの塊になっていた土が、高速道路脇の土砂止めの耐圧許容量を越え、道を破壊してしまったのではないでしょうか。
そうなると、今回の地滑りの人的な原因は、排水機構の不備という、純粋に技術的な問題ということになります。土砂止めの排水機構というのは、簡単に石や土が詰まってしまってなかなか有効に機能しないものなんです。
画面をよく見れば、専門家ならばこういう事は読み取れたはずです。しかし、どういう意図か、原因の指摘が微妙にずらされ、山の管理、森林伐採のやり方に問題があったのだとされてしまいました。

ここからは僕の想像ですが、情報の送り手は、問題の原因を樹木の方向に転換することで、情報の受け手に、これも環境問題の一つであると思わせたかったのではないでしょうか。もしくは、送り手自身が、事を環境問題の一環であると思いたかったのかもしれません。
そうすることで、人は「環境に気を使っている人」を演じることができます。しかしながら、事実をよく見もせず、不勉強のままに「自然を守れ」と叫ぶことが、環境保護につながるのでしょうか?現場の人間は、目の前にある事実から目を逸らして、自分の思いたいように事を解釈したりはしません。僕の父は山の専門家なので、この地滑りが何を原因としたものなのかをすぐに見抜き、上記のように僕に説明してくれました。

自然の山というのは、僕らが幼いころに触れたような砂場の山とはまったく違うものです。そういった知識が無いということを自覚せずに、自分の狭い了見で誰かを(この場合は地元の林業家か?)悪者に仕立て上げ、それを指摘することで自分はさも善人であろうとする。これに類することが、世の中には多くありすぎる気がします。専門家ですら、面白いことを言おうとするあまり、正確でない発言をすることがあります。
現実を、思い込みでなくありのままに観察し、冷静に分析し、自分のわからないことはわからないと素直に認めて、自分の出来る範囲のことをする。
そういった謙虚さが、本当の意味で自然を守り、僕らの生活を守ることに繋がるはずなんです。

これは、マスコミやインターネット等のメディアでの発言だけでなく、僕らのまわりの日常から、気をつけなければならないことだと、常に自分を振り返ろうと思いました。

おつかれ

僕は電車に乗っていると、立っていようと座っていようと、すぐに眠くなってしまいます。実際に、よく寝てしまいます。
そんな時、ふと、まわりを見回してみると、結構寝ている人は多いです。昼間に乗れば、買い物のおばちゃんや営業のサラリーマン風のおじさんがグウグウ。夜の電車ともなると、学生さんや御老人、やっぱり会社帰りのサラリーマンなんかが、席に座ってウツラウツラ。
旅行番組なんかで、外国の列車内なんかがよく映りますが、こんなに国民がよく寝ている国は見た事がありません。

もちろん、日本が世界各国に比べて並外れて治安の良い国であることは無関係ではないと思いますが、それはこの現象を可能にする状況、であって、原因ではありません。
では、なぜあんなに寝ている人が多いのか?
かしこまるほどの事ではありませんね。みんなが疲れているからに違いありません。
もちろん、疲れていない人も沢山いますし、車内でやたら元気に友達と喋ったり、携帯電話をかけたりしてる人もよくいます。しかしながら、ある程度の乗車率の列車内で、寝ている人がいないことはまずない、というこの状況には、こういう明確な理由があると考えた方が、分かり易いでしょう。
現代日本人は、なんでこんなに疲れているのか。昔に比べて布団の質が悪くなったのか、睡眠時間が少ないのか、日常に飽きているのか、生きることに飽きているのか。
ひょっとしたら、もともと電車みたいなものに乗ると眠くなってしまうという気質が日本人にはあるのかもしれませんが、いつか、日本人の生活に質的な転換が訪れることがあるとしたら、その結果はこういうところから現れて来るのでは、と思います。
たとえば、みんな目を爛々と輝かせ、やたら活発な列車内。もしくは、乗客全員がすやすやと眠りこける列車内。まあ、これはどちらも極端ですが、国民の意識の指標というのは、こういうところからも計れるような気がしますね。

身の程

大した話題ではありませんが、お昼の時間なんかにTVでやっている、俗に「ワイドショー」と言われる一連の番組で、ここ数ヶ月、とあるおばはん同士のケンカが延々と取り上げられています。
皆さん大抵そうだと思うのですが、この話題はもういい、と僕も今朝まで思っていました。正確には、半月程前にその心境になって、最近は忘却すらしていた話題です。

しかしながら、今朝方に、たまたまかかっていたTVを見ていたら、ちょっとしたことに気がつきました。もし、この話題がワイドショーで取り上げられなくなったとして、それでもワイドショーは無くならないわけですから、今度はまた、異なる話題が出て来るわけです。芸能ゴシップ、エセ環境問題、一方的な殺人事件報道、渦中の人物の虚像の構築・・・・・・。
ならば、おばはんのケンカ程度の話題でも延々と取り扱っていてもらう方が、まさしく分相応というものでしょう。下手に正義ぶった新興宗教叩きや、ヒステリックなだけの見当違いの自然保護をがなられるよりも、よっぽど害がありません。
せっかくの、多くの人達に情報を発信出来る全国放送のTVというメディアを少しでもそんなことに使わなくてはならないのは甚だ勿体無い事ではありますが、そうせざるをえないシステムがTVを放映する会社や社会そのものに存在してしまっているのでしょう。その中で、いつまでも分相応な話題を扱ってくれるというのは、かえって良心的かもしれません。「この話題をやってる限りは、番組によって苦しむ人もあまりいないだろう」というプロデューサーさんの意図すら、感じてしまいます。

つまらない、くだらないと思ったら、見ないこと。
ワイドショーで面白いものをやってくれるのではないかという僕らの中にある期待が、結局、ああいう番組を作りあげてしまうのです。
人の噂話より面白いものはないと古今東西で言われていますが、それより面白いものを提供出来る番組がお昼の時間にポンと提示出来たら、ワイドショーを無くしてしまうことすら出来るかもしれません。
まあ、そんなものは今現在僕には思い付きませんが、こういった「人間の根源的な卑しい心への挑戦」みたいなものこそ、「こどものくに」が最終的にテーマにするものであると考えています。