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ばかっつら~!

この冬、WOWOWに注目すべきアニメが3本ほどあるので、簡単にご紹介いたします。

まず、毎週水曜夜7時からの、「風まかせ月影蘭」です。
先日までWOWOWで放映されていた「今そこにいる僕」という近年希に見るハードなアニメの監督脚本を手がけた、大地丙太郎氏の最新作です。
やたらに腕のたつ女剣士の月影蘭と、大陸生まれの拳法家ミャオ姐さんの女旅ガラス二人連れが、はびこる悪を退治する時代劇じたてのアニメです。何といっても魅力的なのは、悪漢との殺陣のシーンの工夫の練られたアクションと、主人公蘭の押し殺すような声質によって表現された、控えめな大人っぽい女性の表現でしょう。
時代劇をやる以上は殺陣に凝るのは当然ですが、痛快娯楽作品ならば能天気で元気な主人公、というような定石を外して用意されたと思われる蘭の性格は、虚を突かれると同時に視点の異なる面白味を感じさせてくれます。まるで、三船敏郎演じる椿三十朗に輪をかけたような、ぶっきらぼうを装っていながらいつのまにか騒ぎに紛れ込み、結果的に弱者を救うその行動は、油の乗った作り手の腕を感じさせてくれます。
現時点では第一話のみが放映済みですが、演出を手がけるのは「赤ずきんチャチャ」「アキハバラ電脳組」「十兵衛ちゃん」などでテンポのよいカット割りに定評のある桜井弘明氏であり、総作画監督に一部で有名なサムシング吉松氏の名前らしきものも見えます。大地監督の人脈健在、といったところでしょうか。
ところで、その第一話にさくらという名前の気立ての良い街娘が登場したのですが、作品内の演出とは関係なく、僕はそのキャラクターの動向に注目せざるを得ませんでした。まことに作品とは関係の無いことなんですけど、そのキャラクターを演じられていた声優さんが渕崎ゆりこさんという方で、「少女革命ウテナ」というアニメにおいて僕にトラウマ的なショックを与えた姫宮アンシーというキャラクターの声優さんだったんです。もちろん、キャラクターの外見や性格等の設定もまったく違いますし、本来ならば気にすることはないんですが、普通声優さんというのはキャラクターによって声質を使い分けたりするんですけど、なぜか渕崎さんは、この街娘の声をアンシーと同じ声質で演じられていたものですから、どうしても心に突き刺さってしまって、一人TVの前でもだえ苦しんでしまいました。
僕のお馬鹿な話は置いておきまして、作る作品がことごとく話題作になる大地監督の最新作ですから、この作品も見逃さないでいきたいものです。ちなみに、WOWOWですが、無料放送です。衛星受信施設があれば、未加入でも見ることが出来ます。

続いて、毎週木曜夜7時からの、「OH!スーパーミルクチャン」。
一見可愛らしいものの、よく見るとものすごく毒のあるデザインのキャラクター達が、不可思議なストーリーに乗って大暴れします。偶然時事ネタになってしまったきんさんぎんさんのギャグはちょっと毒気が強すぎた気もしますが、それは別にしても全編にわたるムチャクチャな登場人物たちのやりとりが、なんとも大笑いさせてくれます。
セリフを棒読みするようにとつとつと喋る主人公のミルクチャンは、声質は普通の女の子なのに、セリフはものすごく乱暴で、これまたなんとも魅力的です。消費者金融にお金を借りておいて、取りたての電話がかかってくると「きさまにかえすかねはね~!」と受話器を叩き付けたりします。同居人のロボットがミルクチャンの乱暴な言動に注意をしようとすると、「このばかっつら~!」と怒鳴りかえす始末。でも、あまりに可愛らしいデザインで、憎めません。
まったく絵柄の異なるキャラクターや実写まで作中に登場する、ごった煮のようなアニメです。制作はぴえろ。その昔押井守が在籍していた、能力のあるスタジオです。こういう先進的な作品が作れるスタジオは、やはり限られているのかもしれません。
あと、ちょっと古いアニメが好きな人なら、OPは必見です。
これも、無料放送です。

トリを勤めますのは、毎週日曜夜10時頃(週によって少々変わります)に絶賛放映中の「サウスパーク」です。
アメリカのとある田舎町サウスパークを舞台に、主人公の四人の小学生を中心とした奇想天外な大騒動が巻き起こります。かわいい切り絵の様な絵柄とは裏腹に、主人公達のまわりで起こるのはいつもジョークとブラックの境界スレスレの事件です。100歳を越えた祖父に自身の殺害を依頼されたり、親友でもある飼い犬が実はホモで矯正しようとしてもまったく効果が無かったり、主人公のうちの一人が自分に父親が無いことに悩んで登校拒否になってしまったり・・・・・・。
こうして挙げてみるとまるで社会派ドラマのようでありますが、実際にはブラックユーモア溢れるギャグアニメです。アメリカではPTAがその内容のあまりの下品さに大変な抗議をおこし社会問題にもなったそうで、日本でも今回のWOWOWでの放映はR指定(15歳未満視聴禁止)となっています。
ただ、扱われるテーマはあくまで社会派で、それを今時のクールな小学生が淡々と能天気に乗り越えていく様は一見不謹慎かもしれませんが、その実とても丁寧に描かれる心理描写や説得力のある登場人物たちの行動原理は、決して子供たちに見せることを禁止するような番組ではないと思えます。
ブラックなユーモアを楽しめる方なら、膝を叩いて笑えること間違い無しのアニメです。
これだけは有料放送です。WOWOWに加入して見てください。


どのアニメも、現在やっているアニメの中では「トランスフォーマー・ビーストウォーズメタルス」に次ぐ地位を争うほどの面白さです。機会があったら、是非一度見てみて下さい。

年末だというのに

12月26日23時30分発、新宿行きの夜行バスに乗っててなしもは東京へ向かいました。
目的は東京観光、そして、ネットで知り合った方々とのオフ会への出席です。期待にはずむ胸とは裏腹に、襲い来る睡魔。しかし、窓がカーテンで閉じられた暗いバスの中で眠るのは、なかなかに技術が要るものです。うとうとしたり、昼間に聞いた変な流行り歌が頭の中でぐるぐる回って眠れなかったり、車内トイレで大あくびをしたりしている間に、いつのまにかバスは東京に近づいていたのでした。
途中、談合坂SAで休憩があり、食堂できつねそばを食べました。それにしても、なんで夜のSAで食べるかけそばというのは、あんなにおいしいのでしょう。甘辛く暖かい汁を最後まですすって、沈殿していた七味を吸い込んでむせるところまでお約束です。

新宿に着いた時点で、あたりはまだ真っ暗です。夏前に同じバスを使った時には、同じ時間にはもう夜が明けていましたので、同じ場所で降りたにも関わらず随分異なる印象を受けました。それとも、来るたびに違ってみえるのが東京という街なのでしょうか。
そのまま、まだラッシュの始まっていない山の手線に乗って、しばらくの間ぐるぐると東京を回りました。じきに適当な駅で降りて、線路に沿ってしばらく歩きますと、吉野屋を発見。所詮、吉牛道(よしぎゅうどう:吉野屋の牛丼を探求する道。しょうもない思想)のしもべにはこれがさだめなんだろうと、素直にそこに入って遅めの朝食、牛丼を食べました。

朝から腹も膨れたところで、またふらふらと歩いていますと、なんだか不思議なにおいがしてきました。見ると、道端でコーヒー豆を煎っている人が。目の前の喫茶店の店員のようです。すぐに行きたい目的地があるわけでもなし、そこで、食休みをすることにしました。
濃いコーヒーは苦手なのでアメリカンを頼み、それをすすりながら、しばらく窓からの風景を眺め、ポケットの文庫本に目を通したり、隣席のおじさん同士の会話にこっそり聞き耳を立てたりしているうちに、意外に時間が経っていました。

最寄りの駅は目黒でした。
そこからあちこち乗り継いで、お茶の水駅へ。駅を出て、橋を渡り、湯島聖堂に向かいます。東京へ来た時には、大抵一度はそこへ行って、孔子像に一礼するのが慣例になっています。友人からは腐儒とののしられることもしばしばですが、一応これでも僕は儒学の徒のつもりなんです。
東京に来た時には、その湯島聖堂の隣にあるカプセルホテルで泊まるのも慣例になっているので、一度立ち寄ってその晩に泊まれるのかどうかを確認後、秋葉原の駅へ。ネットで親しくお付き合いさせていただいている、さとりさんとの待ち合わせ場所です。
ほぼ時間どおりにお会いすることが出来、そのままさとりさんの先導で秋葉原巡りに出発しました。何度か来てはいるところですが、やはり詳しい人の先導があると回りかたに無駄が無くなります。あっちへウロウロ、こっちへチョロチョロしながら、いろいろ喋ったり、PCのパーツの値段を見たりしているうちに、うわさに聞こえたおでん缶の自動販売機を発見しました。
こんにゃく、うずらの卵、練り物等が豊富に入った、200円のホット缶です。出汁の味もなかなか。もっとチンケなものを想像していたので、そのボリューム感としっかりした食感には驚きました。これがこの日の昼食でした。

さらにしばらく秋葉原電気街巡りをしているうちに、ジャンクショップで古い98ノートを発見。なかなかお手ごろな値段だったので、ハンディテキストエディターにするために購入しました。無知は罪。その日に浦和でコインロッカーで発煙筒が焚かれたという事件があり、首都圏のコインロッカーはすべて使用禁止になっているとも知らず、そのちょっと重いノートパソコンを買ってしまったわけです。

その晩に別の用事を抱えているさとりさんの都合で、少々早く晩御飯を食べることになりました。秋葉原駅の近くの、万世というお肉の専門店です。
さとりさん、おごっていただいたハンバーグ、まことにおいしゅうございました。

さとりさんは帰り際におでん缶をいくつか買っていかれました。宿直の仕事の時に食べるんだとか。バイクで去っていくさとりさんをお見送りして、僕は先述のカプセルホテルへと向かいました。割り当てられた自分のコンテナの中で備え付けの浴衣に着替え、まずはと買ってきたノートパソコンをいじっているうちに、夜行バスでの睡眠不足がたたったのか猛烈な眠気に襲われて、そのままバタン、きゅう。最後に見た時計の針は、まだ6時でした。

なにかひどく気がかりな夢から目を覚ますと、時計の針は1時30分を示していました。
まだ深夜ですが、すぐに眠ることも出来そうになかったので、とりあえず腹ごしらえをしようとホテル内の談話室へ移動しました。冷凍もののポークカレーを買って、よれよれになっている新聞を読みながらもしゃもしゃ食べました。味気なや。その後最上階の大きなお風呂にゆっくり入って、自分のコンテナに戻って再び睡眠をとりました。
目が覚めたら、本格的な忘年オフ会に出席です。


続きは、明日の更新で。

進行中

日本を、21世紀のまるまる100年間をかけてこども文化立国「こどものくに」にしましょう!というのが、このHPのメインテーマであります。
HP立ち上げから4ヶ月が経過した現在、なんだか急速に、予想以上に事態がこどものくにの望む方向へ進んでいるような気がします。

そもそも、アニメ、ゲーム、マンガといったこのHPで主張している「こども文化」の主要なものは、質、量共に全て日本がダントツで世界の国々を引き離しているものです。世界中を見回してみても、お隣の韓国は国家レベルでそれらの制作に力を入れているそうなのですが、今のところ、日本に逆上陸を果たすような作品が出てきているという話は、あまり聞きませんし、台湾あたりにも結構レベルの高いそれらの製作者がいるという話ですが、まだまだ、組織立って大きな活動がされているわけでもないようです。ゲームに関しては、ソフトウェア的には海外産の面白いゲームがすでにいくつも存在していますが、ゲーム専用ハードとなれば、任天堂、セガ、ソニー等、日本企業の独壇場です。
とにかく、日本はこのジャンルの文化の豊富さに置いては、世界のどの国よりも圧倒的です。そして、この文化はTV受像機やインターネットや、アメリカナイズされた生活の力を借りてやがて世界に広まり、いつしかそれぞれの地でそれぞれの風土風俗にあった作品創りがされるようになると思うのですが、その時も、基本的に20世紀末から21世紀にかけて日本の中で生まれたこども文化スタイルの模倣がほとんどとなることでしょう。
自然にそうなっていくだろうと僕は考えています。それだけのパワーを、こども文化は持っているからです。
そうやって広まっていくこども文化が、地球上のどこで最初に発展したのか、それを普及させたのは何者であったのか。それはこの日本ですよと、22世紀や23世紀になった時に世界からはっきりと認識され、それが日本という資源の乏しい国にとっての大切な資源として、有効に活用されるように、今から準備しておきましょう、と、このHPは呼びかけているわけです。

さて、アメリカで現在、ポケットモンスター(通称ポケモン)が異常な人気の旋風を巻き起こしております。
元は小型ゲーム機のRPGですが、トイ、映画、キャラクターグッズ、TVアニメ、そしてカードゲームに等において、恐ろしいほどの商品売り上げをみせています。
訴訟騒ぎもいくつか起こっているそうです。例えば、ケベック州が、年内にフランス語版のポケモンを発売しなければ訴えると言っているとか。なんだかすごい話です。
子供たちはポケモンの小型ゲーム、又はカードゲームに夢中で、学校やキャンプ等では携帯禁止物の一つになっているそうです。カードのニセモノもすでに沢山出まわっているとか。

コンピューターゲームは、その市場や開発の環境によって、作品の質が大きく左右される事のある文化です。
世界の標準ゲーム機といえば、ソニーのプレイステーションですが、その後継機プレイステーション2が発売される前にライバルのセガが勝負をかけて発売したドリームキャストは、アメリカで2ヶ月半で100万台、ヨーロッパでは発売初週で約18万台、今でも品薄状態が続いているほどの、爆発的な売れ行きだということです。
もちろん、プレイステーション2が発売されれば、場合によってはドリームキャスト以上の売れ行きを記録するかもしれませんが、そうなった場合でも、ソニーの一人勝ちという構図では無くなりますから、お互い競争をする事でどんどんとより素晴らしいゲームの環境が整っていくでしょう。もちろん、ポケモンやマリオを引っさげて登場する任天堂の新ゲーム機ドルフィンも、黙ってはいないでしょう。
世界を舞台にした三すくみがバランスよく形成されれば、よりすぐれた作品が登場するための場として、この上ないものでなるでしょう。そして、その三すくみの作り出す結界は、そうやすやすとは他メーカーの侵入を許すことはないでしょう。

これは、言葉が悪いのですが、ある意味で、文化の侵略戦争なんです。
自国の文化が日本産の文化に阻害される事を嫌悪して、露骨に締め出し運動を行う人々はかなりいるようです。法律で、TVの全放送枠のうち、他国の番組の占める割合を一定におさえるように定めている国もあったように記憶しています。(フランスだったかな)
しかし、それは「状況」程度のものであって、こども文化が戦うべき「敵」ではありません。本来「敵」になるはずのものは、それぞれの自国の子供文化ですが、そのほとんどは伝統文化におもねっていて、大人が真面目に向き合って作った、現代の子供を喜ばせる事に特化した文化である日本のこども文化の前には、ほとんど戦闘力を持っていません。もちろん、駆逐やら殲滅やらではなく、共存をすることは何ら難しくはないはずですから、これはそんなに殺伐とした話ではありません。
敵がいない戦いでも、状況によって敗れた戦いというのは確かにありますが(冬にロシアに向かったナポレオンとか)、きちんと情報戦をやって、はっきりと対策を立てれば、物の数ではありません。
これはつまり「勝てる戦」なわけですから、勝った後のことを考えるべきであると、僕は訴えます。
それはすなわち「世界中の子供たちが大人になるまでに一度訪れる国」に代表されるような、世界中から信頼される国であるという、国のイメージ創りです。
そして、世界各国の子供たちや、やがて現れるかもしれない宇宙生活民の子供たちに、いつまでもメイド・イン・ジャパンのこども文化を楽しんでもらい、消費してもらえば、この国はいつまでもそれなりに繁栄し続けることができるはずです。そのために、これからの100年は勝負です。こども文化の整備を、死にもの狂いでやらなければなりません。

今はまだ一介のフリーターの戯言ですが、いつしかこの思想が多くの人々の胸に秘められん事を願います。
これより優れた日本の将来のビジョンを、まだ聞いた事がないんですもん。

ワーク

12月29日が最後の店番でした。念のため申し上げておきますが、たった一ヶ月でアルバイトがおしまいになってしまったのは、別に勤務態度が悪かったからではなく、最初から12月の忙しい時期のための臨時雇いだったからです。
短い間でしたし、特に大きな事件が起こったりもしませんでしたが、いろいろと勉強をさせていただくことが出来ました。

良く聞く言葉ですが、やはり何事もやってみなければ解りません。店番という仕事は、見た目以上に大変で、予想以上に気楽なものでした。
なかでも、僕にとって快適だったのは、仕事を丁寧にやろうとすることを邪魔するものが、何もなかったということでした。
もちろん、一緒に店番をした相方の皆さんはどなたもまじめで、明るく、元気で、お客さん達の人気者でありましたから、例えば隙を見て仕事の手を抜く、なんてことはそもそも全くなかったんですけど、それ以上にお客さんが少ない暇なお店だったので、僕は売れた商品を補充する際などに丁寧にならべたり、レイアウトに気を遣ったりすることに、たっぷり時間をかけることが出来ました。
見栄え良く、そしてお客さんが取り易いように商品をならべて、お客さんに大きな声で心から挨拶をし、わからないことは相方に聞き、ちょっと仲良くなったお客さんと世間話をしたりしている間に、いつのまにか一ヶ月は過ぎていました。

小売店というのは、資本主義社会において欠くことの出来ない要素です。そういうシステムの末端部分で実際に働いてみることで、本や、経済を扱ったTV番組などでは感じることの出来ない具体的な感触を、いろいろと味わうことが出来ました。
人が人に、持っているものを渡して、その代価を受け取るというシステムは、かなり昔から人類が行ってきた、人類だけの便利な文化です。そこには人と人との一瞬のふれあいという暖かなものがあり、人の優しさや親切さに触れることができます。
ひどく当たり前な印象かもしれませんが、人が働くということは、すばらしいことなんだと思いました。

というわけで、12月30日を持ちまして、てなしもはフリーターからまたもや社会不適合者に肩書きが戻ります。とりあえず、またアルバイトを探さなくてはなりません。
どこかにいい仕事、落ちてませんかねえ。

社会学の最先端

人は、目で見たり耳で聞いたり肌で感じたりしたことを、自分の中で再構成して、世界を認識しています。その外部から入って来る情報を、まとめて、一つの世界として僕らに認識させてくれるのが脳という器官です。
僕らが認識している世界というのは、すべて脳が見た世界です。脳を通さずに世界を認識する事は、人には出来ません。
脳は、外部から入って来る情報を体系化して、一つの世界を作り上げます。僕らはそれを世界そのものであると認識していますが、科学的にはそれは、世界の本当の姿ではありません。例えば、人の目では感知出来ない赤外線や紫外線、人の肌では触った事を感じる事が出来ない極小の物体、そして、僕らが知らない情報。それらのものが、僕らの認識している世界からは抜け落ちています。

さて、脳は、基本的には解剖学や脳生理学で扱う対象のモノです。しかし、脳というのは人間の活動すべてをその内側から起こさせている根元なわけですから、人間に関するありとあらゆる学問は、脳を研究対象としても良いはずなのです。
ある学者が、脳と社会学の関係に気が付きました。ある人物の脳とその人物をとりまくコミュニティーは相同関係にある、という事に、ある時ふと気が付いたのです。(相同:同じものを起源に持ち、同じ構造を持つということ。例えば、哺乳類の前足と鳥類の羽は、進化の過程で使用法が別れ、異なる機能を果たすようになったものだが、その骨格は今でも酷似しており、相同関係にある。)

生後間も無い幼児の脳は、生物としての基本的な機能以外は、ほとんど白紙の状態です。そこに、外部からどんどん情報を与える事で、その脳内に世界を再構成してやります。はじめのうちは意味も分からず、幼児はただ物を見つめ、音を聞き、体を動かすだけですが、ある瞬間、幼児の中の乱雑に積み重なっていた情報が、意味を持って有機的に繋がりはじめ、脳内にその幼児だけの世界を作りはじめます。そして人間は、そうやって作りあげた自分だけの世界を通して、外の世界を認識しはじめるのです。
だから、人間の脳は、その人をとりまくコミュニティーの構造と同じになります。

砂浜に住む生き物は、自分の体の形に合わせた孔を砂に穿って、そこに生活します。僕らも同じです。僕らは、脳にとって住み心地の良い世界を、僕らのまわりに作り出します。
厳しい自然から自分達の体を守るため、家を創ります。護身、防寒、装飾、その他30ほどの理由によって、衣服を着ます。食料を手に入れやすい土地を求めて移動し、確実に食料を手に入れるために飼育や栽培をはじめます。家の材料、服の素材、使い易い道具等を求めて、原始的な流通の仕組みが生れます。流通をスムーズに行うための輸送道具や、道が整備されます。それに合わせて、情報伝達の仕組みが発達しだします。
身のまわりを見渡してみて下さい。脳にとって不快なものは僕らのまわりから遠ざけられ、身近には、脳にとって心地よいものしか無いではありませんか。
こうして、人々の住む環境や、人々の構成するコミュニティーは、脳によって創られます。

お互いがお互いの元である。では、どちらが先なんでしょうか?・・・この二つのものの発生は、同時であると考えられています。どちらがかけても、残されたものは有効に機能しないからです。
酷く当たり前の理屈です。しかし、近年まで、こういったことに気が付く人はほとんどいなかったのです。それは、社会学と解剖学が異なる学問として別々に研究されていたからなんです。この理論に気が付いた社会学者が訴えているのは、異なる学問の研究者同士がお互いの研究を勉強しあう事で、1+1を3にも4にもしようという事なんです。こういう発表を、その社会学者は文理シナジー(相乗効果)学会で行いました。
『社会学の謎の一つに、「ムラの構造」というのがあります。人の社会は常に変化していて、人が生活している村の構造も、常に変化、進歩をしています。しかし、その構造変化は一様にはおこりません。現代社会の一端である現代の日本の農村にも、例えば江戸時代から変わらない風習というのがよく残っているのです。それが新しい社会の中でも何故消えずに残っているのか、そういう謎があります。しかし、脳生理学の成果を用いれば、この謎は簡単に解決出来ます。人の脳は、外側に大脳新皮質という高機能なものがありますが、その内側には旧皮質や脳幹といった古い構造の脳がそのまま残っているのです。だから、今の社会にも古い構造が残り続けるのです。細部の細かい状況などはもちろん色々と異なりますが、理論上、この二つは、同じ現象なのです。』
これらは、発表当時は「ヒューマンスマテリア(人物)」、今は「複雑系の社会学」と呼ばれている学説です。
今まで主に理系の分野で扱われていた複雑系という学問体系を、社会学に組み込んだ世界最初の学説です。数年前にはじめに日本語論文、ついで英語論文で発表され、世界の一部の社会学者の間でとても話題になっています。

さてさて、ここからが本題です。今まで述べてきたこのお話、すべては研究中の学説でしかありません。ですから、実はとんちんかんな大間違いであるかもしれないのです。現に、こんなのは出鱈目だ、という批判を浴びせて来る学者や、見向きもしない学者もごまんといます。
しかし、この学説は面白いのです。理論の展開をどんどん進めていくと、妖怪の話だとか、文学の話だとか、人は何故あくびをするのかとか、何故人は人を好きになるのかとか、ありとあらゆるものに、わりと簡単に答えが出てきてしまうのです。
この学説はてなしもの武器なんです。この学説を知っているのは、世界中でも現役の社会学者くらいだからです。同じ学者でも、他ジャンルの方々にはまだ全然認知されていませんし、一般にも、社会学の最新情報なんて、TVニュースレベルにまで落ちて来るには20年くらいかかります。
この学説を、物語の構造作りに利用したり、難解な文学の理解に利用したりする使用法は、おそらく、世界でまだだれも行っていません。僕だけです。実は僕、この点に関しては世界の最先端なんです。なんちゃって。

この学説を通してみると、世界は僕の知らなかった姿をいろいろと見せてくれます。世界を構成する理論を知る事で、人はより「客観」に近づく事ができます。それは科学の使命であり、究極的には「人でないもの」に至る道の一つです。
近年、また他の学者からのアプローチなどもあって、随分多角的な脳の研究が進んでいるようですが、その研究の成果を踏まえた誰かが創作の世界にそれを活かす事にやっとたどり着いた時、ううんと引き離しておいてやろうというのが、僕の目下の野望です。
まだまだ勉強しなければならない事が山ほどありますが、いつか、これを活かした他に類を見ない上質の少年少女向けファンタジー小説を上梓するつもりです。

遠い思い出

今月に入って、全然更新が行われていないにもかかわらず、随分沢山の方がこのこどものくににいらしてくれています。
いつも大した話は出来ておりませんが、見に来て下さっている皆さんに感謝の気持ちを込めて、今回は少し自分の話をしてみようと思います。多くの優しい言葉をかけて下さった皆さんや、僕の事を気にかけて下さっている皆さんに、感謝を込めて、あまり人に語った事のない話をさせていただきたいと思います。

小学校5年生の終わり頃から、僕は「考え事」にとりつかれました。何も考えないでぼーっとしていることが出来ず、とにかく、何かいつもテーマをみつけて、頭の中でこねくり回していました。ただ、当時考えていた事は、ほとんど憶えていません。おそらく、答えのでないような問題について、堂々巡りをしていたんだと思います。その状態は、小学校を卒業するまで続きました。
中学で、ちょっとしたきっかけがありました。ホームルームの時間に、担任の先生がB4のわら半紙を配って、「普段自分が考えている事を好きに書きなさい」と言いました。僕は、とりあえず机の上にあった鉛筆の話から始めて、物質の成り立ち、時間の始まりと終わり、人間の行為を何かに記録する意味等について、思い付くままに書きました。もちろん、主観と思い込みに偏った、寝言みたいな内容の文章でしたが、細かい字で紙の3分の2ほどをびっしりと埋めました。
先生は、その紙に返事を書いて返してくれました。それは、内容に関する直接の返答ではなく、僕の文章を読んでいるうちに先生の頭の中に浮かんできたという、ガンと人間の総数の関係についての話でした。先生は、その話を紙の裏側まで使って赤いペンで書き連ね、最後に、僕が行っている思考は、「哲学」というものだ、と教えてくれました。先生がとても丁寧な返事をくれたことに僕は舞い上がって、友達にそれを見せびらかしたりしましたが、それと同時に、自分の中でずっともやもやしていた物に初めて名前を与えられて、とてもすっきりした思いでした。ちなみに、その担任の先生は、若くてきれいな方でした。
僕は考え事をする事にさらに熱中し、中学一年の終わり頃には、「釈迦や孔子でも、こんなに考え事はしなかっただろう」と、今考えると傲慢の極みのような気分を味わっていました。当然その頃の僕はまだ、釈迦や孔子が何をした人か、ほとんど知りませんでしたけど。
やっぱりこの頃の僕が何を考えていたのかは、今ではほとんど憶えていません。そのB4の紙も、最近までは引き出しに入っていたのですが、引っ越しなどをしているうちにどこかに紛れ込んでしまいました。

中学2年になり、友人が小説を書いてどこかに送ったら図書券が貰えた、という話をきいて、僕も小説を書き始めました。小説を書きながら、どんどん沸き上がって来る夢想を、あちこちのノートに走り書きするようになり、やがてそれらをまとめて「ネタ帳」を作りはじめました。ほとんど毎日何かを書き留めていたそれは、そのころの僕の日記のような役割を果たしました。人に見せるかどうかが違うだけですから、今も、あの頃も、やってることはあんまり変りませんね。
さて、その頃に作りはじめたノートは、書く頻度はだんだん減ったものの今でも続いており、その量は膨大なものになっているのですが、その中に「人でないものになりたい」という一文から始まるノートがあるんです。
それぞれのノートは、思い付いた事と、それを書いた日付だけが走り書きのように連なっているだけなのですが、やはり日にちが近いと関連のある話や文脈の繋がる話が多かったりして、当時の自分の事などが思い出せたりします。しかし、その「人でないものになりたい」は、どこから出てきた考えなのか、前後の脈絡も無くさっぱりわかりません。また、日付は付いているものの、具体的にいつ思い付いた事なのか、やっぱりよく分かりません。
しかし、この言葉は、今では僕にとって一番大切な魔法の言葉なのです。

「人でないもの」に、それ以上の定義はありません。例えば、大虐殺を行った歴史上の指導者等が、「悪魔のような人」と言われる事がありますが、それは人です。「悪魔」とまで言われたら、やっとそれは「人でないもの」です。そういう、表面上のことでもあります。同様に、「あの人は天使のような人だ」は、人だから駄目です。「天使だ」ならばOK。また、身体的に、人ならば100m走で九秒代後半くらいが限界ですが、「人でないもの」ならば七秒とか、一秒とかで走れるかもしれない、なんていうのも一緒に考えてしまいます。
そして又、内面の話でもあります。人であるならば耐えられないような悲しみも、「人でないもの」ならばそよ風が吹いたほどにも感じないかもしれません。極悪非道の犯罪者を、許したりできるかもしれません。
「人でないもの」は、空を飛ぶ事が出来るかもしれないし、地中を泳ぐ事が出来るかもしれません。世界から全ての苦悩を取り去る事が出来るかもしれないし、世界の真理にあっさり気が付けるかもしれないし、不死であるかもしれません。

きっと、読んでいて「何を言ってるんだこいつは」、と思われたことでしょう。内容が支離滅裂です。論理というより、詩に近いかもしれません。
中学の頃から、ずっと、ぼんやりとこんな事を考えていたんですが、哲学や論理学なんかを少々齧った頭でまとめているうちに、これはきっと、折に触れて突き抜けた価値観を持つ、ということになるんだと考え付きました。
人は生きて入る限り人の殻から逃れられませんし、死んでからだって、周りの人から「いい人だった」とか「やな奴だった」とか人として扱われ続けるわけですが、それに捕われず、自分が限界だと思う世界からさらに外に出てみる、という思想なんだと思うのです。単純です。

チーターなら、100m走七秒は簡単です。飛行中の宇宙ロケットなら一秒もかからないでしょう。仏像や十字架はどんな罪人をも許します。本物の天使がどこかにいたら、世界の苦悩を取り去ったり、真理を知っていたり、深い悲しみに傷つかないでいられるかもしれません。
「人でないもの」なら、どれも簡単な事なんです。
これを初めて思い付いた時、僕はなにかとても哀しい思いに打ちひしがれていたような気がします。「人でないもの」に憧れることで、僕は自分が人であることを強く意識し、悲しむ自分というものを、正当化したのだと思います。

人である限り、死ぬまで「人でないもの」になろうとする努力は終わる事がありません。「人でないもの」が普遍の、例えば「神」なんかであるならば、これは怪しい宗教になってしまいますが、「人でないもの」は、この世界に存在するあらゆる物のことですから、その答えや、目指す方向は無数にあり、一つの考えに凝り固まる事がありません。同じものを目指しても、正反対の方向を向く事すらあるでしょう。
大きな目標として「人でないもの」になることを掲げ、今の自分の行動の根元にも、それを同時に存在させます。
こうして自分で分析しているうちに、これはなかなかに優れた思想ではないかと思えてきました。いくつかの矛盾を内包したまま、思想として存在しうるような気がします。もちろん、僕個人の思想としてですけどね。

「人でないもの」になるには、他人の何百倍も努力しなければならないかもしれません。反対に、思い切り怠けて、他人のお世話になり続けているうちに、ふいになれるものかもしれません。まあ、そういう人は普通、「努力した人」や「怠け者」と呼ばれますけどね。「努力した人」は、それからさらに努力を重ねても、「努力」そのものになることはできません。やっぱり「努力した人」でありつづけるでしょう。
しかし、「人でないもの」になることは、実は不可能ではありません。
歴史上には結構、「人でないもの」になってしまった人がいます。菅原道真は天神様になってしまいました。徳川家康は大権現です。日本の歴史上には、このように神様になってしまった人がかなりいます。ぐっと格が下がりますが、民話などにはよく、物や動物になってしまった人の話が出てきます。中国の歴史には、「虎になってしまった男」の話が実名で出てきます。
後の人が何らかの目的で祭り上げた。面白い話になるように脚色された。おおいに結構です。「人でないもの」になるというのは、そういう表面上のことでもOKなんですから。
自分で自分の事を「人でない」と言ったら、大抵は狂人でただの幻想ですが、まわりからそう言われる事は、事実として希に存在するのです。


「人でないものになりたい」というのは、僕てなしもにとって、一番心の奥底にある言葉です。僕の考えや行動は、すべてここから始まっていると考えてもらって構いません。その根元が、こんなにもあやふやな概念だからこそ、僕はこんなにちゃらんぽらんなわけです。
12月1日からの本格再スタート後も、今まで通りのちゃらんぽらんな、寝言みたいな話が続くと思いますが、よかったら、これからもよろしくお付き会い下さいませ。

ここから湧いて来る

当事者の一人である僕にはほとんどなんの話も無いまま、気が付くと、僕は今日から父の縁のあるお店でアルバイトをする事になっていました。
あくまでいずれかの企業への「就職」を目標に就職活動を続けていくため、日中は避け、アルバイトの時間は主に夕方から夜にかけてです。
仕事は、店番です。今日はまず品物の種類の違いを学び、レジ打ちの一部を習い、実際に少しの間だけお客さんへの対応もしました。

会社を辞めてもう七ヶ月も経ってしまいました。その間、まったくアルバイトはしませんでしたから、少々の責任を与えられ、自分の体や頭や声帯や笑顔を使って「働く」のも、七ヶ月ぶりです。
自分の体を誰かの為に動かすという事の、面倒さと、ほんのちょっぴりの充実を、久しぶりに思い出せました。
このHPをご覧になっているほとんどの皆さんは、毎日色々な場所で様々に働かれながら、お金を得て、それで電話料金やプロバイダー料金を払っていらっしゃるんだなあって、レジの前に立ってぼんやりしながら考えていました。

「職業に貴賎はない」という言葉はありますが、楽な仕事や大変な仕事というような違いはあるでしょう。僕が今日から始めたアルバイトは、間違いなく楽な仕事です。
立場が社会人であるせいか、同じ仕事をする高校生の皆さんに比べて、どうやら時給も少々良いみたいです。
それで、このアルバイトを続けていけば、来月の末にはちょっとした額のお給料が貰えるわけです。衣、食、住は実家で保証されていますから、プロバイダー料金とテレホ代とWOWOW視聴料金を合わせて7千円ほど払うだけで、あとは毎日を不自由無く暮らしていく事ができてしまいます。
なんと、楽、な立場でしょう。趣味にかけられる時間は、日中にたっぷりとあるのです。

だから、日中は色々な事をします。
読んでいない本を読みます。読んだ本を再読します。映画を観ます。雑誌に目を通します。考え事をします。胸踊るような物語を書きます。街に出て、街の空気を吸います。
贅沢な事に、読まなければいけない本、観なければ行けない映画、追わなければならない情報、考えなければならない事、書かねばならぬ物語、吸わなければならない空気、どれもが膨大な量です。幸せです。困ったものです。
あとは定期的に卒業校の就職課や企業展に出かけ、これは、と思った企業があれば、お話を聞きに行き、僕を採用してくれる企業に出会えるのを気長に待っていればよいのです。

世が不況でなかったのなら、僕はもっと早くに何処かの企業へ就職を決め、この日常を手に入れる事は出来なかったのかもしれません。
当事者としてこの上も無く平和で幸せな、そして他者や関係者から見た時にあまりにも先が不安で儚げな、こういう生活をしている人を、一般にフリーターと言うそうです。
今まではアルバイトもしていなかったので、ただの「社会不適合者」だったんですけど、この度「フリーター」に肩書きが変りました。
今自分がしている生活が本当に意味の無い物なのかどうか、それは途中で「就職」というイベントを挟みつつ、数年のうちにはっきりと証明されてしまうでしょう。僕の中にある、創作や未知の情報への餓えにも似た渇望が癒された時、僕がどれほどの結果を残す事が出来るのか。数年後、僕は人に迷惑をかけない生活をしていられるのか。親や兄弟を安心させている事が出来るのか。
自分に与えられたこの猶予期間は、そういう試練の時でもあります。さあ、色々な事を勉強するぞう。

また楽しからず也

何かを学ぶというのは、とても楽しい事です。自分の見識や、能力が上がっていくのは、間違いなく楽しい事です。
だから、学んでも自分の見識や能力が上がっていると思えない場合は、楽しいと思えないのも当然でしょう。勉強が嫌いだという人がいたら、その人が得意な事を聞いてみて、それについての勉強をしてもらえば、自分の見識や能力がどう上がっているのかとか、進歩していないにしてもその理由なんかが理解しやすいですから、やっぱりきっと勉強が楽しいという事に気が付いてくれるはずです。

勉強をすると何が楽しいのか、という事について、孔子はこう述べています。
「勉強をして、時々その身につけた事を思い出してみる。なんとも楽しい」
有名な『論語』の最初の一文です。学んだ事、身につけた事というのは、時々思い返してみて、ニヤニヤするのが正しい楽しみ方であるというわけです。
と、いうことは、「思い返す事が出来ないものは、身についたとは言えない」ということに、なりますよね?
今日の主題が何なのかといいますと、僕が、まだまだ何も勉強が身についていないという話なんです。毎日のんびりと暮らし、とても楽しい事やちょっと辛い事なんかを繰り返す中で、少し前まで自分が信条にしていたはずの大切な人生訓みたいなものを、簡単に忘れてしまうなあ、ということなんです。

今日、このページをあちこち見返しておりましたら、我ながら、なかなか良い事が述べられている個所があるではありませんか。
そう気取りもせずに、そんなに珍しくない言葉を使って、日常の事柄なんかを見ながら、少しは教訓めいた事なんかを、たんたんと述べている、そこそこに読みやすい文章がちょこちょこと有って、自分で感心してしまいました。
もともと僕はとても物忘れが激しいのですが、自分の書いたものさえもすっかり忘れていました。自分の身についていないものをこうして述べたところで、人に届くはずもありません。
これも『論語』の一節ですが、孔子の高弟の一人が毎日自分の行いを省みる事の一つとして、自分がよく知りもしないものを人に教えなかったか、という事を上げています。そのとおり、僕は自分の身についていないものを人に語ろうとしていたのです。これは、大いに恥ずべき事です。

だからといってもちろん、恥ずかしいのが嫌だから何もしない、なんていうのは、まさに愚です。こうして間違い、恥を掻くからこそ、僕は進歩し、物事を学ぶ事が出来るわけです。
このHPをはじめたお陰で、こうして自分が今どこに立っているのかという事を、日々確認する事が出来ています。道を逸れそうになっても、自分の辿ってきたものを見返して戻る事が出来るわけです。このHPを初めてよかった。心からそう思います。日々増えていくこのHPの内容を見ていくのは、とても楽しい事です。
これからも、記憶力の悪い僕のメモリーの一部として、このHPを更新していこうと思います。

乱筆乱文御免

大学の就職課に顔を出してみたら、気になる求人があった。地元の広告代理店のもので、既卒者もOKというものだった。
まず履歴書、健康診断書などの書類を郵送し、しかる後に面接の日取りを連絡するということだったので、さっそく応募締め切り日を見ると、なんと10月30日と書いてある。郵送したのではとても間に合わない。
とりあえず、慌てて公衆電話に走り、その会社に電話をしてみると、人事担当者が外出していた。急な事で申し訳ありませんが、求人の事でうかがいたい事がありますとお願いしてみると、なんと代表取締役さんが電話に出てくれた。既卒でもいいのか、何とか書類を数日遅れでも受け付けてもらえないかと伺ってみると、明日に書類が揃うなら、という返事。
一度電話を切り、大学で手に入る書類をすべて手配して、再び公衆電話へ。明日の昼には揃えられます、健康診断書は、これから町医者に飛び込みますと告げると、それならば、明日○○時に会社に来て下さい、特別に一時面接を行います、と有り難い声が。
そのまま電話口で住所氏名電話番号意気込みその他諸々を質問されるままに答え、ボックス内で何度も頭を下げて一路自宅へ。
万一診察時間が終了していてはならぬと、バス、地下鉄、電車の乗り継ぎを駆け足で行い、地元の病院の前まで来てみると、なんと夕方の診療開始まで、あと二時間もあった。
自宅に戻り、保険証を用意して、それからインターネットでその会社の事を検索してみると、HPはみつからないものの、関連のプロジェクトからE-mailアドレスがわかったので、先ほどのお礼と、明日の意気込みをメールする。こういうのは、ポイント高いだろうか?
この時、せっかくネットに繋いだんだからと、昨日行けなかった、僕が常連をしているある会議室を覗いてみたら、昨晩は大変な事があったことがわかり、冷や汗をかく。昨晩そこ常駐していた何人もの信頼出来る友人のお陰で、大事には至らないまま和解状態になったようだったが、これは今晩は万難を排して覗きに行かなくてはなるまい。結果的に明日に響くことになろうとも、僕にはその会議室に対する責任があるのだ。

その後、病院で健康診断書を受け取り、自宅に帰って履歴書の文面に悩む。正直、今日知ったばかりで、先方がどんな会社かわからないのだ。(社是は、「ナンバー1よりオンリー1」だそうで、こういうのは好きだ。)

なんだかいつもこんな事をしている気がする。
成長が無いなあ。

三本

99年秋の水曜日。夕方6時から、まずはテレビ東京系列のチャンネルを見て下さい。きっと、至福の一時間半があなたに訪れます。今日、僕には訪れました。


一番手は「無限のリヴァイアス」という作品です。
今時珍しい本格SFアニメだ、という噂は聞いていたのですが、とりあえず、見るのは今日が初めてでした。そして、見てびっくり。これは僕が今まで見た事の無いジャンル、言うなれば「群集劇アニメ」です。すでに数回の放映が済んでしまっているのではっきりとは解らないんですが、舞台は難破した巨大宇宙船の中、どうやら大人達は先に死んでしまったようで、そこで数百人の少年少女が生きていくという物語のようです。数百人です。主人公とその友人や幼馴染の作っている主人公グループ、どこか陰があって主人公と反目しあっている様子のライバルのグループ、一応、少年少女達を束ねようとしている比較的年齢の高いリーダーグループ、ただの反骨的な少年少女のグループ、リーダーグループの言う事すら聞かない不良グループ、そして、グループは形成してはいないものの、時折群集の中でピックアップされる何人もの個人たち。それぞれのグループの構成員は無個性化されておらず、丁寧に、のびのびと人物描写がされています。恐ろしいほどの人数がそれぞれの意志を持って動く、群集劇です。
そして、ストーリー設定も巨大です。一つ一つ、場面の説明や演出はとても丁寧なのに、そう簡単には作品全体が把握出来ません。良質なSFには、よくそういうことがありますし、それを乗り越えるとその作品世界の楽しさがわんさと押し寄せて来るものです。少年少女の乗った宇宙船は、もっと大きな宇宙船「リヴァイアス」に接舷している事が判明し、助けが来るまで居住性を考えてそちらに移る事になります。しかし、そもそもの難破に至る原因が何だったのか、多くの少年少女は知りません。実は、それは事故などではなく、何者かが大人達を殺してしまったのであり、故意にそれは引き起こされたのです。そして、数百人の中の、主人公も含めた数人の少年少女だけは、実はそれを知っています。少年少女達はリヴァイアスの中で林間学校のような楽しげな共同生活をスタートさせますが、それは、ほんの小さなきっかけでパニックに陥ってしまったり、もしくは、また何者かの手によって事故が起こされてしまうような、危ういバランスの上にあるのです。なんせ宇宙空間であり、また、多くの「人間」がそこにいるのですから。
次の瞬間何が起こるか解らない、本物の緊張感があるアニメです。この作品を「十五少年漂流記・宇宙版」などと言い切る事はできません。この作品が作り出している「極限状態」は、時に醜く、時に美しく、すでにどんな人間の姿を描く事も出来ます。目を逸らしてはなりません。


6時半からは、「ビーストウオーズ・メタルス」が始まります。こっちは、「リヴァイアス」以上に集中力を必要とするアニメです。一瞬でも気を逸らせば、その間に一つ、アドリブやギャグを見落とす事になります。
もともとの映像素材はアメリカ産の、フルCGアニメです。そこに、日本の声優さんが吹き替えを当てているのですが、これが抱腹絶倒ものなんです。前後の流れに関係無く、いきなりその場面だけを捉えてギャグがかまされます。ストーリーなんて、とっくに破綻していますが、お構いなしです。日本語版の台本を作っている人は、間違いなくこのフルCGアニメを舐めてます。一応、物語は進行しますが、そもそも元の英語版と同じ話なのかどうかも定かではありません。マンガの吹き出しの部分を違う言葉に書き換えて遊ぶのと同じ事をしているのでは、と疑いたくなるほど、話がめちゃめちゃです。
そのギャグのほとんどは、アドリブです(断言)。あんな訳の分からん発言の山、脚本でかける人いません。ライブ感覚で楽しめるという、極めて異質なアニメなんです。
はじめのうちは、何を笑ったら良いのか分からずにパニックになってしまうかもしれませんが、じきに解ってきて、笑い転げて貰えると思います。とりあえず、「破壊大帝デストロン(声・千葉繁)」の、粋な悪党っぷりを楽しむ所からはじめると良いでしょう。


三本目は、視聴出来るのが衛星放送受信設備を持つ方に限定されてしまいます。お持ちの方は、7時になる前にBSチューナーのスイッチを入れて下さい。BS-5で無料視聴できるロボットアニメ、「THEビッグオー」がはじまります。
「リヴァイアス」は工夫が凝らされた極限状況を演出する「からめ手アニメ」、「メタルス」がアニメの極北「異端アニメ」とするならば、「ビッグオー」は「正統派アニメ」です。主人公が少年ではなく大人の男性なので、「ロボットーヒーロー王道アニメ」とまでは言い切れませんが、派手なアクションと一話完結型のストーリーの織り成すこの作品の完成度は、過去に名を残す名作アニメ達と比べてもなんら遜色ないものでしょう。
ここ数年、アニメーションは深夜枠などにも進出し、多くの作品が僕らの前に現れました。その中には、すでに伝説化すらしつつあるような名作もありましたが、何話見ても面白いと思えないような、あきらかにいいかげんな作りのアニメもありました。「いいかげん」というのは、要するに「丁寧でない」ということです。ところで、今日放送分の「ビッグオー」の中に、こんなシーンがありました。

山小屋に一人で住んでいる老人の元にやってきた主人公、ロジャー・スミスが、自らフライパンを持って、朝食のスクランブルエッグを作っています。
「僕の作るスクランブルエッグも、捨てたもんじゃないですよ」
テーブルの上には、すでに炒められたベーコンが、二枚の皿にのっています。よく見ると、そのベーコンは結構焦げています。
出来上がってきたスクランブルエッグを、老人は一口食べて、黙り込み、そしてテーブルの上の調味料をやたらと振り掛けてから再び食べます。
それを見て、ロジャーは溜息をつきます。

このシーンだけでも、ロジャーと老人の関係や、その性格がいろいろとわかります。カリカリになるまで炒めた方が、ベーコンが美味しくなるということをロジャーは知っていて、丁寧にそれをしました。ベーコンから染み出した油は、次のスクランブルエッグを炒める油にもなります。その手際の良さから見て、ロジャーは決して料理が下手ではありません。しかし、老人はロジャーの味付けが気に入らないとばかりに調味料で味を変えてしまいます。その意地っ張りなところを見て、ロジャーはこれは打ち解けるのは大変だぞ、と、溜息をついたわけです。
こういう数秒のシーンに、脚本と画面演出の労力が惜しげなく注がれています。こういった丁寧さは、ドラマシーンの後の巨大ロボット・ビッグオーの登場するアクションシーンにも引き継がれます。
OPを見るとわかりますが、この作品は往年の特撮映画にかなりインスパイアされているようで、アクションシーンも、ロボットアニメよりは怪獣映画の系譜を強く感じます。とにかく巨大なロボットが、これまた巨大な敵とどったんばったん戦います。奇を衒わず、しかしその効果を考え抜かれたカメラアングル、時折入るシルエットだけの画面などは、まさに作品としての完成度を重視するプロフェッショナルの技です。
声を大にして、僕は多くの人にこのアニメを見ろと叫びたい。これが、過去の達人達に劣らない、現代に生まれた職人芸の姿だと。


だから、水曜の夕方はTVに釘付けです。夕食時と重なりますから、ゆったりと全部を見るというのは難しいですが、6時から7時半までの間に、TVアニメの面白さが凝縮されたような三本の作品が、電波に乗って日本中に送られています。ビデオにとってでも見たいです。
三本の中では、最初の「リヴァイアス」が一番面白さの分かり易いアニメだと思いますが、一度くらい、三つ続けて見てみることをオススメします。現代のアニメーションの多様性が、この90分間で感じ取れることと思います。